安息日の礼拝  創世記の真相

創世記13章




13:1
-7
 アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。
 アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。

 
ヘブライ語原典では「アブラムはエジプトから、彼の妻と、彼に属するすべてのものを携えてネゲブに上った。ロトは彼と一緒だった。アブラムは金銀と家畜で非常に重い(=アブラムは金銀と家畜を非常に多く持っていた)。彼はネゲブ地方からベテルまで旅路を進め、ベテルとアイとの間の、彼が初めて天幕を張った場所まで来た。そこはアブラムが祭壇を築き、最初に主の名で呼んだ場所であった。そしてロトもまたアブラムと共に行った。彼もまた天幕と牛の群れ、羊の群れがあった。その地は彼らを一緒に定住するために上げなかった。なぜなら、彼らの財産が多かったので、彼らは一緒に定住することが出来なかったからである。そして、アブラムの家畜の羊飼いたちとロトの羊飼いたちの間に、言い争いがあった。その時、その地にはカナン人とペリジ人が定住していた。」です。

 アブラムとサライは、エジプトのファラオから得た多くのものを携えて、ベテルとアイとの間の、彼がかつて天幕を張ったベテルとアイとの間の場所まで来ました。そこは、アブラムが祭壇を築いて最初に主の名で呼んだ場所でした。アブラムの甥ロトもアブラムと共にいて、多くのものを持っていました。しかし、彼らの財産が多すぎたため、その地では一緒に住むことが出来ませんでした。アブラムの家畜の羊飼いたちとロトの羊飼いたちの間に、言い争いが起こるほどでしたし、そこにはカナン人ペリジ人も定住していました。



13:8-13 
 アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東に移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。

 
この箇所は特にヘブライ語原典との相違はありません。アブラムはロトと共にいる人たちとの争いを避けるために、離れて住むことをロトに提案しました。土地の選択権は、ロトに委ねました。
 ロトが目を上げて眺めてみたところ、ヨルダン川流域の低地一帯が見えました。その一帯は、エジプトやエデンを思わせるほどに、よく潤っていましたので、ロトはヨルダン川流域の低地を選んで出発しました。ロトはこのとき、神にお伺いを立てることもしませんでしたし、神が共にいるアブラムに選択を委ねることをしませんでした。つまり、自分の目に好ましく思えたものを選択したのです。
 実は「目を上げて」というヘブライ語の表現は、神様からの指示を待たないで自分で決定権を持って自分の目で見て決めようとする態度のことを言います。エバが蛇に唆されて「善と悪を知るための木」を見て、その木がいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していたのを見て、その実を取って食べたのと同じです。
 ロトは、アブラムとサライの神を知っていました。そして、アブラムとサライの神の導きによって、生まれ故郷を出発して、共に旅路を歩んだのです。その故に、ロトもアブラムの祝福にあずかり、財産を築くこともできました。しかしロトは、寄留したエジプトの繁栄に心奪われていたのです。ロトの目に「エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた」と書かれていることから、それが分かります。アブラムとサライが命がけで得た財産の分け前をもらい、苦労せず財産を得たロトは、堕落した人間による偶像崇拝と人間王が支配するエジプトの恐ろしさを体験していません。
 そのため、自分の目に映る地に、エジプトの享楽的な繁栄や、話に聞いていたエデンを重ね合わせ、自分の目に映った潤いの地に妄想を重ね合わせ、選択したのです。その地に住んでいる人々の偶像崇拝の恐ろしさや、神様がいない地の弱肉強食の世界と、みだらな生活が招く不幸を、想像だにしなかったのです。
 やがてロトは、その低地からさらに天幕を移し、ソドムに天幕を移して定住しました。ロトは、神様に頼ろうとはせず、ソドムの町に頼りました。ロトが最初にヨルダン川流域の低地を選んだときに、すでに神様から反れて欲望にとらわれた心は、どんどんと神様から反れていき、遂には神様に多くの罪を犯している邪悪なソドムの町に定住することを選択するまでになっていたのです。
 ここでロトは、はっきりと、神様に対して多くの罪を犯している邪悪なソドムの住民となることを選択したのです。ロトは十分な財産を持っていましたから、最初に選んだ地で生活して子孫を増やしていくことも可能でしたし、そうしていれば、そこからまた神様が別の地へと導いて下さる可能性もありましたが、そうはしなかったのです。
 ロトはまず、自分の目で見た地の豊潤さに欲望して選択し、さらに神様に対して多くの罪を犯している邪悪な町を選択しました。自分が選択した以上、その報いは自分と家族、子孫たちが受けることになります。実は、このときロトの目に素晴らしく見えた「ツォアル」も、後にロトにとって皮肉な意味を持つ土地となります。
 一方、アブラムはカナン地方に住みました。それは主が彼に現れて「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われた土地だからです。アブラムの選択の基盤は、主への愛と信頼であることが分かります。
 
 


13:14-18
 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」
 アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。

 
ヘブライ語原典では「主は、ロトが彼と一緒のところから分かれた後、アブラムに向かって言われた。『さあ、お前の目を上げよ。そして見よ。お前がいる場所から北の方(北はヘブライ語では、隠されている暗い側の意味)に、また南(乾いた地の意味。ネゲブの方向)の方に、そして東の方に、また西の方(地中海の方角)に。わたしは、お前が見ている全地を、お前とお前の子孫に永遠に至るまで与えよう。そしてわたしはお前の子孫を地の塵のようにしよう。もし人が地の塵を数えることが出来るなら、お前の子孫もまた数えられるだろう。立て、歩き回れ。この地の中でその縦に、またその横に。なぜなら、わたしはお前にそれを与える。』 アブラムは、ヘブロンの中でマムレの樫の木々の中に来て、そこに天幕を張って住んだ。そして、そこに主のために祭壇を築いた。」です。

 アブラムは、主が命じられるまでは、目を上げませんでした。つまり、主が命じられるまでは、自分の目で判断するようなことはしなかったのです。アブラムにとっては神様が第一でした。何よりも最優先でした。堕落している自分よりも、神様を絶対的に信じていたからです。
 神様は、ロトが東を選択して、東に行ったにもかかわらず、そこから移ってソドムの住民になってしまったので、その東の地もアブラムとその子孫に与えられました。こうして神様に忠実で、自分よりも神様を第一としたアブラムに、「東西南北」すべてが与えられたのです。
 アブラムは、ヘブロンの中のマムレの樫の木々の中に来て、そこに天幕を張って住み、そこに主のために祭壇を築きました。
 聖書の奥義では、「木」は単なる木ではありません。神様が現れてアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える。」と言われたのも、シケム(シェケム)のモレの樫の木のところでした。樫の木というのは、非常に硬くて力のある木です。アブラムがその木のあるところを選ぶのは、アブラムが力ある神様に信頼していることを象徴しており、またアブラム自身の信仰の固さと力強さを象徴しています。シケム(シェケム)とは「肩」という意味で、重荷のことをシェケムと言います。この場所で神様がアブラムに現れて「あなたの子孫にこの土地を与える。」と言われたということは、つまり重荷を負った旅の終わりを意味します。そして旅の成功は、神様の固く力強い御力のゆえであり、またアブラムの固くて力強い信仰の証しでもあり、だからこそ神様がここでアブラムに現れたのであり、アブラムはここに主のために祭壇を築いたのです。
 後のユダヤ人たちは、このことを表面的にとらえてしまい、木や柱を信仰したりするようになって滅びに至りますが、聖書の奥義は、分かったつもりになって表面だけをなぞって信仰しているような気になると、とんでもない「つまづき」になります。
 イエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)と言われたのも、このことを背景にして言われたことなのです。つまりイエス様は、ご自身を「木」だと言われたのです。何の木でしょうか。「命の木」です。旧約聖書に隠されている奥義を知って、イエス様の言葉を聞くと、イエス様が語られている言葉の本当の意味が分かるのです。
 アブラムは、ロトと分かれてからも自分では目を上げず、神様に言われてはじめて目を上げてみました。神様は東西南北すべてをアブラムとその子孫に与えると言われました。そしてアブラムは天幕を移し、ヘブロンの中でマムレの樫の木々の中に来て、そこに天幕を張って住み、そこに主のために祭壇を築きました。この時点でも、神様の固く力強い御力がアブラムと共にあり、アブラムも固く力強い信仰で神様とつながっていました。





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