ハナンエルの福音
ハナンエル書

終わりの日の預言
主の聖所祭礼日程


       
西暦1999年の第7の月(秋)、主なる神はわたしに
「終わりの日の幻」を伝えなさいと言われました。
「終わりの日の幻」は、これから起こることを
主イエスがお与えになったものです。

 もはや残された時は永くありません。
それは世にとっては災いの日。いまや聖書の真相を
失われたイスラエル(主の民)に伝える時がきました。
 これから安息日ごとにその真相を発信していきます。

はじめに

創世記1章〜50章
    (最下部を参照ください)


   
 
 はじめに
                
 世の終わりは、世界中から毒麦を集めて火で焼き、良い麦だけを残すために訪れます。それはノアの洪水の時と同じ意味をもちます。
 注目すべきは、次の一節です。

 
「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世界の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまづきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳ある者は聞きなさい。」(マタイ13:36〜43)

 「人の子は天使たちを遣わし、つまづきとなるものすべてと不法を行う者どもを『自分の国から』集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる、というところです。「人の子」の自分の国とはキリストの国、つまりキリスト教国やユダヤ教の国々、イスラエルも例外ではないでしょう。

 「つまづきとなるもの」は、人の子の自分の国にある、と主は言われます。「つまづく」とは、道(主イエス)を歩んでいる人が、何か(教会の間違った教えや聖書の中の言葉、あるいは主イエスそのお方)に、つまづいて転ぶことをさすからです。神と無関係の生活をしている人たちは、そもそも道(主イエス)を歩んでいませんのでつまづくこともありません。もとより道を知りもせず、迷って世を這っているのです。

 「不法を行う者ども」は、「自分の国」にいると主は言われます。 「不法を行う」とは、神の法に反することですが、神の法とは何でしょうか? それは律法です。主イエスは次のように言われました。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
(マタイ5:17〜18)

 主イエスが来られた当時のイスラエル(ユダヤ教徒)は律法をゆがめて不法を行っていました。それを主イエスは、あるべき正しい律法へと立ち戻らせようとされたのです。ところがパウロ以来、キリスト教は律法そのものを破棄してしまい、キリスト教はユダヤ教以上に不法を行っています。
 
 そうすると「道」はどこにあるのでしょう? 毒麦に覆われた畑の中に入って、毒麦を食べていたのでは「道」を見出すことはできません。毒麦に覆われた畑の中から宝を見つけるように、良い麦を見つけ出さなければなりません。ではどうすれば毒麦の畑の中から良い麦を見つけ出すことができるのでしょうか?

 主イエスは、それは実によってわかると教えられています。実とは、毒麦が蒔かれている聖書の中から、正しい真実を悟り、封印されている謎を解き、隠されている奥義を理解している人のことです。それを見つけることができれば「道」を見出すことができ、道を歩むことができ、良い麦となり、良い実を実らせることができるのです。

 聖書はそもそも、主イエスが教えておられるように、理解すべき者だけが理解することができるように“たとえ”で書かれている箇所が多く、その上、時が来るまで封印されている謎や、あえて隠されている奥義もあります。また、地上界のみならず、天上界の情景も描写されているため、簡単には理解し難い内容が多く含まれています。 そのため、翻訳された聖書だけでなく原典を読み比べること、その上で「たとえ」や「比喩」、「天上界の理解」、そして「隠されている奥義」の解明などが必要となります。そのためには、単に人間的な神学的見解のみならず、天上的な霊的解釈がなければ正しく読み解くことはできないものといえます。
 では正しく読み解くことができたと言える根拠(証明)は、どのように確かめることができるでしょうか?
 それは@聖書全体を一貫して矛盾なく通じる解釈であること、A主イエスが話された言葉と一致していること、B主イエスの教え=「律法と預言者(預言書)」と一致していること、以上によって証明されると言えます。

 そのようなことが可能でしょうか。従来、キリスト教界では、それを求めてはいながらも到底、不可能なこととして諦められ、その諦めの上に人間的な神学的解釈のみが積み重ねられてきました。当然、その神学は矛盾だらけであり、聖書全体を一貫しておらず、たとえの解釈は浅く、天上界の秘儀については全く不可知で、人々が求める聖書の解釈を満足することができないできました。

 旧約聖書と新約聖書が一体化しているキリスト教会の聖書は、ローマ教会によって編纂が始まりました。それはローマ教会が世に権力を誇示する背景の重大な布石としてなされたものでもあります。
 初期のキリスト教徒は数多くの福音書や使徒たちの指導によって、各々の形態をもっていました。それは12使徒たちが主イエスから直接、聖書の奥義の解釈を受けていたからです(聖書には12使徒たちが主イエスからその教えを受けたことは書かれていますが、その内容については書かれていません)。
 ところが12使徒ではないパウロのローマ教会は、12使徒たちが主イエスから受けた教えではなく、パウロの説法や手紙を中心に教義や信仰、教会の形態を作り上げていきました。そして「聖書」を編纂したのは、このローマ教会なのです。
 聖書を編纂したことによってローマ教会は、編纂から外した福音書を「外典」「偽典」として排除し、同時に数多くあった教会を次々に迫害して、キリスト教界における中心的権力を握ることに成功したのです。

 しかも、この聖書は永いキリスト教の歴史の中で多くの人の手によって書き換えられてきました。そしてキリスト教の布教と共に各国の言葉に翻訳されてきました。その結果、翻訳者や編纂者によって正しい意味が伝えられなくなってしまった部分も数多く存在します。そもそも翻訳は原典を正確に伝えることは不可能であると言わざるを得ず、そのことについては紀元前2世紀(主イエスが生まれる前)、旧約聖書 続編に編纂されている「シラ書」に次のように指摘されています。
 「元来ヘブライ語で書かれているものを他の言語に翻訳すると、それは同じ意味合いをもたなくなってしまうからである。この書物だけではなく、律法および他の書物でさえも、いったん翻訳されると、原著に表現されているものと少なからず相違してくるのである。」

 さて、このように数多くの誤謬や、偏った見解に基づく編纂、権力者の介入による曲解などが覆ってしまっている聖書ですが、それでもなお、この聖書の中には間違いなく神の言葉と救世主の言葉、そしてあらゆる真実が宿っているのです。まさに、毒麦が良い麦を覆っているのが現在の聖書です。この聖書から、人類が求める救いを見出すことは容易なことではありません。
 しかしながら、神はこうなることを予期された上で、キリスト教会の手によって世界の隅々までこの聖書を広めさせたのです。そして、この聖書の毒麦をかき分けて宝を見出す者たち、「道」を見出し、その道を歩む者を求めておられます。
 その者たちこそ、終わりの日に召集される「主の民」であり、終わりの日に神の使命を果たすために用意された人達なのです。          
                           
創世記の真相  

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