安息日の礼拝  創世記の真相

創世記12章




12:1-3
 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し あなたの名を高める 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

 ヘブライ語原典では「主はアブラムに向かって言った。『お前の国から、お前の故郷から、お前の父の家から、わたしがお前に見せる地に向かって行け。わたしはお前を大きな民族にする。そしてお前を祝福し、お前の名を大きくしよう。お前は祝福(の基、源)となれ。わたしはお前を祝福する者たちを祝福しよう。しかしお前を軽んじる者をわたしは呪う。土地のすべての家族は、お前によって祝福される」です。

 アブラムはノアの息子セムから数えて10代目の子孫にあたります。ヨセフスの『ユダヤ古代誌』には、アブラムについて次のように記されています。

「彼はすべてのことに精通し、聞き手を説得することが巧みで、またものごとを推理して誤ることがなかった。そこで彼は、徳についても、他の人たちよりすぐれた見解を抱きはじめ、神について一般の人びとがもっている通念を新しくし、改めようとした。その結果彼は、次のように大胆に宣言した最初の人物となった。すなわち、万物の創始者である神はただ一つであり、また、他のものが人間の幸福に少しでも貢献するとしても、それはそれぞれのものが神の命令に従うからで、決してそれ自身の内的な力によるからではない、と。
 彼はこのことを、地や海の変化、太陽や月の運行、そしてその他すべての天体の現象から推論した。
 彼の論法によれば、これらの天体がある力をもっているならば、それ自身の法則をもっているはずである。しかし、それがないのだから、それらのものが共働きしてわたしたち人間のために与えてくれる大きな恩恵は、それ自身のもつ献木によるものではなく、それらのものに命令する方の力によることは明白であり、したがって、わたしたちの崇敬と感謝はその方にだけに捧げるのが正しいことになる、というのである。」

 またギリシャのペーローソスは、アブラムについて「洪水後の第10代目の者たちの中に、天体の知識に詳しい一人の偉大な義人が、カルデア人のもとにいた。」と記載しています。

 映画などではアブラムは遊牧民として描かれていますが、実際のアブラムはカルデアの大都会ウルの中でも、最先端の自然科学を身につけた、先進的な人物でした。そして同時に預言者でもありました。「わたしがお前に見せる地に向かって行け。」という神様の言葉は、神様がアブラムに幻でその地を見せたことを意味しています。
 アブラムの家族は、大都会での生活を捨て、地位も名声も捨てて、神様が示された地に向かったのです。聖書には、いとも簡単なことのように書かれていますが、誰にでもできることではありません。しかしアブラムとその家族にとっては、当たり前の行動だったでしょう。
 それでもアブラムはハランを出発し、カナンの地へと出発しました。神様は「父の家を離れて」と言われましたが、それは父テラがとどまったハランを示しています。創世記11章28に「ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ」と記されていました。
 
 神様はアブラムを大きな民族にし、アブラムを祝福し、アブラムの名を大きくすると言われました。新共同訳では「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と訳されていますが、「大いなる国民」だと、どういうことが「大いなる」なのかが曖昧です。そうではなく「大きな民族」です。また「名を高める」も、この訳ではニムロドたちと同じになってしまいます。神様はそのようなことは言われていません。名を高めるではなく「名を大きくする」です。
 神様が「大きな民族」と言われたのは、子ができなかったアブラムに、あなたには子が産まれ、それどころかあなたの子から産まれる子供たちは、やがて大きな民族になるのだ、と約束されているのです。そして、その子孫たちは皆、アブラムから出た一つの民族となるので、アブラムの名はその民族と共に大きくなる、と言われたのです。
 神様はまた、アブラムを祝福する人を祝福し、アブラムを呪う者を呪うと言われました。神様が人に対して使われる場合の「祝福」の意味は、「救済に満ちた力を付与する」ことです。創世記1章で第7の日を祝福されたのは人に対してなされたものではなく、対象が異なるため意味合いが異なります。また「アブラムを祝福する人」というのは、神が人を祝福するのではなく人が人を祝福するのですから、これも少し意味が異なります。

 「アブラムを祝福する人」というのは、「アブラムの神」と共にいるアブラムに対して何らかの恵みを与える人のことです。その人に対して神様は「救済に満ちた力を付与する」と言われているのです。
 神様は「土地のすべての家族はおまえによって祝福される」と言っています。それは、アブラハムが入る土地において「アブラムが祝福する家族」や「アブラムを祝福する家族」を神様は祝福され、「アブラムが呪う者」や「アブラムを呪う者」を神様は呪う、ということです。アブラムは神様から祝福されただけでなく、人を祝福する権威を神様から与えられた人でもあります。このアブラムに与えられた権威は、それまでと違って異邦人に対しても与えられ得る祝福です。ただ、その異邦人はアブラムの神を認めて祝福する異邦人に限られます。ですので、その異邦人は純粋な意味での異邦人ではなく、アブラムの神を認める異邦人ということです。そして、アブラムの神をアブラムと共に信仰するようになるならば、もはや異邦人ではありません。



12:4-6
 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人びとと共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。


 ヘブライ語原典は「アブラムは主が彼に語ったように行った。そしてロトが彼と共に行った。アブラムがハランから出た時、70年と5年の歳だった。アブラムは彼の妻サライと、彼の兄弟の息子ロトと、彼らが得た彼らの財産すべてと、ハランで彼らが造った魂と共に、カナンの地に行くために出掛けた。そしてカナンの地に来た。
 アブラムはその地を通り過ぎて、シケムの場所、モレの樫の木まで来た。その時、その地にはカナン人が住んでいた」です。

 新共同訳聖書で『ハランで加わった人びと』と訳されているのは、ヘブライ語原典では「ハランで彼ら(アブラムとサライ)が造った魂」です。
 ニムロドによるバベルの塔の建設が、神様が人々を全地に散らされることによって挫折した後、カルデアの地には主にセムの子孫たちとハムの子孫たちが住んでいました。『ユダヤ古代誌』から分かるように、メソポタミアではカルデアにもダマスコのハランにも、神様を信じようとしない人々が優勢になっていました。
 アブラムとサライは、彼らが信奉していた自然科学の知識にも彼ら以上に精通していたばかりでなく、生きて働かれる神様を知っていました。そしてアブラムとサライは、彼らの考えを改めようと務めていました。しかし、アブラムやサライが信じる「生きて働かれる唯一の神」をカルデアの人々は受け入れようとはしませんでした。
 しかし、カルデアを旅立ってダマスコのハランの地に留まってときは、そうではありませんでした。カルデアのウルを出発してハランの地に留まったアブラムは、その地で名を馳せました。
 紀元前500年頃のギリシャの有名な歴史家ヘカタイオスは、アブラムについて1冊の本を編纂して残しています。また『世界史』を著したダマスコ人ニコラオスは、『世界史』第4巻でアブラムのことを記しています。それらによると、アブラムはダマスコのハランの地で多くの人々を率いる一大勢力となったようで、ハランの地で戦わずして王として支配したようです。アブラムは軍隊のようなものも率いていたようですが、その軍隊は戦うための軍隊ではなく、戦わずして自分たちを守る(相手から攻撃を受けないための)軍隊だったようです。そしてアブラムは戦わずして多くの人々を率いるようになったのです。ハランでアブラムは有名となり、アブラムを記念して名付けられた地もあるほどでした。
 アブラムとサライを通して「生きて働かれる神」を知り、神様がどのようなお方なのか、どのように天地が創造されたのか、どのような法則によって成立したのか、神様のご計画をアブラムとサライから聞き「生まれ変わった人びと」がハランの中から現れたのです。それらの人々が「ハランで彼ら(アブラムとサライ)が造った魂」なのです。彼らはアブラムとサライに生きて働かれる神を、漠然と信じた、のではありません。なぜなら彼らはアブラムとサライと共に国を出て、親族や友人と別れ、故郷を去ったのですから。彼らはアブラムとサライを通して真の神様を知り、無条件に神様を信頼し、神様によって『生まれ変えられた人々(魂)』となりました。



12:7-13
 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」 アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山に移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」


 ヘブライ語原典では「主がアブラムに現れた。そして言った。『お前の子孫に、わたしはこの地を与える。』 彼は、彼に現われた主のために、そこに祭壇を建てた。そして彼は、そこからベテルの東の山の方に移した。そして西側にベテル、東側にアイをのぞむ所に天幕を張り、そこに主のために祭壇を建てた。そして主の名で呼んだ。そしてアブラムは歩き、またネゲブの方に行き、旅立った。
 その地に飢饉があった。アブラムはエジプトへ寄留するために下った。なぜならその地で飢饉がひどかったからである。彼がエジプトに入る時が近づいた時であった。彼は妻サライに言った。『御覧なさい。私はあなたが姿の美しい女であることを知っている。エジプト人達があなたを見る時に”これは彼の妻だ”と言って、彼らは私を殺し、あなたを生かすだろう。どうかあなたはあなたのゆえに私のために良くなるために、私の妹だと言ってくれ。するとあなたのおかげで私の魂は生きる。』」です。

 聖書に記されているアブラムがサライに語った言葉を、自分の身を守るために汲々としているように読む人もいるかも知れませんが、そうではありません。アブラムは前もって神様に「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われた身でした。多くの人々は、神様が祝福された人は無条件に裕福で安楽な生涯を送れるよう誤解しているようですが、神様から祝福された人は、神様から与えられた「救済に満ちた力」を愛と知恵をもって生かす行動をしなければ、その祝福を失います。ハムの子カナンがそうであったように。
(天地が創造され、人間が創られた時、神様は天地を祝福されました。しかしアダムとエバは神様に背いて祝福を失い、呪いとなり、またその子カインも弟殺しという罪を増し加え、その後、人間は堕落の一途をたどる結果となったことからも明らかです。)
 アブラムは子孫たち(血統的子孫とハランで生まれ変わった人びとの子孫たち)に神様の地を継承させる大きな使命を果たすまで、簡単に死ぬわけにはいきませんでした。一見、神様に従って故郷を出てカナンに入ったらカナン人が先に住んでいたり、ネゲブに旅立てば飢饉が起こることは「思いがけない災い」に見えるかもしれません。しかし、神様はすべてを御存じでカナンに導かれ、また飢饉を起こされています。そしてアブラムとサライはエジプトに下りました。それはアブラムが神様に信頼していたように、神様もアブラムを信じておられたからこそ、できたことです。その信頼関係のもとに、このアブラムとサライのエジプトでの出来事を心で読み取らなければ、この出来事を理解することはできないでしょう。
 神様はアブラムとサライをエジプトに寄留させ、エジプトのファラオ(王)に対して「勝利」させることによって、アダムとエバの罪を元がえしさせ、本来のアダムとエバの立場に立たせて、アブラムとサライの子と孫に、カインの罪を元がえしさせ、ノア・ハム・カナンが3代かけて成すはずだったことを、3代かけて成し遂げさせるご計画だったのです。



12:14-20
 アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろばは、らくだなどを与えられた。ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。
 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。
 「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」
 ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。


 ヘブライ語原典では「アブラムがエジプトに入る時のことであった。エジプト人達が、彼女が非常に美しい女であることを見た。そしてバロ(ファラオ=エジプト王の称号)の大臣たちが彼女を見て、バロに向かって彼女を称賛した。そして、その女はバロの家に取られた。彼(バロ)は彼女のゆえにアブラムによくした。そして彼に牛と羊の群れと雌ロバたちが、男奴隷たちと女奴隷たちが、ラクダたちと雌ロバたちが、彼の所有物となった。しかし主は、アブラムの妻サライの言葉のゆえに、パロの家とバロを大きな疫病で撃った。バロはアブラムを呼んで言った。「お前が私にしたこの事は何か。なぜお前は、彼女がお前の妻であることを告げなかったのか。なぜお前は彼女が妹だと言ったのか。それで私は彼女を私の妻として取った。そして今、お前の妻を見よ、取れ、そして行け。」 そしてバロはアブラムについて人々に命じた。そして彼らは、彼(アブラム)と彼の妻とを、彼に属するすべてのものと共に送り出した。」です。

 アブラムが予想したとおりに、エジプトの人々はサライの美しさに驚嘆し、エジプトの王バロの大臣たちはパロに彼女の美しさを称賛しました。それは大臣たちが、バロがサライを気に入って妃にでも迎えるならば、それをとりなした自分の立場が優遇されることを知っていたからです。アブラムはそうしたことも、あらかじめ見抜いていました。
 注目すべきは「主は、アブラムの妻サライの言葉のゆえに、パロの家とバロを大きな疫病で撃った。」ことです。神様がサライの言葉のゆえにパロの家(宮廷と宮廷に仕える人々)とパロを大きな疫病で撃ったことの意味を、誰もが理解できないでいるため、この出来事の意味が理解されていません。
 神様は、サライが忠実にアブラムから聞いたことをパロに言ったからこそ、そのサライの言葉のゆえにパロを撃たれたのです。このことで思い出す人は幸いです。そうです。エバは蛇に対して、アダムから聞いたことを忠実に言いませんでした。そこに蛇がつけ込み、偽り者である蛇と、言葉を偽ったエバとの間に、偽りを共通とした交わりが成立したのです。同じ偽り者としての関係となったのです。その偽りを、エバはアダムにも与え、アダムはそれを拒絶せず受け入れました。こうして偽りが世に入り、神様が創造された本来の世界とあらゆるものに偽りがまぎれ込んだのです。
 エジプトの王ファラオは、エデンの蛇と同じ立場に立っていました。エバはアダムから聞いた言葉を正しく蛇に言いませんでしたが、サライはアブラムから聞いた言葉を正しくパロに言いました。だからこそ神様はパロの家とパロを大きな疫病で撃ち、パロとサライの関係は成立しませんでした。
 エバを蛇に奪われたアダムと違って、アブラムはサライをパロに奪われることはありませんでした。アダムとエバの時とは違って、アブラムはこの元がえしをするために、愛する妻をいったんはパロに取られなければなりませんでした。アブラムはどれほど辛く苦しく、サライにこれをさせたことでしょう。しかしサライはアブラムを信じ、アブラムの神を信じて、従ったのです。神様とアブラムとサライの間には、それほどの信頼関係があったのです。その絶対の信頼関係こそが、アブラムとサライに、アダムとエバの罪を元がえしさせることに成功させたのです。飢饉で食べ物がなかったので、そのようなことをしたという話ではありません。
 サライの、神様とアブラムに対する絶対の信頼からくる「忠実な言葉」によって、神様の「救済に満ちた力」が付与されました。その結果、アブラムはサライを無事に取り戻し、アダムとエバと違って命(魂)を失うことなく、そればかりか家畜たちも取り戻したのです。このことはアダムとエバが失ってしまった財産(得られるはずだった幸福)を取り戻したことを意味し、またアダムとエバが堕落して以降、動物たちも堕落していたのを、取り戻したことを示しています。家畜のつがいは、ノアの箱舟のときの象徴でもあります。
 アブラムとサライは、神様に忠実な絶対の愛(情を超えた真実の愛)と、蛇にもまさる知恵をもって、アダムとエバの罪の元がえしを成功させたのです。そして、このことは、たとえ人の目には不可能なことのように見えたとしても、人が神様を信頼して忠実に事を行うならば、神様が「救済に満ちた力」を付与されて事を成就させてくださることを証明しています。それこそが神様がアブラムに与えられた「祝福」の真の意味です。その祝福は、アブラムが祝福する人々、アブラムを祝福する人々、その家族にも与えられる祝福です。逆に、神を呪う人、アブラムを呪う人、アブラムが呪う人には、その報いが臨みます。
 神様の祝福は、何も行動しない人には現れようがありません。その祝福はないのと同じです。信じて行う人には、神様の「救済に満ちた力」が付与され、その行いを成就させてくださるのです。
 神様は、アブラムとサライに子を与える前に、このことをさせる必要がありました。アダムとエバの罪を元がえししてから子を産ませる必要があったのです。神様も、アブラムとサライの成功をどのような思いで見守っておられたことでしょう。誰も成功したことがないことを、信じて果敢に行動したアブラムとサライ。2人が成功したとき、神様はどれほど喜ばれたことでしょう。アブラムとサライは、このとき地上で初めて、父なる神と男(夫)と女(妻)の創造本来の関係を示したのです。そこに創造本来の子が生まれることが待ち望まれます。ただ、その子はノア・ハム・カナンが成せなかったこと、つまりハムの元がえしをしなければならない子でもあります。
 




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