安息日の礼拝  創世記の真相

創世記21章




21:1-8
 主は、約束されたとおりサラを顧み、サラに語られとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」 サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう、サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました。年老いた夫のために。」
 やがて子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。


 ヘブライ語原典では「主は言ったとおりにサラを訪れ、主はサラに語ったとおりに行った。そしてサラは妊娠し、アブラハムに男児を産んだ。神がそれを語った、その期日に。そしてアブラハムは、サラが彼に産んだ、彼に生まれた彼の息子の名前を、イサク(笑い)と呼んだ。アブラハムは、神が彼に命じたとおりに彼の息子に割礼をした。それは息子が生後8日目の男子となった日であった。アブラハムは、彼の息子イサクが彼に生まれた時、百歳であった。サラは言った。『神が私のために笑いを作ってくださった。聞く者は誰でも、私のために笑ってくれるだろう。』 そして彼女は言った。『誰がアブラハムのために口に出したか。サラが息子たちに授乳したと。真に私は彼の老齢に男児を産んだ。』 そして、その男の子は成長し、乳離れした。アブラハムは、イサクが乳離れした日に、大きな宴会を行った」です。

 主がアブラハムに「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」(創18:10)と言われたとおり、その期日にサラは男児を産みました。主がそう言われるのを聞いた1年前、サラは自嘲の笑いをもらしましたが、その笑いは、歓喜の笑いに変わったのです。
 主は1年前にサラが笑った時、その自嘲の笑いが後には歓喜の笑いになることを知っていたのです。なぜなら主は、サラが自嘲して笑う前に、あらかじめアブラハムに「その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。」(創17:19)と告げていたのです。その後に、アブラハムに「来年の今ごろ、必ずまたここに来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」(創18:10)と言った際に、それを聞いていたサラが自嘲して笑い、主は「なぜサラは笑ったのか」と言い、サラが「わたしは笑いませんでした」と言っても、「いや、あなたは確かに笑った。」(創18:15)と言われたのです。
 そうです。主は何もかもご存じの上で、前もってアブラハムに「イサクと名付けなさい。」と言われていたのです。サラが笑ったのは、サラの不信仰というよりも、主が後にサラに最上級の歓びをもたらすために、あらかじめ分かっていたことなのです。
 サラも、イサクが生まれたとき、気付いたのかも知れません。サラは、子が生まれない自分を自嘲して笑った、あの時の自分の悲しい笑いを、主が最上級の笑いに変えてくださったことを、心の底から、魂の底から、喜びました。そしてサラは、こう言います。「誰がアブラハムのために口に出したか。サラが息子たちに授乳したと。真に私は彼の老齢に男児を産んだ。」と。これは、サラの神様への最大級の賛美です。
 そして、その後、イサクが乳離れした日に、アブラハムは大きな宴会を行いました。

 

21:9-11
 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。

 
ヘブライ語原典では「サラは、エジプト女ハガルがアブラハムに産んだハガルの息子が、戯れているのを見た。そして彼女はアブラハムに言った。『この女中と彼女の子を追い出しなさい。なぜなら、この女中の子は私の息子イサクと共に(祝福を)継がない。』 この事は、アブラハムの息子のために、アブラハムの目に非常に悪かった。」です。

 新共同訳聖書からは、女奴隷ハガルの子イシュマエルがイサクをからかっている様子を見て、サラが不愉快に感じ、ハガルとイシュマエルを追い出すようアブラハムに訴えたように読めます。これを読んだ人の多くは、サラのことを「感情的で、わがままで、身勝手な女」と感じるでしょう。そして、ハガルとイシュマエルが可哀相だと思うことでしょう。
 しかし、ヘブライ語原典を読むと、そういうことではないのです。新共同訳が「からかっている」と訳している「メツァヘク」は、からかっているというよりも「戯れ」と訳すべき言葉で、しかもその戯れは単なる遊びではなく、偶像崇拝・姦淫・殺害と同じ意味を持つ言葉なのです。
 おそらく、この時17歳ほどになっていたイシュマエルは、3歳ほどになったイサクの乳離れを祝う大宴会で、イサク殺害を連想させる戯れをしたのです。イシュマエルは、皆に祝ってもらっているイサクに嫉妬して、そのような戯れをしたのかも知れません。しかしサラは、不吉な予感を感じ取ったのです。その証拠に、このときサラが言った言葉に気を悪くしたアブラハムに対して、神様はサラが正しいと擁護するからです。
 アブラハムは、年老いて初めて生まれた長男のイシュマエルを愛していたでしょうから、サラが言った言葉を“悪いもの”と見ましたが、サラは決して感情に支配されて言ったのではありませんでした。
 アブラハムが、ハガルの子イシュマエルでなくサラの子イサクを後継者とするつもりなのであれば、もっと早くに、そのことを一族の中ではっきりさせておくべきだったのです。アブラハムが「情」に支配されて、そのことをはっきりさせないで先延ばしにしてしまうと、かつてカインがアベルを殺したように、イシュマエルがイサクを殺してしまうこともあり得るのです。その不穏な空気を、サラはこの時、読み取ったのです。
 サラは、青年イシュマエルが見せた、幼いイサクに対する不穏な戯れに、危険を察知し、アブラハムに訴えたのです。ここで思い出して欲しいのが、かつてハガルがサラのもとから逃げ、シュル街道で主の御使いがハガルに語りかけた言葉です。

「彼(イシュマエル)は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしをふりかざすので 人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」(創16:11-12)。
 
 サラはこのとき、まさにその光景、その兆しを、イシュマエルのイサクに対する戯れの中に見てとったからこそ、アブラハムに訴えたのです。



21:12-18
 神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
 アブラハムは、次の朝早く、パンと水の革袋をとって、ハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ。「わたしは子供が死ぬのを見るのには忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座りこんだ。彼女は子供の方を向かって座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神に御使いがハガルに呼びかけて言った。
 「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」


 ヘブライ語原典では「神はアブラハムに言った。『若者とお前の女中について、お前の目に悪くなるな。サラがお前に言うすべての事を、彼女の声に聞け。なぜなら、イサクによって子孫はお前のものと呼ばれる。しかし、その女中の子もまた、わたしは国民にする。なぜなら、彼はお前の種。』 そしてその朝、アブラハムは早起きし、パンと水の革袋を取って、ハガルに与えた。そして彼は、男の子を彼女の肩の上に与え、彼女を見送った。そして彼女は歩いて行った。そしてベエルシェバの荒れ野で迷った。そしてその革袋から水が尽きると、彼女は一本の低木の下にその男の子を放り出した。そして彼女は歩き、弓の届く位の距離をあけて向き合って座り込んだ。なぜなら彼女は言った。『私は、この男の子の死ぬ時を見たくない』と。そして彼女は向き合って座り込んで、声を上げて泣いた。神は、その若者の声を聞いた。そして神の天使は、天からハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、何がお前にあったのか。恐れるな。なぜなら神は、あそこにいる若者の声を聞かれた。起きよ。若者を持ち上げよ。そして、お前の手で彼をしっかり握れ。なぜならわたしは彼を大きな国民にするからだ。』」です。


 
神様はアブラハムに、イシュマエルとハガルのことでサラのことを悪く見るな、サラがお前に言うすべてのことを聞き入れなさい、と言います。「悪く見るな」というのは、アブラハムはサラが悪いように見るけれども、サラは悪くない、ということです。
 神様は、イサクによって子孫はお前のものと呼ばれると告げ、またイシュマエルも国民にする、なぜなら彼はお前の種の子だから、と告げます。神様は以前から、そう言われていました(創17:19-21)。アブラハムはそのことを思い出したでしょうし、イシュマエルとハガルを去らせるべき時は今だと悟ったのでしょう。サラが正しかったということも、理解したはずです。
 アブラハムは次の朝に早起きして、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、イシュマエルと共に去らせます。このことは冷たい行動に見えるかも知れませんが、「情」に支配されてしまっていたアブラハムの目が覚めたのです。少しでも先延ばしにしていたら、取り返しのつかないことになったかも知れません。
 神様が約束された以上、パンと水の革袋だけを与えてもハガルとイシュマエルが死ぬことはありません。しかし、追い出されたハガルは、革袋の水が尽きたとき、絶望します。ハガルは一本の低木の下にイシュマエルを放り出し、弓の届く位の距離をあけて向き合って座り込み、『私は、この男の子の死ぬ時を見たくない』と言います。実は、この「弓の届く位の距離をあけて」にも意味があるのです。その意味は次節で判明します。
 ハガルは声を上げて泣きますが、神様はイシュマエルの声を聞き入れ、イシュマエルを大きな国民にするのだから、彼を持ち上げて、しっかりと握れ、と勇気づけます。
 ハガルが以前、サライのもとから逃亡した際には、神様がハガルの声を聞き入れたのではありませんでした。御使いの方からハガルに現れたのです。しかしイシュマエルはハガルの場合とは違い、神様はイシュマエルの声を聞き入れたのです。それはイシュマエルがアブラハムの種(遺伝子)を受け継いでいる子だからです。



21:19-21
 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。
 
 
ヘブライ語原典では「神は彼女の目を開いた。すると彼女は、水の井戸を見た。そして歩いて行って、水の革袋を満たし、その若者に飲ませた。そして神がその若者と共にいたので、彼は成長した。彼は荒れ野の中で住み、弓を射る者になった。彼がパランの荒れ野に住んだとき、彼の母は彼のためにエジプトの地から妻を取った」です。

 
ハガルは、すぐ側に井戸があることにも気付かずに絶望していました。しかし神様はイシュマエルを憐れまれ、ハガルの目を開かれたので、ハガルは水のある井戸を見つけます。そしてイシュマエルに、水を飲ませました。
 その後も、神様がイシュマエルと共におられたので、イシュマエルは成長し、荒れ野に住んで「弓を射る者」になりました。
 前節で、ハガルは「私は、この男の子の死ぬ時を見たくない」と言って、弓の届く位の距離をあけて向き合って座り込みましたが、そのことが後に彼を「弓を射る者」にしたのです。母ハガルが、子供のために取った距離=矢の届く位の距離と、息子イシュマエルがその同じ距離を一気に縮める弓の使い手になったことを示唆し、母子の強い情の繋がりを示しているのです。そしてそのトラウマと、イシュマエルの攻撃的な性質をも示しています。
 ハガルはイシュマエルのために、エジプトの地から妻を取ります。イシュマエルは、神様がアブラハムに「イシュマエルは12人の首長の父となろう」(創17:20)と言われていたとおり、12人の息子たちをもうけます。その子らの名は、ネバヨト、ケダル、アドベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケドマです。
 イシュマエルの子孫たちは、エジプトやアラブの12首長となり、大きな国民となります。



21:22-34
 そのころ、アビメレクとその軍隊の長ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。どうか、今ここでわたしとわたしの子、わたしの孫を欺かないと、神にかけて誓って(シャバ)ください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください。」
 アブラハムは答えた。「よろしい、誓いましょう。」
 アブラハムはアビメレクの部下たちが井戸を奪ったことについて、アビメレクを責めた。アビメレクは言った。「そんなことをした者がいたとは知りませんでした。あなたも告げなかったし、わたしも今日まで聞いていなかったのです。」
 アブラハムは羊と牛の群れを連れて来て、アビメレクに贈り、2人は契約を結んだ。アブラハムは更に、羊の群れの中から7匹(シェバ)の雌の子羊を別にしたので、アビメレクがアブラハムに尋ねた。
 「この7匹の雌の子羊を別にしたのは、何のためですか。」
 アブラハムは答えた。「わたしの手からこの7匹の雌の子羊を受け取って、わたしがこの井戸(ベエル)を掘ったことの証拠としてください。」 
 それで、この場所をベエル・シェバと呼ぶようになった。2人がそこで誓いを交わしたからである。2人はベエル・シェバで契約を結び、アビメレクと、その軍隊の長ピコルはペリシテの国に帰って行った。アブラハムは、ベエル・シェバに1本のぎょうりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した。

 
ヘブライ語原典では「その時であった。アビメレクと彼の軍の長ピコルはアブラハムに言った。『神はあなたがしているすべてにおいて、あなたと共におられる。それで今ここに神によって私に誓ってください。私に、また私の孫に、また私の曾孫に、決して嘘をつかないでください。私が行った慈しみのように、あなたもまた、あなたが寄留したこの地と私にしてください。』。アブラハムは言った。『私は誓う』 しかしアブラハムは、アビメレクの奴隷たちが奪った水の井戸のゆえに、アビメレクをとがめた。アビメレクは言った。『私はこの事を誰がしたか知らなかった。そしてあなたもまた私に告げなかったので、私も今日を除いて聞かなかった。』 アブラハムは、羊の群れと牛の群れを取ってアビメレクに与え、彼ら2人は契約を結んだ。そしてアブラハムは、羊の群れから7頭の雌羊たちを、それだけ別にして、立たせた。アビメレクはアブラハムに言った。『あなたが、それだけ別に立てた、これらの7頭の雌羊たちは何ですか。』そして言った。『この井戸を私が掘ったことの証拠に、7頭の雌羊たちを私の手からあなたが取る。』それゆえに彼はその場所をベエルシェバと呼んだ。なぜなら、彼ら2人がそこで誓いあったからである。こうして彼らは、ベエルシェバで契約を結んだ。そしてアビメレクと彼の軍の長ピコルは立ち上がって、ペリシテ人の地に帰った。そしてアブラハムはベエルシェバで、ぎょりゅうの木を植えた。そしてそこで、永遠の神を、主の名で呼んだ。そしてアブラハムはペリシテ人の地に多くの日々、寄留した。」です。

 新共同訳聖書では「アビメレクとの契約」という小見出しが記されていますが、この箇所に書かれていることはアブラハムとアビメレクの契約というよりも、アブラハムとアビメレクの契約に隠された、アブラハムの神様への誓いというべきものです。
 新共同訳聖書では分かりにくいですが、ヘブライ語原典を読むと、イサクの誕生を知ったアビメレクが軍の長を連れてアブラハムの所に来たのだということが分かります。アブラハムとサラにイサクが生まれて乳離れしたことを知ったアビメレクは、その子孫たちが自分たちを脅(おびや)かすのではないかと恐れて、軍の長を連れてアブラハムの所に来たのです。
 アビメレクはアブラハムに「今ここに神によって私に誓ってください。私に、また私の孫に、また私の曾孫に、決して嘘をつかないでください。私が行った慈しみのように、あなたもまた、あなたが寄留するこの地と、私にしてください。神にかけて自分の子孫たちを欺かないで慈しみをもって接すると誓って(シャバ)ください」と持ち掛けます。
 この申し出に対してアブラハムは、「私は誓う(シャバ)」と返答しますが、その直後に、アビメレクの奴隷たちが井戸を奪ったことを、とがめます。とがめられたアビメレクは「知らなかった」と言います。アブラハムは、羊の群れと牛の群れを取ってアビメレクに与え、彼ら2人は契約を結びます。

 これを読んで、おかしいと感じない人は目が開いていません。アビメレクの奴隷に井戸を奪われたアブラハムが、どうしてアビメレクに羊の群れと牛の群れを贈って契約を結んでいるのでしょうか。
 実は、アブラハムはアビメレクの巧妙な言葉の罠に気付いたのです。アビメレクは、アブラハムに対して、アブラハムが自分に嘘をついたように自分の子孫たちに嘘をつかないでほしい、自分がアブラハムにしたように慈しみで接するよう神様に誓ってください、と持ちかけたのですが、このアビメレクの言葉は正しいでしょうか?
 いいえ、実際にはアブラハムはアビメレクに嘘をついてはいませんし、アビメレクがアブラハムに贈った牛や羊も、慈悲から出た行いではなく、アブラハムの神様が夢の中で「サラを返さなければ、あなたも家来も皆、必ず死ぬ」と言われて、恐れたからサラを返すと共に牛や羊をアブラハムに贈ったのです。
 アビメレクは、その事実を巧妙に歪めて、自分に有利な契約をアブラハムと結ぼうとして持ち掛けたのです。アブラハムは、それを見抜きました。そして「あなたの奴隷たちがわたしの井戸を奪った」と言ったのです。この一言でアブラハムは、アビメレクがしたことが慈悲から出たものではない、その証拠にあなたの奴隷たちは慈悲で接するどころか井戸を盗んだと、アビメレクの偽りに乗せられると思ったら大間違いだ、と突き付けているのです。
 この一言でアビメレクは出鼻を挫かれ、「私はこの事を誰がしたか知らなかった。そしてあなたもまた私に告げなかったので、私も今日を除いて聞かなかった。」と言い訳するのが精一杯になります。
 ここで立場が逆転したのです。アビメレクが自分の土俵にアブラハムを乗せようとしたのに対して、アブラハムは一瞬にして自分の土俵にアビメレクを乗せたのです。
 アブラハムは、アビメレクが持ち掛けたとおりには、神様に誓うことをしないのです。当然です。かつてアブラハムがアビメレクに対してしたことは、サラと共にアダムとエバの元がえしをするために、蛇の立場にいるアビメレクからエバを無傷で取り返したのです。それは神様の意向を果たすためにしたことでした。ですから、アビメレクが持ち掛けた偽りに乗るわけにはいかないのです。だからこそアブラハムは井戸のことを持ち出して、アビメレクの偽りを暴いたのです。
 かつてのエバは蛇の言葉に対して、アブラハムがしたようにすべきでした。このアビメレクの狡猾さは、まさに蛇の狡猾さと同じです。親切そうに見せかけて、実は自分の利のために相手を利用しようとしているだけなのです。

 アブラハムは、羊と牛の群れを連れて来てアビメレクに贈りました。しかし、それはそもそもアビメレクが神様への恐れからアブラハムに贈ったものの一部です。つまり、それをアビメレクに返しているだけなので、アブラハムは何も損失していないのです。こうしてアブラハムはアビメレクが持ち掛けてきた罠にかかることなく、何も損失することなく、アビメレクとの間に契約を結びました。
 神様の前に偽りは通じないことを、アブラハムはアビメレクに示したのです。アブラハムが即座にアビメレクの偽りに気付いたのは、アブラハムが神様に忠実な生活をしていたからです。神様に忠実というのは、こういうことを言うのです。どんなに神様に忠実なそぶりをしても、こういうことを見抜けないと、実際には神様から遠く離れて世に親しんで生活していることがバレてしまうのです。
 アブラハムは、しっかりと神様に忠実に、アビメレクに対処したのです。その上で、さらにアブラハムは羊の群れの中から7頭の雌羊を別にして立たせました。「別にした」というのは、聖別したのです。アビメレクと軍の長ピコルにはその意味するところが分かりませんが、ここからが「神様への誓い(シャバ)」なのです。誓い(シャバ)と7(シェバ)は掛詞(かけことば)になっています。聖書の中で神様は、何度も掛詞を使われていますが、聖書の中の掛詞というのは単に発音が似ているというだけでなく、一つの言葉に多くの意味を持っている言葉どうしが、同様の意味を有することで、それが神様の力を宿し、確かなものとして聖化されるという性質を持つのです。
 アブラハムは、それをしているのです。アビメレクとピコルには分からないけれども、アブラハムは神様の前で、この井戸を自分と子孫たちのために永遠のものとして聖化しようとして、神様に誓おうとしているのです。アビメレクが持ち掛けてきた偽りの「神様に誓ってください」が、井戸を聖化するという、まったく別のものになって「神様に誓う」のです。アビメレクが持ち掛けてきた「神様に誓う」は何も違っていませんから、アビメレクが言ったとおりに、そしてアブラハムが「誓いましょう」と言ったとおりに神様に誓うのですが、その中身はまったく別のものになっているのです。
 さて、聖化のための7頭の羊は、7は神様の創造の完全数で、事が成就すること、神様のものであることを示します。羊は「神様の民」を意味します。雌(女)の羊は、神の聖衆(会堂、教会)を意味します。平たく言えば7つの教会(会堂)です。7つの教会は、神様の言葉(=イエス様)という「命の水」がある所です。つまり、この井戸は単に肉の渇きを潤す井戸ではなく、神様が共にあって魂を潤す井戸でもあることを、アブラハムは神様の前に誓っているのです。アブラハムは『この井戸を私が掘ったことの証拠に、7頭(シェバ)の雌羊たちを私の手からあなたが取る。』と言って、神様に誓う(シャバ)のです。この掛詞で、この井戸を永遠にアブラハムの子孫のものであると神様の立ち合いの元に誓ったのです。
 これで井戸は永遠にアブラハムの子孫たちのものになりました。アビメレクとピコルは何も分からないうちに、その証人になった(された?)のです。

 アブラハムの知恵は、これだけで終わりません。アビメレクとピコルが帰った後、アブラハムはそこに「ぎょうりゅうの木」を植えます。「ぎょうりゅうの木」というのは柳の一種で、水辺に生育する木であることをアブラハムは知っていました。これをそこに植えたということは、逆に、「ぎょうりゅうの木」がここに生えているということは、そこに水があるということをアブラハムの子孫は知ることになるわけです。アブラハムが死んだ後も永遠に、もし子孫たちの身に何かあって、この荒れ野をさまよう時には、「ぎょうりゅうの木」を見つければ、井戸を見つけることができるのです。
 アブラハムは、「そこで、永遠の神を、主の名で呼んだ。」と書かれています。ここにあえて「永遠の神」とあるのは、アブラハムが井戸を永遠に自分の子孫たちのものにしたことを、永遠の神に認証して頂くということです。「主の名で呼んだ」というのは、こういうことです。「主の名」は、後にモーセが柴で出会う主が明らかにしますが、「わたしは、ある」という名です。つまりアブラハムは、この場所は永遠に主が共におられる場所である、としたのです。
 「主の名で呼ぶ」というのは、「イエス様!」と言ったり、「ヤハウェ(エホバ)!」と言ったりすることではありません。神様と共にある人物が、神様がここにおられるということを証しすることなのです。だからこそ律法で、「主の名をみだりに唱えてはならない」と命じられているのです。
 アブラハムは、この井戸の周囲に地下の水脈があることを、おそらく知っていたのでしょう。詩編126:4に次のようにあります。

「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのようにわたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。」

 このベエルシェバは、後に井戸に繋がる水脈が見つけられ、現在はそこが川になり、荒れ野だったはずの場所はネゲブの中心たる大都市になっています。
 
 「ぎょうりゅうの木」には、もう一つ、興味深い話があります。後に出エジプトするイスラエルの民は、荒れ野でマナを食べて養われたことが聖書に記されています。マナは「コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」(出エジプト16:31)とあります。多くの学者は、このマナについて、次のように言っています。
「ぎょうりゅうの木に寄生する昆虫の排泄物たっだのではないかと考えている。それは薄い色をしていて、砂糖のような甘さがあり、急速に蒸発すると白色の粒子に固まり、地上に転び落ち、蟻の餌になるという。」と。
 ということは、「ぎょうりゅうの木」はマナを生じる木でもあります。アブラハムの子孫たちが、もし何らかの事情で飢え乾いたとき、ここで肉を養うマナ(パン)と、渇きを潤す井戸の水を得ることができるのです。また単に肉の飢えと渇きを潤すだけでなく、ここは魂の飢えと渇きを潤す神様がおられる地でもあります。
 
 7頭の雌羊は、後にイエス様が「パンと魚の奇跡」をされることにも関連しています。イエス様は「パンと魚の奇跡」を2度されるのですが、1度目は5000人程の男たちを50人位ずつに分けて座らせ、5つのパンと2匹の魚を裂いて配り、全員が満腹して残ったパン屑を集めると12籠になります。この直後にイエス様は霊の姿になります。それは後にイエス様が十字架後に復活された際と同じ姿で、イエス様はこのとき弟子たちに前もってその姿を見せておかれたのです。
 そして2度目は、4000人程の男たちを今度は分けて座らせず、7つのパンと少しばかりの小さい魚を裂いて配り、全員が満腹して残ったパン屑を集めると7籠になります。この直後にイエス様は「ファリサイ派とヘロデ(もしくはサドカイ派)のパン種に気を付けなさい」と言われます。
 これらのことには、ある重要な意味があるのですが、弟子たちはこの時には、その意味に気付いていませんでしたのでイエス様は弟子たちを叱ります。
 このときにイエス様が成されたことは、アブラハムの7匹の雌羊と関連しているのですが、ここでは触れないでおきます。すべての数字にも隠された意味があります。
  
 さて、アブラハムが神様に誓った7頭の雌羊の井戸=ベエル・シェバは、このときからヨハネ黙示録が記している「終わりのとき」に至るまで、重要な意味をもつ場所です。実際、この誓いの時から現在に至るまでイスラエル人とペリシテ人(パレスチナ人)との間に、重要な場所となっているのです。
 一方、ハガルがかつて御使いに出逢った場所にある井戸=ベエル・ラハイ・ロイは、カナンとエジプトの中間にあります。その場所は、神様の聖域(カナン)と世(エジプト)のちょうど中間地点です。このことは、ハガルやイシュマエル、その子孫の立場が、神様と世の間に位置していて、その間を行ったり来たりすることを示しています。






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