安息日の礼拝  創世記の真相

創世記15章




15:1
-6
 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。
 「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常におおきいであろう。」
 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えて下さいませんでしたから、家の僕が後を継ぐことになっています。」 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの後を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が後を継ぐ。」主は彼を外に出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」

 ヘブライ語原典では「これらの出来事の後で、主の言葉が幻の中でアブラムにあった。『恐れるな、アブラムよ。わたしがお前の盾。お前の報いは非常に多い。』アブラムは言った。『わが神なる主よ。あなたは何を私にお与えになるのでしょう。私は子がなく歩いています。子の立場になるのは私の家の管理者。彼はダマスコのエリエゼルです。』 またアブラムは言った。『御覧下さい。あなたは私に種をお与えになりませんでした。それで、御覧下さい。私の家を継ぐ者が、私を継ぐ者です。』 しかし見よ、主の言葉が彼にあった。『この者がお前を継がない。お前の腹から出て来る者がお前を継ぐ。」 そして主はアブラムを外に出した。そして言った。「さあ、天に向かってじっと見よ。そして星を数えよ。もしお前がそれらを数えることができるなら。」そしてアブラムに言った。『お前の子孫はこの(星の)ようになる。』そしてアブラムは主に信じた。そしてそれを彼自身にとって義と認めた。主は言った。『わたしは、お前をカルデア人のウルから(導き)出した主である。この地をお前に与えるために。お前がそれを継ぐために。』 」です。

 カルデアのウルを出発して以来、アブラムとサライはいつも神様と共にありました。ですからエジプトでは、蛇に奪われたエバの元がえしに成功し、メソポタミヤ同盟に襲われたカナン同盟の一国ソドムに暮らしていた親族のロトの救出にも成功しました。これらの事は、アブラムと共に神様がおられたからで、アブラムもサライも神様への堅い信頼がありました。そしてアブラムの信仰には常に行いが伴っていました。
 かつてアブラムが75歳でハランを出発した時、神様はアブラムを祝福し、アブラムの名を大きくする(大きな民族にする)と言われていました。ところがアブラムとサライの間には、まだ子供がいませんでした。神様はアブラムを『祝福の源』になる、と言われましたが、アブラムには祝福すべき子がなかったのです。それはアブラムとサライにとっては、大きな悲しみ、苦しみ、悩みであり、アブラムは「神様が種を与えてくださらない」と半分は諦め、そのためアブラムの家を継ぐのはダマスコのエリエゼルしかいない、と考えていました。
 しかし、そのアブラムに神様は「恐れるな。」と言います。アブラムは何を恐れていたのでしょうか。それは神様の言葉から分かります。アブラムは自分の将来を恐れていました。子供が与えられないということは、アブラムにとって厳しい現実でした。その現実に、アブラムは将来を絶望し、恐れていたのです。そのアブラムに神様は、子供をお与えになることを約束されました。そして、その子孫たちが星の数ほどに増えると言われたのです。アブラムはその神様に信頼しました。神様に信頼することが、自分自身にとって義しいことだと認めたのです。
 そして、神様に信頼し続けて子が生まれるのを待てば良かったのですが、アブラムはそれができません。

 ヘブライ語訳原典の「そして彼(アブラム)は主に信じた。そしてそれを彼にとって義と認めた。」という部分をパウロは、ローマの信徒への手紙4:3とガラテアの信徒への手紙3:6で「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた。」と訳しました。パウロによるこの訳はファリサイ派の訳でもあったかもしれません。キリスト教会はこれを根拠に、行いがなくても信仰が義と認められるという「信仰義認論」を創作しました。それはイエス様の教えとは正反対の教義です。12使徒たちも「信仰義認論」に気をつけるよう信徒たちに警告し、行いの重要性を強調しています。しかしキリスト教会は、このパウロの訳に準拠し、旧約聖書のこの部分にパウロの訳を当てはめました。
 本来のヘブライ語原典の意味は「彼(アブラム)は神を信じた。そして彼は、それが自分自身にとって義しいことだ、と認めた。」という意味です。そもそもアブラムの信仰には常に行いが伴っていましたので、パウロが言う「行いではなく、信仰を義とされた」という根拠がないのです。しかも、この段階のアブラムはまだ不完全な人でしたので、名も「アブラハム」ではありません。パウロは知ってか知らずか、正しい引用をしていません。

 さて、アブラムはここで神様に信頼し、それが自身にとって義であることを認めたのですから、サライとの間に生まれる子供を待てばよかったのです。しかし、アブラムはそれを自分で否定してしまいます。



15:7-12 
 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」
 主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」
 アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。

 
ヘブライ語原典では「しかし、アブラムは言った。『わが神なる主よ、私は何によって、私がそれを継ぐことを知るでしょうか。』 主はアブラムに言った。『わたしのために、三歳の雌の子牛と、三歳の雌やぎ、三歳の雄羊と、山鳩と雛を持って来なさい。』 アブラムは、彼のためにすべてこれらのものを取った。そして、それらを真ん中で二つに裂いた。そして人(男)は与えた。その裂かれた部分を、その友に向かって。しかし彼は小鳥を二つに裂かなかった。そして、はげ鷹が死体の上に降りてきた。アブラムはそれらを追いかえした。そして、太陽が入る頃になった。深い眠りがアブラムの上に落ちた。そして見よ、彼の上に恐れと大きな暗闇が落ちてきた。」です。

 
アブラムは、神様が子を与えて下さること、そしてその子孫たちが星の数ほどに増えると言われたことに信頼し、それがアブラム自身にとって義しいことと認めたはずでした。
 ところがアブラムは、その信頼を自分の手で崩してしまいます。そしてアブラムは、神様に“しるし”を求めました。いったんは神様の言葉に信頼して、信頼することこそが義であると認めたにもかかわらず、アブラムは「わが神なる主よ、私は何によって、私がそれを継ぐことを知るでしょうか。」と言ってしまいます。パウロが言った信仰義認論も、ここであえなく崩れ去っています。
 神様は、自分の言葉に信頼せず、“しるし”を求めるアブラムにこう言います。「わたしのために、三歳の雌の子牛と、三歳の雌やぎ、三歳の雄羊と、山鳩と雛を持って来なさい。」と。
 アブラムは、それらすべてを取って、持って来ました。そして、それらを真ん中で2つに裂きました。神様は「わたしのために、三歳の雌の子牛と、三歳の雌やぎ、三歳の雄羊と、山鳩と雛を持って来なさい。」と言いましたが、それらを2つに裂けと命じたとは書かれていません。ノアも洪水後に清い家畜と清い鳥を祭壇に捧げましたが、その際も2つに裂いたとは書かれていませんでした。
 神様がアブラムに2つに裂けと命じたのに、それが書かれていないのか、あるいはアブラムが自分の考えで2つに裂いたのかは不明です。しかし、2つに裂くのなら、どうしてアブラムは小鳥をは裂かなかったのでしょうか。アブラムは子供を欲しているあまり、小鳥(雛)に対する「情」がわいてきてしまい、2つに裂けなかったのだと考えられます。なぜならば、後に神様はアブラムを試し、アブラムに生まれた子イサクを捧げるよう命じ、イサクを屠ろうとした瞬間にそれを止めさせ、「その子に何もするな。あなたが神を畏れる者であることを、わたしは今、知った」と言われるからです。つまり一時の「情」に支配されることなく、何よりも神様を最優先し、神様に忠実であるかどうかが試されたのです。神様が、アブラムに子イサクを捧げさせることで、それを試されたということは、この小鳥を捧げたときにアブラムが「情」に支配されて神様を畏れなかったことを示しています。
 
 実は、このときのアブラムの捧げものと同じことを、ユダヤの民は出エジプト後も延々と続けました。出エジプトの際に神様がモーセに命じた「捧げものに関する祭司の規定」が『レビ記』に克明に記されています。その中に、「焼き尽くす献げ物」を献げるに当たっての規定が書かれているのですが、牛や羊は裂き切って献げるのですが鳥は裂き切らないのです。このアブラムと同じ献げ物をユダヤ人は延々と献げていくのですが、神様は預言者エレミヤに、「わたしはそのようなことを命じていない」と言われるのです。

「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。』」(エレミヤ書7:22-23)

 つまり『レビ記』に書かれている「焼き尽くす献げ物の規定」は偽りだと、神様ご自身が断定しておられるのです。その間違った献げ物をユダヤ人たちは延々と続けたのです。神様の言葉を伝えたエレミヤは何度もユダヤ人たちに殺されかけます。パウロはキリスト教の信徒らに、いけにえになるよう要求しています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神によろこばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12:1)。しかし神様は、そんなことを要求されていません。
 
 さて、アブラムが2つに裂いた「死体」を狙って「はげ鷹」が降りて来ました。この「はげ鷹」はエジプトの象徴です。そして、その背後にはサタンがいます。アブラムは堕落前のアダムにならなければなりませんでした。しかし神様に対する不完全さゆえに、サタンがつけ込む余地を生んでしまったのです。
 陽が沈みかけた頃、深い眠りがアブラムの上に落ちてきました。「深い眠り」というのは、睡眠のことではありません。その証拠にアブラムは、自分の上に恐れと大きな暗闇が落ちてきたことを自覚しています。この「恐れ」はどういう恐れでしょうか。アブラムは自分が神様を畏れず「情」に支配されて、取り返しがつかないことをしてしまったことに気付いたのです。もちろん、そこにサタンがつけ込みます。大きな暗闇をもって。
 アブラムは神様に信頼し、それが自身にとって義しいことと認め、ただ待っていれば良かったのに、その信頼を自分の手で崩し、疑い、神様に“しるし”を求め、しかも自分が求めておきながら、不完全なことをしてしまいました。これにより、アブラムの子孫に大きな試練がのしかかることになります。この神様への義と、不完全さの両方の遺伝子が、アブラムの子孫たちにそのまま受け継がれるのですから、子孫たちも自らの不完全さのゆえにサタンや、サタンに属する偶像崇拝の諸国に支配されてしまい、彼らに勝利することが困難になるのです。
 このときアブラムが不完全なことをしたと言いきれるのは、もう少し後に神様がアブラムに「あなたはわたしに従って歩み、全き者(完全な者)となりなさい。」と言われるからです。この献げ物をしたときのアブラムは完全に神様に従っているとは言えない、不完全な者だったということです。
 



15:13-19
 主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻ってくるのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」

 
ヘブライ語原典では「主はアブラムに言った。『お前は知りに知る。お前の子孫が、彼らの地でない地で寄留者になることを。そして彼らに仕えることを。彼らはお前の子孫たちを四百年間苦しめる。しかし、お前の子孫たちが仕えるその民を、わたしは裁く。そしてその後に、彼らは大きな財産と共に、その地を出る。お前は、お前の父祖たちの中に、平安の中で入る。良い白髪で葬られる。そして第四の世代が、ここに帰る。なぜならそれまでエモリ人(アモリ人)の『とが』が満ちていないからだ。」 太陽が入り、真っ暗闇があった。見よ、炉の煙とたいまつの火が、それらの裂いたものの間を通り過ぎた。その日に、主はアブラムと共に契約を結んだ。主は言った。『お前の子孫に、わたしはこの地を与えた。エジプトの川から大きな川ユーフラテスに至るまで。カイン人とケナズ人とカドモニ人、ヘト人とペリジ人とレファイム人、アモリ人とカナン人とギルガシ人とエブス人の土地を与える。』」です。

 アブラムが求めた“しるし”と、その不完全な履行の結果、2つに裂いた3種類の3歳の動物(雌牛・雌山羊・雄羊)の意味は、神様が本来アブラムとその子孫に用意していたものとは別の意味に転じてしまいます。3世代の間、エジプトに仕えることになるのです。このエジプトが、死体に降りてきた「はげ鷹」です。そして、400年の苦しみを経て、第4の世代(山鳩)がカナンの地に戻ってきて、与えられた土地に住むことができることになりました。その地で新たに生まれる世代が「雛」です。

 陽が沈んで真っ暗闇の中、神様から出た炉の煙とたいまつの火が、それらの裂いたものの間を通り過ぎ、神様はアブラムと共に契約を結びました。神様は、もともとアブラムとその子孫にカナンの地を与えることを約束されていましたし、アブラムはそれを信じてハランを出発したはずでした。カナンの地に着いて、ロトたちと別れた際にも神様はアブラムとその子孫たちにカナンの地を与えると約束されました。それでも将来を悲観して恐れるアブラムに、神様はまた同じ約束を伝えました。
 アブラムが不完全な献げ物をした後も、その約束の内容それ自体は何も変わっていません。ただ、カナンの地を与えられるのが400年延長し、しかもその間、アブラムの子孫たちはエジプトに支配されて苦しまなければならないという、余計な400年が加わることになってしまったのです。その400年は、3代に渡って苦しんで遺伝子の中から余計なものが無くなって精錬される必要が生じた期間とも言いかえることができます。
 
 さて、ここにもう一つ「謎」が出てきます。その謎とは「アモリ人(エモリ人)の『とが』が満ちていないからだ。」という神様の言葉です。
 アモリ人の『とが』が満ちていないから、400年間アブラムの子孫がエジプトに支配されて苦しまなければならず、アモリ人の『とが』が満ちる4代目になってからカナンの地に戻る、という意味に解してしまうと何の事やら分からなくなります。
 そもそも神様は『とが』が満ちるまで放置しておかなければならないことなど、ないのです。ニムロドがバベルの塔のある町を建設しようとしたときには、それが完成する(満ちる)前に処罰を下されました。ソドムやゴモラの罪も放置はされません。では、これはどういう意味なのでしょうか。
 アブラムが“しるし”を求めたので、神様は完全な“しるし”を用意していました。ところが“しるし”を求めたアブラム自ら不完全なことをし、サタンの介入が許されてしまうことになりました。それはサタンが介入する国々が世界を支配する余地を与えた、ということなのです。その一つがエジプト文明であり、もう一つがメソポタミア文明です。このメソポタミア文明からアッシリアやバビロンが出ます。そしてエジプトもメソポタミアも、アブラムの子孫たちを苦しめることになるのです。
 アブラムが捨てたカルデアの地は、メソピタミアです。そこでは、かつてニムロドが「塔のある町バベル」を建設して神よりも高くなろうとしました。神様は彼らの企てを妨げ、言葉を混乱させたので、彼らは各地に散らされました。そのため、その地では強大国が力を持って支配するということがなかったのです。だからこそ、前の創世記14章ではメソポタミア地方の小さな国々が同盟してカナン同盟を襲う、という状態でした。小さな国々が分裂していたのです。そして同盟してもアブラムには勝てませんでした。
 ところが、アブラムの「自ら“しるし”を求めておきながらの不完全な献げ物」のために、そこにサタンの介入を許してしまいました。サタンは、かつのてニムロデの企てを、もう一度やります。それを成し遂げるのがアモリ人です。このアモリ人こそが、メソポタミアに強大なバビロン第一王朝を築くのです。王朝の6代目が有名なハムラビ王で、彼は言葉の異なる諸国民を支配するために「ハムラビ法典」を作り、「法」によって言葉の異なる諸国民を支配するのです。ニムロドのリベンジを果たした形です。
 つまりアブラムは、この世にバビロンが出現する原因を作ってしまったのです。彼らは『とが』が満ちるまで、その活動が許されてしまうのです。アモリ人の『とが』が満ちるまで、カナンの地はアモリ人の影響下に置かれることになってしまいます。この間のアモリ人は、まだバビロン王朝を確立する前ですので大きくありませんが、それでも一定の力を持ちます。その間、アブラムの子孫たちは400年間エジプトで苦しめられ、精錬されてから、4代目になってカナンに戻ってくるのです。精錬されてカナンの地に戻ってくればこそ、今度は完全な信仰でエジプトの川から大きな川ユーフラテスに至るまでの土地、すなわちカイン人・ケナズ人・カドモニ人・ヘト人・ペリジ人・レファイム人・アモリ人・カナン人・ギルガシ人・エブス人の土地を与えられるというわけです。これが「アモリ人の『とが』が満ちるまで」の意味です。

 もう一つ解明しておくことがあります。アブラムが完全な献げ物をしていたならば、神様はどんな“しるし”を与えられたのか、ということです。もちろん、結果的にアブラムが不完全な献げ物をしてしまったため、完全だった場合のことは分かりません。しかし、先のことと後のこと、つまりこれまでの神様とアブラムのことと、これからのアブラムの子孫たちのことを記している部分を検証してみることで、ある程度の推測はできます。
 まず先のことについてですが、神様が持って来なさいと言われた3歳の雌の子牛と、3歳の雌やぎ、3歳の雄羊と、山鳩と雛は、神様がアブラハムに臨んで語られた回数と合致していると見ることができます。

 アブラムに最初に神様が臨んだのは、神様がアブラムを召命される場面(創12:1-3)です。神様はアブラムに「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」と命じられます。生まれ故郷を捨て、社会的な地位や仕事も何もかも捨てて、神様が示す地に行くことを決意することは並大抵のことではありませんし、その旅路も並大抵ではありません。この最初の召命から、次に神様がアブラムに望むカナン到着までが3歳の雌牛に対応しています。「雌牛」は民数記19章に出てきます。雌牛は「罪を清める水」を作るために必要とされているものです。つまり、アブラムが先祖から受け継いだ罪を清めるために、生まれ育った故郷と社会的な地位と仕事を捨てることが必要で、しかも神様が示される地に無条件で旅路を歩むことが必要だったと考えることができます。このことは、アブラムとサライの子が生まれる前に、遺伝子から罪を清めるために必要だったと言い換えることができます。

 次に神様がアブラムに臨んで語られるのは、カナン人が住んでいた地に着いた時です。神様は「あなたの子孫にこの土地を与える。」(創12:7)と言われました。この時からエジプト滞在(ファラオに奪われた妻を取り返し財産をも得る)を経て再びカナンに戻って来るまでを象徴しているのが、雌やぎです。やぎは、イエス様が言われた「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタイ25:31-33)と言われるものです。羊は御国に入り、やぎは悪魔とその手下のために用意してある永遠の火の中に入れられます。つまり、やぎはエジプトのファラオに従う人たちを意味します。アブラムとサライはファラオやエジプトにとらわれることはありませんでしたが、ロトはエジプトの享楽的な生活に目を奪われてしまい、その後ソドム(神様に背いている者たちが住む町)に住むことを選ぶ原因となりました。イエス様が集められるのは「主の民(イスラエルやクリスチャン)」で、主の民に2種類あるのです。それは神様を信じていると口では言いながら、その実は世に従っている偽の主の民と、神様に従っている真の主の民です。つまり、ロトのような主の民と、アブラムのような主の民です。

 次に神様がアブラムに臨んで語られるのは、アブラムがロトと別れた後に神様がアブラムに語られた時です。神様はアブラムに、見える土地の東西南北すべてを与えると言われ、この土地を縦横に歩き回るがよいと言われます。神様が与えられた地で縦横に歩き回ることができるのは、正しい羊飼いに見守られている羊です。
 そして次ですが、次に神様がアブラムに臨んで語られるのは、今回の献げ物の場面ですから、山鳩と雛に対応する場面がないように思われます。しかし一つだけ、あるのです。主なる神とは別の、もう一人の「主」がアブラムに語られる場面が。そうです。メルキゼデクです。メルキゼデクはアブラムを祝福しました。山鳩と雛は、メルキゼデクとやがて世に生まれるイエス様を象徴していると考えることができます。イエス様が誕生された時にヨセフとマリアは山鳩ひとつがいか家鳩の雛2羽を献げるためにエルサレムに連れて行った(ルカ2:22-24)と記載されていることは興味深いことです。

 神様がここまでアブラムを導かれ、様々なことをさせたのは、遺伝子から可能なかぎり罪を清めて、可能なかぎり罪が清められてから子を授けるためだったと言えます。

 では、後に起こることを見てみましょう。
 アブラムとサライには息子イサクが生まれますが、イサクは神様によって選ばれたリベカを妻に迎えます。リベカはエサウとヤコブという双子を産みますが、不思議なことに胎内で双子が逆転するのです。そのことを体験しているリベカは、義父イサクの過ちを見抜き、イサクをも超える信仰でエサウとヤコブの立場を逆転させ、恨みを超えさせ、かつてのカインとアベルの罪を元がえしさせることに成功します。ヤコブは人類史上初めてサタンに勝利し、神様から「イスラエル」という名を与えられ、ヤコブの12人の男子がイスラエル1部族の祖先となり、その子らがエジプトに生き、400年の苦役を終えた4代目の世代がカナンに入るのです。
 アブラムが献げ物の失敗をしていなかったとしたら、「3代」はエジプト苦役の3世代を示すものとはならず、アブラム・イサク・ヤコブの3代を示すものとなっていたのではないでしょうか。アブラムが完全な献げ物をしていたならば、イサクはもっと罪が清めれた状態で生まれ、その息子(3代目)のエサウとヤコブは罪が完全に清められた状態で生まれたかも知れません。それは、もしかしたらイエス様と双子の兄弟だったかも知れません。このイエス様はもちろん、メルキゼデクでもあります。
 もし、そうなっていたら、当時のメソポタミアやカナンは弱小国の群れにすぎず、アブラムにも勝てないのですから、イエス様と双子の兄弟は東のメソポタミア全域から西のエジプトとの境界までを簡単に治めることができたはずです。その領域は、神様がアブラムに言われた「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまでの土地」です。
 イエス様と双子の兄弟が治める領域は、どんどん広がって行き、遂には地上に創造本来の世界が実現していたことでしょう。つまり、エデンの回復です。

 さて、こう考えると、罪を清めるための象徴だった動物たちには、二重の意味があったことが考えられます。3歳の雌の子牛には、雄の子牛がいません。エバが本来あり得ない相手と交わったことは、「いないはずの相手」を夫にしてしまった、そのエバを象徴しているのが3歳の雌の子牛とも考えられます。エバは更に、罪を犯した身でアダムとも交わります。そのエバは雌山羊、アダムは雄羊。つまり、雌牛は蛇とエバが交わった罪の贖いのためであり、雌やぎは蛇と交わったエバがアダムと交わった罪の贖いのためであり、羊はアダムの罪の贖いのためと考えられます。そして、山鳩と雛はその子供であるカインがアベルを殺した罪の贖いのためと考えられます。
 3歳の雌牛、雌の子やぎと雄の子羊、山鳩と雛が象徴する、これらの罪をアブラム・イサク・ヤコブの3代で清めて、元に戻して、カナン=エデンを地上に回復する、そのことをアブラムに見せることが予定されていた“しるし”だったのではないか、と推測できます。
 献げ物を失敗しなかったら、アブラムはそれを見るまでは死ななかったはずですから、自分の目で、自分の孫に救世主(メルキゼデク・イエス様)が生まれるのを見て、彼が世を救うのを目の当たりにするはずだったのではないでしょうか。
 しかし実際には、自ら“しるし”を求めておきながら不完全な献げ物をしてしまったアブラムは、神様が約束された子孫が星のようになることは実現するけれども、子孫はエジプトで400年も苦役することになり、自分は死んで先祖のところに葬られ、孫の成功を見ることができません。
 400年というのは聖別の期間です。かつてアダムから10代目のノアの時には40日の洪水でした。そのノアから、さらに10代目のアブラムが失敗すると40×10=400。4という数字の始まりは、神様が天地創造された第4日、光と闇が分けられた日です。
 
 不完全な献げ物をたった1回しただけで、と思う人もいるかも知れませんが、そうではありません。ただ信じて待っていれば良かっただけなのに、それを疑い(それは神様を疑うだけでなく、信じることを義と認めた自分自身をも疑ったこと)、“しるし”を求めた上に、不完全なことをしてしまう。不完全な者が、完全であられる神様に対して“しるし”を求めたからには、それなりのことをする覚悟が必要です。その覚悟がなく、神様は完全な“しるし”を用意してくださっていたのに、神様のせっかくの祝福を自らの不完全さで、不完全の報いを受けることになってしまう。自分だけでなく、自分が望みに望んで神様がせっかく与えて下さる子供が苦労することになり、子孫たちは自分のせいでエジプトで奴隷として仕えることになってしまう。
 しかし、それでもアブラムほどの信仰者は、このとき地上にはいなかったのです。




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