安息日の礼拝  創世記の真相

創世記16章




16:1
-5
 
アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」
 アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。
 アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」


 ヘブライ語原典では「しかし、アブラムの妻サライは彼に産まなかった。彼女にエジプト女の女奴隷がいた。彼女の名はハガル。サライはアブラムに向かって言った。『見よ、主が産むことから私をとめた。どうか私の女奴隷にお入りなさい。たぶん私は彼女から建てられる。そしてアブラムはサライの声に聞いた。そしてアブラムの妻サライは、彼女の女奴隷であるエジプト女ハガルを取った。アブラムがカナンの地に住むこと10年の終わりのことであった。こうして彼女(サライ)は彼女の夫アブラムに彼女(ハガル)を、彼のために妻として与えた。  
 彼はハガルに入った。そして彼女は妊娠した。妊娠したことを見たハガルの目に、彼女の女主人は軽くなった。そしてサライはアブラムに向かって言った。『私への暴虐は、私があなたのゆえに私の女奴隷をあなたの懐に与えたからです。彼女は、彼女が妊娠したことを見て、私は彼女の目に軽くなった。主が私とあなたの間を裁くように。」です。

 神様はアブラムとサライに子を与えることを約束されていました。しかし、カナンの地に住んでから10年がたち、アブラムが85歳でサライが75歳。世の常識や自分の考えではサライには年老いた自分に子が生まれるとは考えられませんでした。そしてサライは、あることを思い付きました。神様が子を与えると言われたことの意味は、きっと自分の女奴隷と夫アブラムとの間に生まれる子供のことを言ったのだ、そうに違いない、その女奴隷によって自分は子を得る妻として建てられるという意味なのだ、と自分に都合のいいように逸(そ)らして曲解し、夫アブラムを言いくるめて説得しました。
 アブラムと一緒にハランを出発してカナンに向かう旅路を続け、飢饉の際にはエジプトで命がけの信仰を貫いたサライなのに、子供のことになると神様よりも「世の常識」や「自分の考え」の方を信じ、優先し、行動してしまいました。「世の常識」や「自分の考え」の方が神様よりも優先するので、その考えを正当化するため、しかも神様に背くことのないように、とても都合のいい考えが浮かんだのです。それが自分の女奴隷ハガルと夫の間に生まれる子を自分の子にするという都合のいい考えでした。
 アブラムはサライの勧めを聞き入れ、サライはエジプト人の女奴隷ハガルを夫アブラムの妻として与えました。そしてハガルは妊娠します。ところが、自分が妊娠したことを知ったハガルは、サライを軽んじるようになりました。サライの都合のいい考えでは、女奴隷によって自分は子を得る妻として建てられる思惑でしたが、その正反対に、かえって軽んじられることになったのです。「世の常識」や「自分の考え」を神様よりも優先して、それを実行したことの結果でした。それはサライが神様を軽んじたことの結果でもありました。
 サライとアブラムは、お互いを思いやっている「つもり」になって、一族の将来を一番に考えている「つもり」になって、神様が言われた「あなた(アブラム)から生まれる者」という言葉を、自分の都合よく解釈する道を選択したのです。しかしそれは、神様が子を与えてくださらないのなら自分で子を作ろうという傲慢な考えでした。命は人が作るべきものではありません。もし人が命を作るのならば、人は自分が作った子供の対して絶対的な責任を持たなければなりません。しかし人が責任を持つことなど、できるはずがありません。人間の思い通りになど、ならないのです。妊娠したハガルがサライを軽んじることは、サライには計算外の事でした。
 アブラムとサライがしたことは、お互いを思いやっているつもりが、実際にはお互いを貶(おとし)めることをしたにすぎません。そして、子を得て幸せになれるはずが、子によって不幸を味わうことになったのです。ハガルも不幸ですし、ハガルの胎に宿った子も不幸です。
 自分から出た、誤った「善悪の判断」でした。サライは、自分のためにも夫のためにも、善いことをしたつもりが、当然ながらそうはなりませんでした。
 サライは夫アブラムに向かって「主が私とあなたの間を裁くように」と言いましたが、サライは神様に従っていると自分を正当化していただけで、実のところは神様に従っておらず、自分の考え、世の常識に従っていました。自分がしたことの結果を、自分で刈り取るだけです。
 サライは、この期に及んでも「自分が犠牲を払って善意でしたことなのだから、自分は建てられて当然なのに、ハガルに軽んじられるのは不当な扱いだ」と思っていました。しかし、この「不当な扱い」は自業自得で、それ以外のなにものでもありません。サライはハガルの気持ちも考えず、物のように軽んじたのですから、サライができなかった「子供を妊娠する」ことを成し遂げたハガルが、今度はサライを軽んじるのは、当然の報いでした。むしろ公平なことだと言えます。

 人間の「善と悪を知る知識」は、エバとアダムの堕落のとき以来、間違っていますから、人間の「善意」から生じることの多くは、不幸な結果を招きます。人間は自分の「善と悪を知る知識」は正しくないということを、常に自戒している必要があります。それを自戒できない人は、傲慢な人です。自分が善かれと思ってやることのことごとくが、ひとりよがりの「自分が犠牲を払って善意でしたことなのに、どうして?」という結果を招き続けるばかりです。そういう生き方は、自分だけでなく周囲の人々との不調和を招き、自分も周りもそのことに苦しむことになってしまうのです。
 
 
 
16:6-14
 アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」
 サライは彼女につらく当ったので、彼女はサライのもとから逃げた。主の御使いが荒野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
 「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
 主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい 主があなたの悩みをお聞きになられたから。彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしをふりかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとペレドの間にある。
 ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。


 ヘブライ語原典では「アブラムはサライに向かって言った。『見よ、あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。あなたの目に最も良いことを彼女にしなさい。』するとサライは彼女を苦しめた。そしてハガルはサライの面前から逃げた。主の御使いが、荒れ野の中にあるシュルの道の傍(かたわ)らにある泉で、彼女を見つけた。彼は言った。『サライの女奴隷ハガルよ、お前はどこから来た。そして、どこへ行くのか。』彼女は言った。『私の女主人サライの顔の前から私は逃げています。』すると主の御使いは言った。『お前の女主人に帰れ。そして彼女の手の下で苦しめられよ。』そして彼女に主の御使いは言った。『わたしはお前の子孫を大いに増やそう。そしてそれは多さのゆえに数えられない。』主の御使いは彼女に言った。『見よ、お前は妊娠している。そして男児を産む。そして彼の名をイシュマエルと呼ぶ。なぜなら主がお前の悩みを聞いたからだ。彼は野ろばのような人になる。彼の手はすべての人の中にあり、すべての者の手が彼の中に(向けられるように)ある。すべての彼の兄弟たちは彼の顔の上に住む。』 そして彼女は、彼女に語りかける主の名を呼んだ。『あなたはエル・ロイ(幻の神)。』なぜなら彼女がここでもまた、私は私を見ている方の後ろを見た、と言ったからだ。それゆえに、その井戸を、ベエル・ラハイ・ロイと呼んだ。それはベレドとカデシュの間にある。そしてハガルはアブラムに男児を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ彼の息子の名をイシュマエルと呼んだ。アブラムは、ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだ時、80歳と6年であった。」です。

 サライの女奴隷ハガルによる不当な扱いに対する訴えに、新共同訳聖書では「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と訳されていますが、ヘブライ語原典では「あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。彼女に、あなたの目に最も良い事を彼女にしなさい。」です。
 新共同訳だと、アブラムは人ごとのように、自分には無関係のことのようにサライに好きなようにするがいいと言ったように受け取るかもしれませんが、そうではないのです。サライが自分の目の判断でしたことなので、その結果についてもまた、自分の目に一番良いことをするようにと言ったのです。もちろん、サライの進言を受け入れたアブラムにもその責任の一端がありますが、アブラムはサライと違って恨み事を言っていません。サライも自分がしたことに恨み事を言うのは筋違いです。
 アブラムにそう言われたサライは、ハガルを苦しめました。ハガルは耐えきれず、逃げ出しました。「シュルの道」はカナンとエジプトを結ぶ幹線道路ですから、ハガルは故郷エジプトに向かって逃げていたのです。そこに主の御使いが現われました。主の御使いはハガルに「お前はどこから来た。そして、どこへ行くのか。」と問います。ところがハガルは、この問いに答えず、「私の女主人サライの顔の前から私は逃げています。」と答えました。ハガルはサライのもとから飛び出して、無意識に故郷のエジプトに足が向いていたのでしょう。御使いの「どこから来て」という問いは、ハガルに自分の居所を突き付けています。お前は、エジプトから来たのか、それともサライのもとから来たのか、と。そうすると、「どこへ行くのか」の問いの意味は、「お前はエジプトから来て、エジプトに帰るのか。それともサライのもとから来て、エジプトに向かおうとしているのか。お前がサライのもとから来たのなら(お前が神様に属する者になったのなら)、サライのもとに帰れ。」という問いだったことが分かります。
 ハガルは、アブラムとサライがエジプトを出る時に、ファラオから与えられた女奴隷の一人でした。彼女はアブラムとサライに働かれた神様を知っていましたし、神様に従って生活していたことが、この御使いの言葉から伺い知ることができます。ただ、ハガルは自分自身に働かれる神様を体験してはいませんでした。
 ハガルは、御使いの問いには答えていないように見えて、実は御使いが意図した問いに答えているのです。自分は女主人サライのもとにいましたが(サライとその神様に属する者ですが)、逃げてきました」と。それを聞いて御使いは、サライのもとに帰って苦しめられよ、と言います。ハガルが神様に属する者であるならば、神様の言葉に従うはずだからです。ハガルがエジプト人で故郷に戻るだけなら、御使いが現れることはありませんし、ハガルも御使いに従う筋合いもないはずです。
 御使いは、サライに苦しめられて逃げてきたハガルに、サライのもとに戻って彼女の手の下で苦しめられよ、と言ったのです。ハガルのためにサライを罰してくださるのでもなく、ハガルに慰めの言葉をかけられるのでもなく、苦しめられているハガルに、サライのもとで苦しめられよ、と命じられたのです。その意味は、サライに苦しめられてもサライを軽んじてはならない、苦しめられてもサライに仕えよ、という意味です。
 主の御使いはこう続けます。「わたしはお前の子孫を大いに増やそう。そしてそれは多さのゆえに数えられない。」「見よ、お前は妊娠している。そして男児を産む。そして彼の名をイシュマエルと呼ぶ。なぜなら主がお前の悩みを聞いたからだ。」と。
 神様は、ハガルの悩みを聞き入れてくださり、その上で「女主人サライのもとに帰り、彼女の手の下で苦しめられよ。」と言われたのです。神様がそうせよと言われたのですから、それは正しいことであり、ハガルにとっても胎の子にとっても最善のことなのです。自分が苦しいか、苦しくないか、ではないのです。「苦」が自分にふりかかると、責任転嫁したり自己正当化して逃げてばかりの人が多いですが、神様がそう言われるなら「苦」は何でもないのです。それどころか、必要なことであり、その報いが用意されているのです。ハガルはサライによる「苦」から逃げましたが、神様の言葉に従う覚悟を決めました。

 ここで「御使い」が、まるで自分が神様であるかのような語り方をしているように見えますが、神様の御使いは自分の心から出た言葉を語っているのではなく、神様の言葉をそのまま伝えているのです。ですから、御使いは神様の言葉をそのまま伝える者に成りきっているのです。自分がないのです。
 また、ここで神様がハガルと胎の子を哀れに思って御使いを遣わされたのは、聖書の他の箇所に出て来るような「憐れみ」とは違います。ハガルが妊娠したのは神様のご意志によるものではありませんでした。サライとアブラムが勝手にしたことです。ですから本来は、神様が憐れまれる筋合いのことではないのです。しかしハガルは女主人サライに従うしかなかったのであり、胎の子にも何の責任もないのです。それでも、神様の御意志と無関係の関係から身ごもったならば、憐れまれる筋合いではないのです。しかし神様は胎の子を哀れに思われたのです。その胎の子は、アブラムの血筋(遺伝子)を引き継いでもいます。
 主の御使いは続けて「彼は野ろばのような人になる。彼の手はすべての人の中にあり、すべての者の手が彼の中に(向けられるように)ある。すべての彼の兄弟たちは彼の顔の上に住む。』と言います。神様が望まれて生まれる子ではないけれども、神様が哀れに思って生まれるその子は、野ろばのような人になると言われました。野ろばは体は小さくても丈夫で、粗食でも生きることが出来、馬よりも賢いと言われます。そして野で群れて行動し、自分たちに向かってくるものに対しては前足を高く上げ、敵もそれを見てかかってきます。
 「彼の兄弟たちは、彼の顔の上に住む」というのは、彼の兄弟たちが彼の顔を踏みにじるようなことをするので兄弟間に敵対がたえない民になる、という意味です。良く言えば誇り高い民とも言えますが、諍(いさか)い好きな民とも言えます。
 そもそもサライとハガルの間の諍(いさか)いを起源に持つ子孫たちですから、それもうなずけます。

 これを聞いたハガルは「あなたはエル・ロイ」と言います。新共同訳聖書では、エル・ロイを「わたしを顧みられる神」と訳しています。エルは神様のことで(神様の名ではない)、ロイは「幻」もしくは「私を見ている」という意味です。
 ハガルがどうして「あなたはエル・ロイ」と言ったかというと、その理由をハガルは「なぜなら彼女がここでもまた、私は私を見ている方の後ろを見た、と言ったからだ」と言っています。「私は私を見ている方の後ろを見た」という意味が分かる人がいるでしょうか。ここを読んだだけでは分かりませんが、モーセが同様の体験をしています。

「更に、主は(モーセに)言われた。『わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。』」(出エジプト33:22-23)

 ハガルも、神様の御顔を見たのではありません。神様の後ろを見たのです。ハガルは、神様は私を見ておられる神様だ、しかも神様が私を見ているだけでなく私も神様の後ろを見た、そう、私は生きて私に働いてくださる神様を知った、と言っているのです。
 神様は、アブラムとサライだけの神様ではなく、自分のことも見てくだる神様なのだ、そのことを知ったばかりでなく、私自身が自分で神様を見た、このことはハガルを一変させたことでしょう。
 神様が自分のことを見てくださっている、ということを知った人は、それはそれは大変な喜びでしょう。そんなことを自分が実体験するなんて、めったにあることではありません。しかし、それで本当に神様を知ったと言えるかどうか。神様が自分のことを見てくださることは、神様から一方的にされることです。しかし、自分がそれを見て知るとなると、一方的なことではなくて相互の関係が成立することになります。相互にとってそれは、まぎれもない事実となり、知り合った、ということになります。神様のハガル、ハガルの神様になるということです。その事実に感嘆して、ハガルは「あなたこそ、エル・ロイ」と言ったのです。
 神様と知り合ったハガルにとって、女主人サライのもとに帰って彼女の手の下で苦しめられることは、もう何ということでもなくなりました。

 このことのゆえに、その井戸はベエル・ラハイ・ロイ(私を見ている生けるお方の井戸)と呼ばれて、ベレドとカデシュの間に証人として存在しています。
 ハガルは女主人サライのもとに戻り、アブラムはハガルが産んだ彼の息子の名をイシュマエルと呼びました。イシュマエルとは「神は聞くことがあります」(もしくは神は聞いた)という意味です。
 イシュマエルの子孫については、多くの人がアラブ人だと考え、またイスラムの預言者ムハンマドがイシュマエルの子孫だとされることから、イスラム=イシュマエルの子孫だと考える人が多いですが、そう単純ではありません。
 イシュマエルは、ヘブライ人の父アブラムとエジプト人の母ハガルとの間に生まれました。ですから血統的には、ヘブライ人であると同時にエジプト人です。まず、このことをしっかりと認識しておく必要があります。そしてハガルは後に、イシュマエルにエジプト人の妻を娶らせます。ですからイシュマエルの子孫は、血統的にはエジプト人に近いと言えます。このイシュマエルの子孫が後に、ミディアン人となり、モーセはミディアン人の妻を娶っています。イシュマエルの子孫はエジプトにも住みました。
 ただ、神様はイシュマエルを12人の首長の父にされます。アブラムとサライから産まれる子孫(ヤコブ)は12部族の父になります。神様がそうされたのには深い意味があります。このことが、イサクとイシュマエルの血統の本線です。

 次に、アラブ人についてですが、アラブ人はもともとセムの子孫が主流で、そこにイシュマエルの子孫が入り、交わっていきます。ですから、イシュマエルの子孫=アラブ人やイスラムというよりは、イシュマエルの子孫=エジプト人の方が重きが置かれます。エジプト人はもともとハムの子孫です。
 血統的には、こういうことなのですが、一方で文明的に継承しているものがあります。現在のイラクは、地理的・文明的にはバビロニアを継承しています。イランは、ペルシャを継承しています。エジプトはエジプト文明を継承しています。そうしたものが、互いを争わせていますので、イシュマエルの子孫たちはまさに兄弟間に争いがたえないのです。
 イスラエルとアラブは、もとはといえば兄弟なのに互いに争い、同じイスラムでもイランとイラクが争い、シーア派とスンニ派が争い、といった様相です。

 しかし「終わりのとき」には、なんとエジプトとアッシリア(シリア)とイスラエルは世界を祝福する、と神様は預言されています。(イザヤ19:18-25)。これには、イスラエル12部族と、イエス様の12使徒と、イシュマエル12首長が大きく関わります。
 今、そのような日が来るなどと誰も思わないと思います。彼らは互いに敵対し、世界的な大戦争に向かっているように思えます。しかし、実は世界をそこに向けているのは彼らではなく「別のもの」です。その「別のもの」がk彼らを扇動し、世界を滅びへと導き、そうすることによって世界を支配しようとしているのですが、最後の最後に彼らの思惑は自滅します。彼らの思惑を見破ることが出来ず、彼らを信じ、彼らにつき従った人は皆、彼らに巻き込まれて自滅します。
 世界は、彼らの思惑どおりにはなりません。神様のご計画どおりに蛇に従う者たちは滅びに至り、最後まで神様に信頼する人は御国を継ぐ者となります。「ユダヤ教が正しい」と言う人は、正しいユダヤ教徒ではありません。「キリスト教が正しい」と言う人は正しいキリスト教徒ではありません。「イスラムが正しい」と言う人は正しいイスラムではありません。正しくないユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラムが、扇動されてしまいます。
 本当に正しい人は、神様のみが正しいお方であることを知っている人です。それを知って、神様と共にあるということが本当はどういうことなのかを知り、それを行っている人です。そういう人は、ごくわずかです。それ以外の人は、ことごとく世の獣に従属してしまい、滅びに至ります。
 ごくわずかですが、本当に正しいユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒は、皆、共通の人たちなのです。何教徒でもありません。ただ神様のみを正しいとしている人たちです。ですから、その人たちが世の終わりのときに来られる「神の言葉」と呼ばれる人(ヨハネ黙示録19:13)を自分たちの真の羊飼いと知ることができ、その方と共に御国を受け継ぐのです。つまり、イザヤの預言、ヨハネ黙示録の預言、あらゆる預言が成就するのです。

 さて、ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだ時、アブラムは86歳でした。アブラムとサライが勝手なことをしている間、神様はアブラムに臨まれていません。この間、神様が臨まれたのはハガルに対してだけです。このことが、アブラムとサライがしたことが神様とは無関係なことであったことを裏付けています。アブラムとサライがハガルに子を生ませようとしたことは、神様とは無関係のことでした。しかし、神様はハガルの悩みをお聞きなり、胎の子を認められました。

 ちなみに、イスラム教では少し違ったとらえ方をします。一夫多妻が認められているイスラム教では、ハガルもアブラムの正式な妻であり、イシュマエルは長男だということになります。つまりイシュマエルがアブラムの正当な跡継ぎとなるのです。イスラエルでは、アブラムとサライの間に生まれるイサクを正統としますから、ここで当然、見解の相違が出てきます。
 どちらが正当かを争う前に、兄弟なのですから、まず成すべきことは和解であるはずです。それができる人が出てこなければ、イスラエル・キリスト教・イスラムの和解は実現しません。しかし、悪意を持って彼らの対立をあおり、世界を滅びに導いている者が自滅し、和解を成し遂げる人が現れたならば、どうなるでしょうか。
 この観点で聖書を読み進むならば、あらゆる謎が解かれていきます。神様は、初めから終わりまで一貫して正しくあられるお方です。真に求め探していない人は、いくら聖書を読んでも見るべきものを見ることができません。それは真に求めていないからです。世の思い煩いに心を奪われてしまい、それによって自らの目がふさがれていて、見ても見えず、聞いても聞こえないのです。イエス様が言われたように、真に求める人は探し、聖書から見るべきものを見るようになります。 




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