安息日の礼拝  創世記の真相

創世記17章



17:1-8
 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。
 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
 アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」

 
ヘブライ語原典では「アブラムが90年と9年の時、主はアブラムに現れた。そして彼に言った。『わたしは全能の神。わたしの顔の前に歩き回れ。そして完全(傷のない、純情という意味もある)な者であれ。わたしはわたしの契約を、わたしとお前との間に与えよう。そしてお前を大いに、大いに増やそう。』 アブラムは彼の顔の上に落ちた(アブラムは顔を伏せた)。そして神は彼と共に語った。『見よ、わたしはわたしの契約をお前と共に(結ぶ)。そしてお前は多くの諸国民の父になる。もはやお前の名はアブラムとは呼ばれない。お前の名はアブラハムであれ。なぜなら、わたしはお前を多くの諸国民の父にした。そしてわたしはお前を大いに大いに実らせる。そしてわたしはお前を諸国民にする。また王たちが、お前から出る。わたしの契約をわたしの間とお前の間に立てる。またお前の後の子孫との間に、彼らの代々にわたって、永遠の契約を立てる。そしてわたしはお前と、お前の後の子孫に、お前の寄留のカナンの全地を永遠の所有地として与える。そしてわたしは彼らの神になる。」です。

 アブラムが故郷を神の御声に従って出た時、彼は75歳でした。その後、エジプト人の女奴隷ハガルとの間にイシュマエルが誕生したのは、アブラムが86歳の時でした。その後13年、神様はアブラムに臨まれませんでした。そして99歳の時(アブラムがハランを出発してから24年後のこと)神様はアブラムに臨まれたのです。
 アブラムが動物を裂いて献げ物をして失敗したとき以来、神様はアブラムに臨んでいません。その間、サライは自分の勝手な判断でアブラムをハガルのもとに入らせ、ハガルはイシュマエルを身ごもりました。その後、サライのもとから逃げたハガルに神様の御使いが臨みましたが、アブラムとサライには臨んでいません。そしてハガルはイシュマエルを産みましたが、神様はアブラムに対して沈黙されています。
 そしてアブラムが99歳になったとき、主なる神様はアブラムに現れて言われました。「わたしは全能の神。」と。
 このとき初めて、神様はご自身のことを「全能の神」と言われました。
神様が、なぜこのように言われたのかというと、アブラムが神様の全能性を完全には信じていなかったからです。アブラムは自分の考えで、自分とサライの間には子供が生まれないと判断して、サライが差し出したハガルとの間に子をもうけました。

 アブラムはどうして神様の全能性を完全には信じられなかったのでしょうか。それはアブラムが不完全だからです。仮にアブラム自身が完全であったとしたら、神様の完全さを疑う余地はなかったはずです。アブラムは自分が不完全だからこそ、神様の全能性を完全には信じられなかった、だから献げ物に失敗し、ハガルとの間に子をもうけたのです。

 日本語で『全能』と訳されているヘブライ語の「シャダイ」の正確な意味は不明とされています。イスラエルでは「山の」とか「養う」とか「全能」という意味で使われます。神様は続けて、アブラムに「全き者(傷のない者、純情な者)となりなさい。」と言われています。この「全き者」というのは、石にたとえられます。人間の手で加工された石ではなく、自然石にたとえられるのです。それは、アダムとエバ以降すべての人間が堕落している人間社会(世)の常識を刷り込まれた人間ではなく、神様が創造された本来の人間という意味です。つまり堕落する前の、あるべき本来の人間であれ、というのが「全き者」ということです。
 堕落前の、あるべき本来の人間とは、エデンの園に神様の御顔の面前を歩き回っていた人の姿です。そこには神様と人との本来の関係があり、人は神様との揺るぎない絶対の信頼関係でつながって、神様の御顔の前で成長していました。そこには、いささかの疑いも揺るぎもなかったのです。それが「傷がない、純情な、完全な」ということなのです。
 神様が自らを「シャダイ」と言われたのは、アブラハムに言った「全き者であれ」に対応した意味で使われています。神様は「全能」であり、神様が完全な方であるように、アブラムも「全き者」であれ、ということが語られているのです。このことはイエス様も12使徒に対して語られています(マタイ5:48)。
 神様がここでアブラムに「(傷のない=神様に絶対に信頼して揺るぎない)完全な者であれ」と言われたのは、神様が創られた本来のアブラムであれ、という意味で、この時のアブラムが完全な者ではなかったことを示しています。
 「わたしの顔の前に歩き回れ。」というのは、完全な人間は神様の顔を見ることができ、神様の顔の前で自由に歩き回ることができる、ということです。ハガル、モーセが神様の後ろを見たことからすると、神様がアブラムに求めたのはそれ以上の、堕落前のレベルであったことが分かります。そうでないと、アブラムとサライの子に受け継がれる遺伝子が、神様が求めるレベルではないということです。

 神様の言葉に、アブラムは顔を伏せました。これはアブラムが、自分の不完全さを恥じて、顔を伏せたのです。
 そして神様は続けて、こう言われます。「見よ、わたしはわたしの契約をお前と共に(結ぶ)。そしてお前は多くの諸国民の父になる。」と。これはユダヤ教・キリスト教・イスラム教では、祝福の意味に理解されています。しかし、そうでしょうか。アブラムをハランから召命されたとき、神様は祝福すると言われましたが(12章)、ここでの契約では「祝福」という言葉がありません。
 アブラムは「多くの諸国民の父」になるはずだったのでしょうか。いいえ、違います。アブラムはサライとの間の子だけの父となり、その子孫の父となるはずでした。それはアブラムの子孫として生まれる「救世主」の父となるということです。そして、その一つの血統が、諸国民を祝福するはずでした。しかし、アブラムがエジプト人ハガルとの間に子をもうけたことにより、アブラムは諸国民の父となるのです。
 アダムのあばらから創られたイシャー(女)が、蛇と交わったために命あるものすべてのものの母(エバ)となってしまったことを思い出してください。

 次に神様は、こう言われます。「もはやお前の名はアブラムとは呼ばれない。お前の名はアブラハムであれ。なぜなら、わたしはお前を多くの諸国民の父にした。そしてわたしはお前を大いに大いに実らせる。そしてわたしはお前を諸国民にする。また王たちが、お前から出る。わたしの契約をわたしの間とお前の間に立てる。またお前の後の子孫との間に、彼らの代々にわたって、永遠の契約を立てる。そしてわたしはお前と、お前の後の子孫に、お前の寄留のカナンの全地を永遠の所有地として与える。そしてわたしは彼らの神になる。」と。
 アブラムは、名をアブラハムと呼ばれるようになります。アブラムという名の意味は「群衆(多くの子孫たち)の父」です。そしてアブラハムという名の意味は「多くの国民の父」という意味です。
 神様は当初、アブラムとサライの子孫たちにだけに、カナンの全地を与えるはずでした。しかし、カナンには諸国民が共存することになります。
 この契約は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では祝福の契約だと解釈されていますが、どちらが正しい解釈かは歴史が証明しています。そもそも、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教それぞれが、カナンの地を奪い合ってきた張本人でもあります。祝福どころか、この地では多くの血が流されてきました。そして現代においても紛争は絶えず、主権の奪い合いが続いています。
 


17:9-14
 神はまた、アブラムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼をうける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつも時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。
 あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」

 
ヘブライ語原典では「そして神はアブラハムに向かって言った。『だからお前はわたしの契約を守れ。お前とお前の後のお前の子孫は、彼らの代々にわたって。これが、わたしの間とお前たちの間に、またお前の後のお前の子孫の間に、お前たちが守るわたしの契約である。すべての男子はお前たちに割礼されよ。そして、お前たちはお前たちの包皮の肉を割礼されよ。そして、それがわたしの間と、お前たちの間に、契約の印になる。また生後8日目に男子は割礼されよ。(お前の)家に生まれた者も、すべての外国人の子から銀で買われた者も、すべての男子はお前たちの代々にわたり、お前たちのために割礼されよ。必ず割礼されよ。お前の家で生まれた者、お前の銀で買った者は。そして、わたしの契約がお前たちの中の肉に、永遠の契約としてあれ。そして無割礼の、彼の包皮の肉に割礼されていない男子は、その民の中から断たれる。彼はわたしの契約を破ったのだから。」です。

 
神様とアブラハム、そしてその子孫たちとの契約の印は「割礼」であると、神様はアブラハムに言われました。
 割礼については、様々な解釈がありますが、それ以前に、もしアブラムがハガイとの間ではなく、サライとの間に子をもうけていたら、つまり神様がアブラムに度々言われたその言葉に信頼し、アブラムとサライとの間に子が生まれる「とき」を待っていたとしたら、神様は割礼を命じておられただろうか、という点にまず目を留めるべきでしょう。
 もし「割礼が神との契約の印」としての絶対必要条件であるならば、神様がアブラムに地を与えると何度も言われているその時々に、いつでも契約の印として割礼を命じておられたはずです。ところが、神様はアブラムとハガルとの間にイシュマエルが生まれた後に、初めて割礼を命じ、あらたに契約の印とされています。この時系列から考えたとき、アブラムとハガイとの間ではなく、初めからサライとの間に子をもうけていたならば、神様は割礼を命じる必要はなかった可能性がある、ということになります。
 この事実は、アブラムは自らの勝手な判断によって、エジプト人ハガルとの間に子をもうけたために、アブラムの種=命を継承するその部分を切開し、血を流す必要があった、それが割礼だということを示しています。このことのために、アブラハム以降の子孫たちも皆、男子はその部分の血を流してから子を産む必要が生じたということです。アブラハムの直系だけでなく、アブラハムの家に属する外国人もすべて割礼する必要があったのは、アブラハムに属する者は、アブラハムに祝福された者なので、アブラハムの祝福にあずかるための条件として、アブラハムとその子孫たちと同じく割礼が条件となったということになります。
 そうすると割礼は、血統を継承することにおいて意味をもっている印だということになります。イエス様が来られたとき、イエス様を継承する者はイエス様に接ぎ木される者だとされました。そうすると、血統的にではなく霊的にイエス様に接ぎ木される者には、割礼は必要となるでしょうか。
 イエス様は、それとは別の契約を12使徒と共に結びました。イエス様が契約されたのは、過越の晩餐(食事)における契約です。過越の食事における「種入れぬパン」の意味はイエス様の肉という意味であり、過越の食事における「決められた時々に飲むぶどう酒」の意味はイエス様の血という意味であったことを、イエス様は明らかにされました。イエス様と過越の食事を共にした12弟子たちは、イスラエルの民が代々やってきた過越の食事の本当の意味を、このとき悟ったのです。過越の食事を知らないと、イエス様が言われたことの意味も分かりません。
 神様がアブラハムに言われている言葉に注目してください。イエス様は「神様の言葉」ですから、これはイエス様が言われた言葉でもあります。イエス様が過越の食事(最後の晩餐)で言われた「肉」と「血」は、神様がアブラハムに言われた「肉」と「血」のことを指しています。同時に、それは過越の食事で儀礼化されている作法の、本当の意味を明らかにしたのでもあるのです。過越の食事の儀礼の作法では、そこで食される様々なものに意味があったのです。パンを半分に裂く理由、裂いたパンを布に隠しておいて最後にデザートとして出す理由、あえて回数を分けて飲むぶどう酒。子羊の肉の意味。苦菜の意味。塩の意味。
 パウロは、このイエス様の契約に同席していませんでしたから、その意味を知りませんし、イエス様の契約にあずかっていません。ですからキリスト教会は、これを「聖餐式(せいさんしき)」という別のものにすり替えてしまっており、イエス様がされた契約の本当の意味が理解されていない、と言えます。
 イエス様の12使徒との契約がそうだからといって、キリスト教会がしたように割礼しているユダヤ人を迫害する根拠とはなりませんし、イエス様と契約した人をユダヤ人が非難する根拠もありません。ユダヤ教徒とキリスト教徒の間の、割礼の有る無しの問題は、それぞれに非難し合う問題ではなく、それぞれに認め合うべき問題だということです。

 さて、神様がアブラハムに求められた「全き者=傷のない者、純情な者」には、「混じりけのない者」という意味があります。このことからも、エジプト人ハガルとの間に子をもうけることは神様の意向に沿うことではなかったことが分かります(結果的に神様はハガルとイシュマエルを哀れに思い、その子孫を増やされますが)。
 この「割礼の契約」は、後の子孫たちの間で単に肉体に施される形式的な、表面的なものになっていきます。そのため神様は、預言者を通して何度も警告を発せられます。

「まことに、主はユダの人、エルサレムの人に向かって、こう言われる。『あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。ユダの人、エルサレムに住む人々よ 割礼を受けて主のものとなり あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに わたしの怒りは火のように発して燃え広がり 消す者はないであろう。」(エレ4:3-4)

「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの人々、モアブ、すべて荒れ野に住みもみ上げの毛を切っている人々、すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し、また、心に割礼のないイスラエルの家をすべて罰する。」(エレ9:25)
 
「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」(申10:16)

「あなたの神、主は、あなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。」(申30:6)

 「割礼の契約」は、神様とアブラハムとその子孫たちとアブラハムに属する人たちが、「心の割礼」を伴って「全き者」となってこそ、意味を持つ契約なのです。



17:15-21
 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」
 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」 
 神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」

 
ヘブライ語原典では「神はアブラハムに向かって言った。『お前の妻サライは、彼女の名をサライとお前は呼ぶな。なぜなら彼女の名はサラ。そしてわたしは彼女を祝福する。わたしは彼女からお前に男児を与えた。わたしは彼女を祝福する。彼女は諸国民のものになる。彼女から諸民族の王たちがある。』 アブラハムは倒れた。そして彼の顔の上に笑った。そして彼の心の中で言った。『百歳の者に生まれるだろうか。そして九十歳の女サラが産むだろうか。』 そしてアブラハムは神に向かって言った。『どうか、イシュマエルがあなたの面前に生きるように。』 神は言った。『しかしお前の妻サラがお前に男児を産む。そしてお前は彼の名をイサクと呼べ。わたしはわたしの契約を、彼の後の、彼の子孫のために、永遠の契約として彼と共に立てる。そしてイシュマエルについて、わたしはお前に聞いた。見よ、わたしは彼を祝福した。そして彼の実を結ばせる。そしてわたしは、彼を非常に、非常に増やす。彼は十二人の首長たちを産ませる。わたしは彼を大きな国民にする。しかし、わたしはわたしの契約を、次の年のこの期日にサラがお前に産むイサクと共に立てる。」です。

 
神様は、アブラムの妻サライをサライと呼ぶな、なぜなら彼女の名はサラだ、と言われます。「サライ」の名の意味は「わたしの女王」です。「サラ」という名はアブラハムの場合と違って「諸国民のもの(母)」という意味ではありません。
 神様は、サライのヘブライ名からヘブライ語のヨードという1字を取って、その代わりに「ヘイ」の1字を与え、サライと同じ「ヘイ」の1字がアブラムに与えられて、アブラハムになったのです。
 2人に与えられたヘブライ語の「ヘイ」の文字の形は、あばら骨の形をしています。創世記2章21-22節で「人を深い眠りに落とされた。人が眠りこむと、あばらの骨の一部を抜き取り、その後を肉でふさがれた。そして、人から向き取ったあばら骨で女を創り上げられた。」という譬えには、実は深い意味が隠されていたのです。
 この「ヘイ」の文字は、ヘブライ語の「ハーラフ」の頭文字で、「ハーラフ」とは「歩き回る」という意味です。この「歩き回る」はアブラムがロトと別れて、神様がカナンの全地を「歩き回れ」と命じられた際と同じものです。
 「ハーラフ」が聖書で最初に登場するのは、エデンの園においてです。神様は、アダムとエバが自分から離れたので、エデンの園を歩き回っていました(創1・8)。神様は散歩していたわけではなく、アダムとエバが神様の顔の前で歩き回っていたのに、彼らが神様を離れていって、見えなくなったからです。
 つまり「歩き回る」というのは、神様と人とが交流の中で自由に触れ合うことを言うのです。人間の真の自由は、神様との交流の中で主体的に、自主的に、自分の意志で自由に歩き回れる状態の他には、ないのです。そして、神様の御顔の前で「歩き回る」ことは、「全き者」でなければできません。
 ところが、堕落した人間には、これが容易なことではないのです。堕落した人間としての「常識」が、「全き者」となることを妨げるのです。「全き者」になるには、堕落人間の常識を超えて神様に信頼する必要があるのです。
 アダムのあばら骨(ヘイ)で女が創られたのは、男と女は神様の御顔の前で一つになることによって、一人の人のように「全き者」となるという意味が隠されていたのです。それは、神様と共にある男女が一つになると、神様のようになるという意味です。創世記1:27に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とありました。男と女は一人では神様の似姿ではないのです。神様と共に男と女が一体になってはじめて、神様の似姿なのです。
 神様は、アブラハムとサラに、それを要求しておられるのです。アブラハムとサラとが一体になって「全き者」となることを。神様の前に不完全な者同士が一つになっても(本当は不完全な者同士が一つになることさえできないのですが)、「全き者」にはなりません。
 アブラハムとサラの改名の意味は、2人が、神様が「全能の神」であることを信じ、2人が一体となって「全き者」となり、堕落前のアダムとエバのようになって、神様の顔の前を歩き回れ、という意味なのです。
 
 ところが、アブラハムはここでもまた堕落人間の常識が邪魔します。アブラハムとサライの間に男の子が生まれると聞いて、アブラハムは笑うのです。そして、イシュマエルが神様の前に生きるように、と言います。しかし全能の神様は、もはや猶予しません。来年のこの期日にサラがイサクを産み、神様はイサクとの間に契約を共に立てる、と言われます。イシュマエルについても子孫を増やし、12人の首長たちを産ませて大きな国民にすることを約束されます。そして、ここでは神様は、サラとイシュマエルを祝福しています。
 サラは、アブラムの子孫を残すために、年寄りの自分は子を産めないと思い、女奴隷ハガルを差し出しました。サライは断腸の思いでそうしたのです。それは神様から出たことではなく、自分の心から出たことで、良いことではありません。ただ、それは罪を犯したわけではないのです。むしろ、アブラムがサライの申し出を断固として拒否し、サライを諭すべきでした。しかしアブラムはサライの申し出を受けてしまいました。跡継ぎが欲しいと欲求が先立ってしまったのです。
 このことは、アブラムとサライがともに未熟で、一体にもなっていなかったことを表しています。だから神様は「全き者」となるよう、一体になるよう、改名されたのです。



17:22-27
 神はこう語り終えると、アブラハムを離れて昇って行かれた。
 アブラハムは、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や買い取った奴隷など、自分の家にいる人々のうち、男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。アブラハムが包皮に割礼を受けたのは、九十九歳、息子イシュマエルが包皮に割礼を受けたのは、十三歳であった。アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼をうけた。アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷も皆、共に割礼を受けた。


 ヘブライ語原典では「神は彼と共に話すことを終えた。そして神はアブラハムの上から上った。アブラハムは彼の息子イシュマエルと、すべての彼の家で生まれた者たち、アブラハムの家にいる銀で買ったすべての男子たちを取って、この日、神が彼と共に語ったとおりに彼らの包皮の内の肉を割礼した。アブラハムが彼の包皮の肉に割礼された時は、九十九歳であった。そして彼の息子イシュマエルが彼の包皮の肉に割礼された時は、十三歳であった。彼の家で生まれた者、外国人の子で銀で買われた者もすべての人々が、彼と共に割礼された。」です。

 アブラハムは、神様からサラに男児が生まれると言われた時には笑いましたが、即座に、神様が言われたとおりに、その日のうちに割礼しています。「割礼された」という表現は、神様によって「された」という意味を含む言い方です。それは、肉の割礼だけでなく、心の割礼もされたことを意味しています。その証拠に、笑ったアブラハムが即座に、神様が言われたとおりに実行しています。それはアブラハムの心が割礼されたから他なりません。





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