安息日の礼拝  創世記の真相

創世記11



                             
11:1-4
 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを。しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

 
ヘブライ語原典では「全地は一つの言語で、言葉が一つであった。彼らが東から移動したとき、彼らはシンアルの地(バビロニア全域、シュメール)で低地を見つけ、そこに定住した。彼らは言った。『さあ友よ、私たちは煉瓦造りをしよう。煉瓦を火で焼いて焼き固め(より強固なものとし)よう。』 こうして彼らにとって煉瓦が石(の代わり)となり、しっくい(赤粘土、モルタル)に代わって瀝青(アスファルト)が彼らにとって材料になった。彼らは言った。「さあ、私たちは私たちのために町を建てよう。そして、その頂きが天の中にある塔を造ろう。私たちのために、私たちが散らされないように、全地の面の上に名を上げよう。」です。

 
ノアと息子たちの家族は、アララト山脈がある現在のトルコの低い山地に、ぶどう畑を拓いて住んでいたようですが、子孫たちは各地に拡がっていきました。その中で、南下していった人々が、やがて西に向かい、チグリス川とユーフラテス川が流れるバビロニア地方(現在のイラク)の平野を見つけて、そこに住みました。
 彼らは町を建て、頂きが天の中にあるような塔を造ろうと、建設に着手しました。彼らは町と塔の建設に当たって煉瓦造りを思い立ち、アスファルトを用いて建築を始めました。
 彼らが塔のある町を造り建てようとした背景と、彼らの動機について、聖書からは詳しくを知ることができませんが、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』に次のように記されています。

 「彼らが最初に落ち着いた平原はシナル(シンアル)と呼ばれた。
 さて神は彼らに、もし人口が増加したら、そのときはどこかよその地に植民し、互いに争ったりしないで、もっと広大な土地を耕してさらに豊富な作物を獲得するよう忠告された。しかし、無知な彼らは神の言葉に従わなかった。その結果、彼らは大きな災禍に見舞われ、自分たちの罪を痛切に悟らねばならなかった。
 彼らの間に年頃の青年たちが増加したとき、神はもう一度、植民を行うよう彼らに勧められた。しかし彼らは、自分たちの現在の幸福が神の慈悲によるものであるとは考えず、その繁栄がすべて自分たちの力によるものだと思い込み、神の言葉に従わなかった。それどころか、彼らは神の御心に疑惑さえ抱いたのである。すなわち、神が彼らに植民をせきたてるのは、彼らを二分して制圧しやすくするためである、と疑ったのである。神に対し、このような思い上がった侮辱的な行為に出るよう彼らを扇動したのは、ノアの子ハムの孫で、強壮な体力を誇る鉄面皮人のニムロドだった。彼は人々を説得して、彼らの繁栄が神のおかげではなく、彼ら自身の剛勇によることを納得させた。そして神への畏れから人間を解き放す唯一の方法は、たえず彼らを彼自身の力に頼らせることであると考え、しだいに事態を専制的な方向へ持っていった。
 彼はまた、もし神が再び地を洪水で覆うつもりなら、そのときには神に復讐してやると言った。水が達しないような高い塔を建てて、父祖たちの滅亡の復讐をするというのである。
 人々は、神に従うことは奴隷になることだと考えて、ニムロドの勧告を熱心に実行し、疲れも忘れて塔の建設に取り組んだ。」

 ニムロドはその祖父であるハムが彼の兄弟にしたように策略を企てる能力、言葉巧みに人を洗脳する能力を受け継ぎ、自身の支配欲のためにその能力を悪用したことがわかります。
 ニムロドは創世記10章で見たように、シンアル後にバベル(バビロン)、ウルク、アッカド等の町々を造り、さらにそこからアッシリアに進んで、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンの町々を建てました。ニムロドが実行したのは、世界初の、自身をトップにした世界統一のための政治的・宗教的な連合組織の試みでした。「全地の面に名を上げる」とは、人が自分の名を神の名よりも上に上げて、神の上の神になろうとすることです。この企ては、神への反逆でした。
 このニムロドの行動に大きく影響を及ぼしたのが、その実母セミラミスの存在です。ニムロドの母セミラミスは当時、世界でもっとも美しく、また堕落した女性でした。来るべきメシヤの預言を知っていたハムの長男クシュは、妻セミラミスによって子を設けました。クシュとセミラミスは、その子ニムロドこそメシヤだと人々に思い込ませようとしました。そしてクシュは死ぬ時、子であるニムロドとその母セミラミスを結婚(近親相姦)させたと言われています。ニムロドは人々から神として崇められ、クシュもニムロドの父として崇められ、母セミラミスは『天国の母』として崇められるようになっていました。
 ニムロドの妻は、偶像崇拝をはじめた女祭司でした。彼女は「奇跡的に妊娠した」と主張してタンムズという息子を産み、「彼こそ民の救い主である」と宣言しました。その宗教は全地に拡がり、人々は「天の女神が救い主であるわが子を抱いている像」(実はニムロドの妻が息子タンムズを抱いている像)を拝むようになりました。
 ニムロド以来、「天の女神像」を信奉するようになった者たちについて、聖書は次のように記しています。

「ユダの町々、エルサレムの巷で彼らがどのようなことをしているか、あなたには見えないのか。子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、天の女王のために献げ物の菓子を造り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、わたしを怒らせている。」(エレ7:17-18)

「自分たちの妻が異教の神々に香をたいているのを知っている男たち、そこに多く集まってい合わせている女たち、更にはエジプトの神エジプトに住む人々がこぞってエレミヤに反論して言った。『あなたが主の名を借りて我々に語った言葉に聞き従う者はない。我々は誓ったとおり必ず行い、天の女王に香をたき、ぶどう酒を注いで献げ物とする。我々は、昔から父祖たちも歴代の王も高官たちも、ユダの町々とエルサレムの地またでそうしてきたのだ。我々は食物い満ち足り、豊かで、災いを見ることはなかった。ところが天の女王に香を焚くのをやめ、ぶどう酒を注いでささげなくなって以来、我々はすべてのものに欠乏し、剣と飢饉によって滅亡の状態に陥った。また、女たちは、『わたしたちが天の女王に香をたき、ぶどう酒を注いでささげていたとき、天の女王の像をかたどったパンを供え、ぶどう酒を注いでささげたのは、夫も承知のうえのことではなかったでしょうか』と言った。」(エレ44:15-19)

「彼はわたしを、主の神殿の北に面した門の入り口に連れて行った。そこには、女たちがタンムズ神のために泣きながらすわっているではないか。」(エゼ8:14)

 古代史研究家たちは、これらに見る母子像崇拝とイスラエルの一部の民によって行われたバアル崇拝は、ニムロド崇拝やタンムズ崇拝と同一であったとし、カトリックのマリア崇拝や聖母子像、仏教における慈母観音像などの母に抱かれた子の像は、バビロンの母子礼拝が原型となっていると指摘しています。
 「バアル」とは柱のことも意味しており、英語の"Bar"(バー)と同じです。バアル教では、ニムロドのシンボルはX十字(エックス十字)です。このマークはニムロド崇拝者のシンボルで、”Xmas“の本当の意味はニムロドの誕生を祝うことなのです。
 このバアル教は、長い歴史の中で1つのゴールに向かっています。バアルによってコントロールされる「世界を統一する宗教的、政治的な連合組織」です。これは世界中のあらゆる宗教・政治・言語を1つにしようという試みで「グローバリズム」と呼ばれています。



11:5-9
 主は降って来て
、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

 ヘブライ語原典では「主は、人の子孫たちが建てたその塔とその町を見るために、下った。そして主は言われた。『見よ、彼らは一つの民で、皆一つの言語を話す民だから、彼らがこれを造ることを始めた。今や、彼らが造ることを企てたすべてのことを、彼らから止められない。さあ、私たちは降ろう。そして、そこで人が彼の友の言語を聞かないよう、彼らの言語を乱そう(=互いが話す言語が理解し合うことができないようにしよう)。』 そして主は、そこから彼らを全地の面に散らされた。こうして彼らはその町を建てることを止められた。それゆえ彼は、その名をバベルと呼んだ。なぜなら、主が全地の言語をそこで乱した(バラル)からであり、また主がそこから全地の面の上に彼らを散らしたからである。」

 ニムロドは、一つの言葉を話していた民を互いに「友(兄弟、ブラザー)」と呼び合わせ、言葉巧みに仲間意識をあおって連合させ、地上に「塔のある町」を建設していたところ、主は地に降って来て、彼らの言葉を乱しました。それによって彼らは互いの意思の疎通ができなくなり、建設をやめ、全地に散らされました。それがバベルの語源です。この後、バベル(バビロン)という言葉は、神への反逆の代名詞として聖書に度々登場するようになります。



11:10-26
 セムの系図は次のとおりである。セムが百歳になったとき、アルバクシャドが生まれた。それは洪水になった二年後のことであった。セムは、アルパクシャドが生まれた後後百年生きて、息子や娘をもうけた。
 アルパクシャドが三十五歳になったとき、シェラが生まれた。アルパクシャドは、シェラが生まれた後四百三年生きて、息子や娘をもうけた。
 シェラが三十歳になったとき、エベルが生まれた。シェラは、エベルが生まれた後四百三年生きて、息子や娘をもうけた。
 エベルが三十四歳になったとき、ペレグが生まれた。エベルは、ペレグが生まれた後四百三十年生きて、息子や娘をもうけた。
 ペレグが三十歳になったとき、レウが生まれた。ペレグは、レウが生まれた後二百九年生きて、息子や娘をもうけた。
 レウが三十二歳になったとき、セルグが生まれた。レウは、セルグが生まれた後二百七年生きて、息子や娘をもうけた。
 セルグが三十歳になったとき、ナホルが生まれた。セルグは、ナホルが生まれた後に百年生きて、息子や娘をもうけた。
 ナホルが二十九歳になったとき、テラが生まれた。ナホルは、テラが生まれた後百十九年生きて、息子や娘をもうけた。
 テラが七十歳になったとき、アブラム、ナホル、ハランが生まれた。

 
セムの子孫の系図は10章にありましたが、ここで書かれているのはセムからアブラハム(アブラム)へと繋がる系図です。セムから数えてアブラハムまで10代です。
 アダムから10代のノアのとき、神様は大洪水によって全地と生き物を一掃し、新たな世界の開始を期されましたが、ハムの失敗により、さらに10代を経なければなりませんでした。
 そのアブラハムは、ノア・ハム・カナンが3代かけて成すべきだったことを成す必要があっただけでなく、ハムの失敗を元がえしし、カインの罪を元がえしし、アダムとエバの罪を元がえしする必要がありました。そうしないと、創造本来の世界を取り戻すことはできないからです。
 しかし、それだけではありません。他の民が洪水で一掃されていたノア・ハム・カナンのときとは異なり、全地には神に逆らう罪の民が満ちていました。そして、神に逆らう民たちが諸国、諸民族、あらゆる都、町々を全地に造っていたのです。ノアから10代を経たアブラハムの時代には、全地は神に逆らう人々で満ちていました。



11:27-32
 テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。アブラムとナホルはそれぞれ妻をめとった。アブラムの妻の名はサライ、ナホルの妻の名はミルカといった。ミルカはハランの娘である。ハランはミルカとイスカの父であった。サライは不妊の女で、子供ができなかった。
 テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。

 アブラムの父テラは、カルデアのウルに住んでいました。ウルはバビロンの東南約240km、ユーフラテス川の川床にあります。1922年から1934年にかけて英国の考古学者レナード・ウーリー卿がユーフラテス川の西岸にあったテル・エル・ムカッヤール(歴青の塚)がウルの遺跡であることを証明しました。ウルは世界貿易の中心地として隆盛を極めていた都で、高度に文明化が進んだ都市であったことが明らかになりました。今でも、縦61m、横46m、高さ21mほどのジッグラトが、その遺跡の際立った特色となっています。


     ≪ウルのジッグラト復元図≫

    三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所がありました。
    基幹構造は日乾煉瓦、外壁はアスファルト(瀝青)で
    仕上げられていました。

 発掘者たちはウルの王墓に金、銀、ラピス・ラズリや他の高価な物品を数多く見つけたほか、その都市の初期のシュメール人の王や女王たちが従者たちと一緒に埋葬された証拠を発見しました。そこで発見された粘土板によると、そこには文字と算数を教える学校もありました。さらに、個人の家と思われるものの遺跡は煉瓦でできており、しっくいと水しっくいが塗ってあり、舗装された中庭を囲むようにして多くのの部屋があったことを示していました。ウルの建築家たちが、円柱・アーチ・丸天井・ドームなどを使用したことも分かりました。またウルの職人たちは、宝石、たて琴、純金の刃でできた短剣などを製造しており、家屋から陶製の下水管も発掘されました。
 レナード・ウーリー卿は、自著『過去を掘り起こす』の中で「これまでアブラハムと言うと、ただの天幕生活者と考えがちであったが、実は、都会の洗練された煉瓦造りの家に住んでいたのかもしれない」と書いています。また考古学者のアラン・ミラードは、自著『聖書時代の遺物』の中で「アブラハムは、高度に発達した都市と、そこで得られる安全で快適な生活すべてをあとにして、立場の低い遊牧民になったのである」と述べています。アブラハムの故郷であるウルという都市について、歴史家たちは長い間疑念を表明してきましたが、聖書の記述が正しいことが証明されたのです。
 
 カルデアのウルに住んでいたテラの息子たちは、アブラム、ナホル、ハランでした。ハランには息子ロトと娘ミルカとイスカが生まれましたが、父テラより先にカルデアのウルで死にました。
 アブラムはサライと結婚していましたが、サライは不妊で子供がいませんでした。ユダヤの伝承ではサラの別名がイスカとも言われていますが、アブラムはサライについて創世記20:12で「わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それでわたしの妻となったのです。」と言っています。これが事実であれば、アブラムとサライは異母兄弟です。
 ナホルは姪のミルカと結婚し、息子・娘たちをもうけますが、その息子ベトエルの息子がラバンで娘がリベカです。リベカは後にアブラムの息子イサクの妻となり、兄エサウと弟ヤコブの双子を産みます。
 テラは、息子アブラムとその妻サライ、そして死んだ息子ハランの子ロトを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かいました。一行はハランの地まで来ると、そこに留まり、テラはその地で亡くなりました。
  



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