安息日の礼拝  創世記の真相

創世記24章




24:1-4
 アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何ごとにおいてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。
 アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘からとるのではなく、わたしの一族のいる故郷に行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」


 ヘブライ語原典では「アブラハムは年老いた日々に入った。主はアブラハムをすべてにおいて祝福していた。アブラハムは彼の家に属するすべての者を納める年寄りの僕に言った。『さあ、お前の手を私の股の下に置け。そして私はお前に、天の神、地の神であられる主にかけて、私の息子の妻を私が住んでいるその真ん中のカナン人の娘たちの中から取らないことを誓わせる。むしろ、私の地に、また私の故郷に、お前は歩いて行け。そして私の息子イサクのために妻を取れ』」です。

 アブラハムは最後の大仕事をするために、彼の家に属するものすべてを管理させている僕を呼び寄せて、40歳になった息子イサクの嫁を取りに行かせます。
 22章でアブラハムがイサク献祭を成功させた後に、アブラハムの弟ナホルが12人の子供を生み、そのうちのベトエルにリベカという娘が生まれたことの意味に気付かないと、24章を正しく理解することはできません。
 22章を理解していないと、アブラハムはイサクの嫁を取るに際して、単にカナン人からではなく、同族から取るという表面的な理解になってしまうのです。実際、そうした理解が一般的です。
 しかし、アブラハムはイサク献祭を成功させた後に、神様がイサクの嫁を用意されたことを知ったのです。それはイサクの従兄ベトエルの娘でした。その娘が成長するまで待っていたからこそ、イサクは40歳になるまで嫁を取っていなかったのです。ただ、アブラハムは年老いて、自分の足で弟ナホルの町アラム・ナハライムへ向かうことができなくなっていました。
 アラム・ナハライムとは「2つの川のアラム」という意味で、チグリス川とユーフラテス河に囲まれた町ハランにありました。ハランはアブラハムの故郷でもあります。また息子イサクをそこへ行かせる訳にもいきませんでした。その理由は、これからわかりますが、イサクがハランに引き留められることになってしまっては、神様から与えられたカナンの地で子孫を繁栄させることができなくなるからです。
 23章にサラのの死と埋葬のことが記されていることも、イサクの嫁取りと無関係ではありません。
 アブラハムとサラは、アダムとエバの罪の元がえしをしました。その結果、イサクが生まれたわけです。つまりイサクは、堕落する前のアダムと全く同じではありませんが、堕落する前のアダムに限りなく近い存在として生まれたのです。では、サラの元がえしによって生まれるはずの、堕落する前のエバに限りなく近い存在は、どこにうまれるのでしょう。アブラハムとサラの信仰の勝利によって神様は、その女性を生ませることができる条件が整ったと言えます。しかしアブラハムとサラとの間に、イサクの妹として生まれて来ては、近親相姦になってしまいます。そこで、その女性はアブラハムの弟の一族として、しかも「いとこ」ではなく、もう一代遠い身うちとして生まれて来るのです。アブラハムとサラが、アダムとエバの罪の元がえしした故に、サタンはこれを阻害することができません。
 つまり、新たなアダムとなるべきイサクのよねは、単にカナン人の娘ではいけないということだけでなく、新たなエバとなるべき娘なのです。しかし、アブラハムは僕にそういうことを話しても僕は、理解することができませんので、アブラハムは僕にこのように言ったのです。ただし大事なことは、僕の手をアブラハムの股の下に置かせて、誓わせていることです。アブラハムの股の下とは、神様がアブラハムに「全き者となれ」と言われて割礼の契約をさせ、アブラハムの子孫をますます増やすようにされた体の部位です。それは、神様とアブラハムとの契約を実現させるための、イサクの嫁取りであることを僕に行わせるにあたり、厳格な誓いをさせるためでもありました。
 アブラハムは、イサクの嫁を神様が用意されている確信を抱いていましたが、アブラハム自身が老齢のために、そこに出向くことができず、イサクを行かせる訳にもいかないため、信頼する僕に行かせるのですが、僕は見ず知らずの人々の中から、神様が用意されているイサクの嫁を見つけて連れ帰らなければならないのです。並大抵の使命ではありません。



24:5-10
 僕は尋ねた。「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、ご子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」
 アブラハムは答えた。「決して、息子ををあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」
 そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した。


 ヘブライ語原典は「その僕は彼に言った。『もしかしたら、その女がこの地へ、私の後ろを歩いて行くことをほっしないならば、私はあなたがそこから出てきた地に、あなたの息子を必ず戻すべきでしょうか。』するとアブラハムは言った。『お前に気をつけよ。私の息子をあちらへ連れ戻さないように。天の主なる神は、私を父の家から、また私の故郷の地から連れ出された。そして主が私に語り、【お前の子孫にこの地を与える】と言って私に誓われた。主がお前の顔の前に御使いを遣わす。それでお前は、あちらから私の息子に妻を取れ。しかし、もしその女がお前の後ろに歩いて行くことを欲しないならば、お前はこの私の誓いから解かれる。ただ、私の息子をあちらへ連れ戻すな。』それでその僕は彼の手を、彼の主人アブラハムの股の下に置いた。そしてこの事について彼に誓った。そしてその僕は、彼の主人のらくだたちから10頭のラクダを連れて行った。そして彼の主人のよい者を彼の手に携えて立ち上がり、ナホルの町アラム・ナハライムへ向かって行った」です。

 僕はアブラハムに、もしその娘がこの地に来たくないと言ったら、あなたの息子をあなたの故郷に必ず連れ戻すべきでしょうか、と尋ねています。しかし、アブラハムには一つの選択しかありませんでした。その娘をこの地に連れて来て、イサクの嫁とし、この地で子孫を繁栄させなければならないのです。それは神様が、このカナンの地をアブラハムとその子孫に与えられたからです。
 ですから、僕がそれをできなかったならば、僕は誓いから解かれるのです。その場合は、別の者が使命を果たしに行くことになります。しかし、この僕がそれを成功させなかったとしたら、それを果たすことができるのは、おそらくイサクしかいません。しかし、イサクが行くことになると、その地に留められてしまう可能性があり、それは絶対にあってはならないことでした。この時点で僕は、この使命の重大さを真に理解します。娘を連れて来れなかった場合の第2の選択肢はない、何としても娘を連れて来なければならない・・・そして僕は、アブラハムの股の下に手を置いて、アブラハムと神様とに誓いました。
 僕は、主人の財産の中かららくだ10頭と良い品々を携えます。それはイサクの嫁をもらうための、いわば結納品です。そして僕は、ナホルの町アラム・ナガライムに出発しました。
 聖書に記されているアブラハムの言葉は、これが最期です。



24:11-14
 女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町はずれの井戸の傍らに休ませて、祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」

 ヘブライ語原典では「彼女は、水を汲む女たちが出て来る夕方時に、その町の外で、水の井戸に向かってラクダたちを膝まづかせた。そして彼は言った。『わたしの主人アブラハムの神なる主よ、どうか今日、私の面前に(御業を)起こしてください。私の主人アブラハムと共に慈しみの御業を成してください。御覧ください。私は水の泉の側に立っています。やがて水を汲むために、その町の人々の娘たちが出てきます。その娘に私が言います。【どうぞ、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください】 そして彼女が【お飲みなさい。あなたのラクダたちにも私は飲ませましょう】と言うならば、彼女によってイサクのために、あなたの僕のために、あなたが証しされたと知ることができますように。彼女によって、私の主人にあなたが慈しみをなされたことを知ります」です。

 ナホルの町の外まで来たアブラハムの僕は、町の女たちが井戸に水を汲みに出て来る夕方、井戸に向かってラクダ達を膝まづかせました。井戸に水を汲みに来るのは家の娘の役目できたので、僕はこのことを思い付いたのです。これは僕の知恵でしたが、それだけでは神様の使命を果たすことができません。そこで僕は神様に言います。私が【どうぞ、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください】といいますので、その娘が【お飲みなさい。あなたのラクダたちにも私は飲ませましょう】と言うならば、彼女こそがイサクのために、あなたの僕のために、あなたが証しされた娘であると知ることができますように、と。
 それは僕が、自分の目で見て「この娘だ」と決めつけるのではなく、神様にその娘こそがイサクの嫁として神様が用意されたことを証しして頂くということです。

 一見、何でもないことのように見えますが、僕が娘に要求していることは簡単なことではないのです。 井戸というと、滑車が付いていたり、つるべがあったり、ポンプが付いているような井戸を想像しがちですが、そうではありません。
 「井戸」と訳されている水汲み場は、直径数メートルもある大きな穴の壁面に、階段が掘られ、その遥かそこに水の湧く泉があるため、水を汲むためには大きな水がめを持って、その階段を下り、水を汲んで再びその階段を上がって来るという重労働なのです。
 自分の家の水を汲むことだけでも大変な重労働なのに、見ず知らずの旅人に飲ませる水を汲むことは、誰もがやりたがらないことなのです。その上、その見ず知らずの旅人から、頼まれもしないのに10頭ものラクダたちの水を、私が飲ませましょう、などという女性は、まずいません。
 ラクダは「砂漠の船」と呼ばれるそうです。それは水なしで砂漠を何日も旅できる動物だからです。そのラクダが十分に満足するほどの水を飲ませるのには、幾たびも井戸の階段を、水を満たした重い水がめを持って上り降りしなければなりません。そんなことを見ず知らずの旅人のために、苦もなくしてしまう娘が、他にいるでしょうか? もしいたならば、それは単に「気立てがいい」とか、「親切」「勤勉」「気がきいた」などという人間レベルの賛辞を遥かに超えた娘と、いえないでしょうか。
 アブラハムの僕はもしそのような娘がいるならば、その娘こそ神様がイサクの妻として用意された娘と、神様に証しして下さるよう願ったのです。




24:15-27
 僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやってきた。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。「水がめの水を少し飲ませてください。」
 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。
 彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんできて、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。
   らくだが水を飲み終わると、彼は重さ半シェケルの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら、「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでしょうか」と尋ねた。すると彼女は、「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答え、更に続けて、「わたしどもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊りになる場所もございます」と言った。
 彼はひざまずいて主を伏し拝み、「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。


 ヘブライ語原典では「彼が言うことをおわらないうちに、見よ、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの息子ベトエルの娘リベカが出て来た。彼女の水がめは彼女の肩の上に遭った。その娘は非常に美しい姿の、誰も彼女を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめを満たして上がって来た。その僕は、彼女に向かって走って行って、言った。『どうか、あなたの水がめから少しの水をすすらせてください』。すると彼女は、『ご主人さま、飲んでください』と言った。そして彼女は急いで水が目を彼女の手の上に降ろし、彼に飲ませた。彼女が彼に飲ませ終えると、言った。『あなたのラクダたちにもまた、彼らが飲むことを終えるまで(十分に満足するまで)、私は汲みましょう』。 そして彼女は急いで彼女の水がめの水を水飲み場に注ぎ出し、再び汲むために井戸に走った。そして彼のラクダたちすべてのために、汲んだ。その僕は黙って、主が彼の道を成功させたかどうかを知ろうとして、彼女に見入っていた。ラクダたちが飲み終えた時、僕はその重さ1ベガ(半シェケル)の金の鼻輪1つと、それらの重さが10シェケルの金の腕輪2つを取って、彼女の両手の上に出しながら言った。『あなたは、どなたの娘さんですか、どうか私に告げてください。あなたの父の家は、私たちが泊るための場所がありますか』。 すると彼女は言った。言った。『私はミルカがナホルに生んだ息子ベトエルの娘です』。そして彼女は彼に言った。『わらも、多くのまぐさも、とまるための場所もまた、私たちと共にあります。』 それで僕はお辞儀をし、主にひれ伏し言った。『私の主人アブラハムの主なる神は、ほむべきかな。主の慈しみとまことは、私の主人と共にあり、私については、主はこの道で私の主人の兄弟の家に導かれた』」です。

 僕が神様に言い終わらないうちに、ひとりの娘が出てきました。その娘は、アブラハムの弟ナホルの妻ミルカの息子ベトエルの娘で、アブラハムの親族でした。が、この時、僕はまだ彼女の素性を知りません。僕は彼女に向かって走って行って、あなたの水がめから少しの水をすすらせて下さい、と言います。彼女は快く、自分の水がめから僕に飲ませた後、あなたのラクダたちにも十分に
水を飲ませるために、私が水を汲みましょう、と言います。そして10頭のラクダたちに十分な水を飲ませるために、彼女は急いで水がめの水をラクダたちのために水飲み場に注ぐと、再び、井戸に走ったのです。
 僕は黙って彼女が、その娘かどうか見入っていました。そしてラクダたちが水を飲み終わると、アブラハムの僕は確信したのです。自分が、主人アブラハムの神に言ったとおりのことが起こったことを。そしてその娘こそ、神様がイサクのために、そしてアブラハムのために、更にはアブラハムの子孫たちのために用意された娘であることを確信しました。
 そして僕は、携えてきた「アブラハムの良い者」の中から1ベカ(半シェケル=6g)の金の鼻輪と、合わせて10シェケル(120グラム)の金の腕輪2つを取り出して、娘の両手の上に出しながら、「どなたの娘さんですか。私たちの泊る場所があなたのお父さんの家にありますか」と尋ねます。僕が取り出した品は、リベカが水汲みをしてくれたお礼であると同時に、リベカの実家を訪れて家族と話しを進めるための準備品です。
 リベカは、その品には興味を示していないように見えます。そして僕の質問に答えて、「私はミルカがナホルに生んだ息子ベトエルの娘リベカです。」と答えています。
 新共同訳では分かりませんが、ヘブライ語原典では15節でも「アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの息子ベトエルの娘リベカ」と記されており、24節でもリベカが「私はミルカがナホルにむんだ息子ベトエルの娘です」と答えています。更には11章29節で「ナホルの妻の名はミルカと言ってハランの娘である」、22章20節でも「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子を産みました。」とあり、ミルカの名が、とても強調されているのです。更に「ミルカ」という名は、リベカの子孫の中にも見ることができます。
 このことはミルカがとても信仰深い女性であったことを示しています。ミルカの信仰の物語りは、聖書には記されていませんが、リベカがこの祖母を誇らしげに語っていることからも、ミルカの信仰が伺い知れます。
 このミルカの父がハランで、ハランの名が地名になっていてアブラハムの故郷だということは、ハランとその妻ミルカの功績が、大きなものだったことは想像に難くありません。
 おそらくリベカは、このミルカの影響を強く受けて育ち、誇りとしていたのでしょう。また、おそらくミルカの名は、ハランの地で有名だったからこそ、リベカはそのミルカを誇ったのではないかと思われます。

 さて、この時点で僕は、その娘が主人アブラハムの一族の娘であることを、初めて知るのです。ただし僕は、そのことを知るより先に、神様が用意された娘であることを確信して、携えてきた「よい品」を娘の両手に出しながら「どなたの娘さんですか」と尋ね、続けて「私たちの泊る場所があなたのお父さんの家にありますか」と。泊ることを前提にしているのですから、リベカが答える前に僕には分かっていたのです。
 よく目を開いて見ないと気付かないところですが、このことは非常に重要なことです。
 まだ事実を知る前に、神様によって前もって確信し、その事実があとで証明されるのは、神様の御力とお働きの証明だからであり、そこに信仰があるからです。
 リベカはここでも、旅人の泊る場所だけでなく、10頭のラクダたちの寝床や餌も備えられている事まで話します。リベカの急ぐ姿は、まるでマムレの樫の木の所で、アブラハムが主や御使いにした姿と、そっくりです。
 アブラハムの僕は、アブラハムの神様の御力と、お働きの証しを、自分自身で目の当たりにし、そして想像を超えるリベカの行いを見て、アブラハムの神様にひれ伏して賛美しました。



24:28-32
 娘は走って行き、母の家の者に出来事を告げた。リベカにはラバンという兄がいたが、ラバンはすぐに町のはずれの泉の傍らにいるその人のところへ走った。妹が着けている鼻輪と腕輪を見、妹リベカが、「その人がこう言いました」と話しているのを聞いたためである。彼が行ってみると、確かに泉のほとりのらくだのそばにその人が立っていた。そこで、ラバンは言った。「おいでください。主に祝福されたお方。なぜ、町の外に立っておられるのですか。わたしが、お泊りになる部屋もらくだの休む場所も整えました。」その人は家に来て、らくだの鞍を外した。らくだにはわらと餌が与えられ、その人と従者たちには足を洗う水が運ばれた。


 ヘブライ語原典では「その娘は、彼女の母の家に走って行き、これらの出来事のとおりに告げた。さて、リベカには兄弟がいた。彼の名はラバン。ラバンは町の外の泉にいるその人(アブラハムの僕)に向かって走った。ラバンは、彼の妹の両手の上の腕輪と鼻輪を見て、そして彼は、その人のところに来た。すると見よ、泉の側にいるラクダたちの側に立っていた。ラバンは言った。『主に祝福された方よ、うちにおいでください。なぜ、あなたは外で立っているのですか。私は、ラクダたちのためにも家と場所を空けておきました』。そして、その人は家の中に入り、ラクダたち(の鞍)を解いた。ラバンはわらとまぐさをラクダたちに与え、彼と共にいる人たちの足と、彼の足を洗うために水を与えた」です。

 リベカは急いで走って母の家に行き、これらの出来事のとおりに告げました。「これらの出来事のとおり」とは、そこに彼女の考えや思いなどは一切まじえないで、ありのままを告げた、ということです。リベカは、事実をありのままに伝えることの重要さを知っている、賢い娘だったのです。
 「母の家」というのは、父が養子のような形で入っていることを意味します。ということは、この家は婿を取って、家の働き手にしていることを表しています。アブラハムの僕はそれを知って、この家から嫁を取って、アブラハムの元に連れ帰るのは、容易ではないと決意を新たにしたはずです。リベカには、ラバンという兄がいました。ラバンはまず、リベカがアブラハムの僕から受け取った高価な金の腕輪と、鼻輪に目を奪われました。そしてリベカの話しを聞いて、町の外の泉にいるアブラハムの僕に向かって走って行きました。そして『主に祝福された方よ、うちにおいでください。なぜ、あなたは外で立っているのですか。私は、ラクダたちのためにも、家と場所を空けておきました』と言います。 よく気を付けて見ると、リベカが言ったことと少し異なっている点があります。 リベカは「わらも、多くのまぐさも、泊るための場所もまた、私たちと共にあります。」と言いましたが、ラバンは「私は、ラクダたちのためにも家と場所を空けておきました。」と言ったのです。リベカによると、ラクダたちのための場所は、もともと家にあるにもかかわらず、ラバンは『自分』が、家とその場所を空けておいた、と言ったのです。それはアブラハムの僕に恩をうるためであり、その目的は自分に「よい品」を貰おうという魂胆が見え見えです。
 アブラハムの僕は、その事に気付いたでしょう。そして、リベカの母の家の中に入り、ラクダたちの鞍を解いて休ませ、ラバンはわらとまぐさをラクダたちに与え、彼と共にいる人たちの足と、彼の足を洗うために水を与えました。



24:33-49
 やがて食事が前に並べられたが、その人は言った。「用件をお話するまでは、食事をいただくわけにはまいりません。」「お話しください」とラバンが答えると、その人は語り始めた。「わたしはアブラハムの僕でございます。主がわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったのでで、主人は裕福になりました。奥様のサラは、年をとっていましたのに、わたしの主人との間に男の子を産みました。その子にわたしの主人は全財産をお譲りになったのです。
 主人はわたしに誓いを立てさせ、『あなたはわたしの息子の嫁を、わたしが今住んでいるカナンの土地の娘から選び取るな。わたしの父の家、わたしの親族のところへ行って、息子の嫁を連れて来るように』と命じました。わたしが主人に『もしかすると、相手の女がわたしに従って来たくなりと言うかもしれません』と申しますと、主人は『わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。お前は、わたしの親族、父の家から息子のために嫁を連れて来ることができよう。そのとき初めて、お前はわたしに対する誓いを解かれる。またもし、わたしの親族のところに行っても、娘を貰えない場合には、お前の誓いを解かれる』と言いました。
 こういうわけで、わたしは、今日、泉の傍らにやって来て、祈っておりました。『主人アブラハムの神、主よ。わたしがたどってきたこの旅の目的を、もしあなたが本当にかなえてくださるおつもりなら、わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っていますから、どうか、おとめが水をくみにやって来るようになさってください。彼女に、あなたの水がめの水を少し飲ませてください、と頼んでみます。どうぞお飲みください、らくだにも水をくんであげましょう、と彼女がこたえましたなら、その娘こそ、主が主人の息子のためにお決めになった方であるといたします。』
 わたしがまだ心に言い終わらないうちに、リベカさまが水がめを肩に載せてこられたではありませんか。そして、泉に下りて行き、水をおくみになりました。わたしが、『どうか、水を飲ませてください』と頼みますと、リベカ様はすぐに水がめを肩からおろして、『どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えてくださいました。わたしも飲み、らくだも飲ませて頂いたのです。『あなたは、どなたの娘さんですか』とお尋ねしたところ、『ナホルとミルカの子ベトエルの娘です』と答えられましたので、わたしは鼻輪を鼻に、腕輪を腕に着けて差し上げたのです。わたしはひざまずいて主を伏し拝み、主人アブラハムの神、主をほめたたえました。主は、主人の子息のために、ほかならぬ主人の一族のお嬢さまを迎えることができるように、わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。あなた方が、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」


 ヘブライ語原典では「そして、彼の面前に食べ物が置かれた。しかし彼は言った。『私は、私の言葉を話し終えるまでは食べません。』 するとラバンは『お話しください。』と言った。それで彼は言った。『私はアブラハムの僕です。主なる神は、私の主人を非常に祝福され、彼に羊の群れ、牛の群れ、金銀、男の奴隷たちと女奴隷たち、ラクダとロバたちを与えられたので、それで彼は大きくなりました。そして私の主人の妻サラは、老齢の後に私の主人に男児を産みました。彼(息子イサク)に、彼に属するすべてのものを与えられました。私の主人は、私に誓わせた。『お前は私の息子のために、私が住んでいる地のカナン人の娘たちの中から妻を取るな。必ず、私の父の家に行け。そして私の家族から私の息子のために妻を取れ。』そして私は主人に言った。『もしかしたら、その女が後ろに行かない』と言うと、彼は私に言いました。『私が彼の面前を歩いて来た主が、御使いをお前と共に遣わし、お前の道を成功させる。お前は私の息子のために妻を、私の家族の中から、また私の父の家から取れ。そのとき、お前は私の誓約から清められる。そしてもし、お前が私の家族の所に入る時に、彼らがお前に(娘を)与えないならば、お前は私の誓約から清められる』と。そして私は今日、泉に来て、言いました。『私の主人アブラハムの神、主よ、もしあなたがいるならば、どうか私があるいているその道を成功させてください。御覧ください。私は水の泉の側に真っ直ぐ立っていますから、乙女が汲むために出てきますように。そして私が彼女に『私に、どうぞ少しの水を、あなたの水がめから飲ませて下さい』と言いますから、彼女が私に『あなたもお飲みください。また、あなたのラクダたちに私は水を汲みましょう。』と言うならば、その女、彼女こそ主が私の主人の息子のために証しされた方です』。そのように私が、私の心に向かってはなすことを終えないうちに、御覧ください。リベカ様が出て来られたのです。そして彼女の方の上に水がめがあり、そして彼女は泉に下りて汲んだのです。それで私は彼女に言いました。【どうか私に飲ませて下さい】と。すると彼女は急いで彼女の上から彼女の水がめを降ろし、言いました。【お飲み下さい。そして、あなたのラクダたちにも私は飲ませましょう。】 それで私は飲み、彼女はラクダたちにも飲ませたのです。そして私は彼女に尋ねて言いました。【あなたは、どなたの娘さんですか】 すると彼女は言いました。 【ミルカが彼に産んだナホルの息子ベトエルの娘です】と。それで私は彼女の鼻に鼻輪を付け、また彼女の両手に腕輪を着けました。私はお辞儀し、主にひれ伏し、私の主人の主なる神を誉め讃えました。主は、私の主人の息子のために、私の主人の兄弟の娘を娶るために、まことの道に私を導かれました。そして今、もし、あなたがたが私の主人に慈しみとまことをしようとして下さるならば、そう私に告げてください。しかし、もしそうでないなら、そう私に告げてください。すると私は、右に向くか左に向くか決めます。』」です。

 長い引用になりましたが、ひとつながりのことなので、まとめて理解しましょう。
 アブラハムの僕の前には食事が用意されました。しかし、ラバンの人間性に気付いている僕は、「私は、私の言葉を話し終えるまでは食べません。」と言って、出された食事に手を付けません。ラバンが「お話しください。」と言ったので、僕は話し始めます。
 アブラハムの僕はラバンの性質を知り、またこの家の「母」について知り、覚悟を決めます。これは人間の知恵では無理だと悟り、このことが神様のご意向であって、神様のお働きによって、導かれている事なのだと伝えるために、事実をありのままに伝えたのです。
 そして話し終えると、リベカを主人アブラハムの息子イサクの妻として嫁がせて下さるか否かの返事次第で、自分が進退を決めるという覚悟を示しました。もし、リベカを連れて帰ることが出来ない場合は、アブラハムの僕としての資格はない、という覚悟だったのでしょう。
 僕が話した事実は、ラバンがリベカから聞いた話とまったく同じでした。神様とアブラハムと僕とリベカが、完全に一致しているのです。そこにラバンが付け入るスキはありません。
 このことは、エデンの園でエバがもし、神様が言われた言葉を、ありのままに蛇に告げていたとしたら、そこに蛇が付け入るスキはなかったことを教えてくれています。
 神様とアブラハムと僕とリベカが、完全に一致してありのままの事実を伝えたことで、事は成るのです。
 事実をありのままに伝えることは、最も容易なことのように見えて、実は最も難しいことなのです。人は、事実を伝えているつもりでも、ほとんどすべての場合に、自分の目や耳にそのように見え、そのように聞こえたことを伝えます。それは、事実ではないのです。自分の都合に歪めているのです。そして、たいていの場合、事実を伝えているように見せても、自分に都合がいいように、伝えているものです。
 あらゆる証拠と付き合わせても、完全に一致する事実を、ありのままに伝えること、それは究極の知恵といっていいでしょう。



24:50-61
 ラバンとベトエルは答えた。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、ご主人の御子息の妻になさってください。」
 アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。そして、金銀の装身具や衣装を取り出してリベカに贈り、その兄と母にも高価な品物を贈った。僕と従者たちは酒食のもてなしを受け、そこに泊った。次の朝、皆が起きたとき、僕が、「主人のところへ帰らせてください」と言うと、リベカの兄と母は、「娘をもうしばらく、十日ほど、わたしたちの手元に置いて、それから行かせるようにしたいのです」と頼んだ。しかし僕は言った。「わたしを、お引き止めにならないでください。この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから。わたしを帰らせてください。主人のところへ参ります。」
 「娘を呼んで、その口から聞いてみましょう」と彼らは言い、リベカを呼んで、「お前はこの人と一緒に行きますか」と尋ねた。「はい、参ります」と彼女は答えた。
 彼らは妹であるリベカとその乳母、アブラハムの僕とその従者たちを一緒に出立させることにし、リベカを祝福して言った。「わたしたちの妹よ あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」 リベカは、侍女たちと共に立ち上がり、らくだに乗り、その人の後ろに従った。僕はリベカを連れて行った。

 
ヘブライ語原典では「するとラバンとベトエルは答えて言った。『この事は主から出た事ですので、私たちがあなたに悪い、または良いと話すことはできません。御覧なさい。リベカがあなたの面前におります。連れて行ってください。そして主が語ったとおりに、彼女があなたの主人の息子の妻になるように。』 アブラハムの僕が、彼らの言葉を聞いた時であった。彼は地にひれ伏して、主を拝した。そして僕は、金の器と銀の器と服を取り出してリベカに与え、彼女の母と彼女の兄に高価な贈り物を与えた。そして僕と、彼と共にいた人たちは、食べて、飲んで、泊った。そしてその朝に起きたとき、僕が「私を、私の主人に送り出してください」と言うと、リベカの兄と母は言った。
 『娘が私たちと共に、数日から10日ほど座り、その後で彼女が行くように』。しかし僕は彼らに言った。『私を遅らせないでください。主がわたしの道を成功させて下さったのですから、私を送り出してください。そして私を、私の主人のところへ行かせて下さい。』 それで彼らは言った。『私たちは娘を呼ぼう。彼女の口に尋ねよう。』彼らはリベカを呼んで言った。『お前はこの人と共に行くか。』すると彼女は言った。『私は行く。』それで彼らは、彼らの妹リベカと彼女の乳母とアブラハムの僕を送り出した。彼らはリベカを祝して言った。『私たちの妹よ、お前は幾千万(の民)となれ。そしてお前の子孫が、彼を憎む者たちの門を継ぐように。』
 こうしてリベカは、彼女の侍女たちと共に立ち上がり、彼女たちはラクダたちの上に乗り、その人(僕)の後ろに行った。僕はリベカを連れて、出発した」です。

 前日、ラバンと父ベトエルが「この事は主から出た事ですので、私たちがあなたに悪い、または良いと話すことはできません。御覧なさい。リベカがあなたの面前におります。連れて行って下さい。そして主が語ったとおりに、彼女があなたの主人の息子の妻になるように。」と言ったにもかかわらず、翌朝になると、リベカの母と兄は、リベカを数日から10日ほど手もとに留めてから行かせる、と言い始めたのです。
 嫁がせる娘、妹への情愛かと思う人もいるでしょうが、そうではありません。前夜、ラバンは父ベトエルと共に、神のご意志だからとリベカの嫁入りに同意したのに、その後、母と共に企んだのです。
 このことはラバンが、考え方が異なる父と母を、都合よく利用しながら生きている人物であることを示しています。
 ラバンは、僕が与えた高価な品々に心を奪われ、母と共謀して、僕たちを引きとめて、何とかしてもっと財産と分け前をもらおうと考えたのです。つまり、隙がないところに何とかして隙を見いだして、そこにつけ込もうとしたのです。アブラハムの僕がそれを見破ることができず、嫁がせる娘、妹への情愛と思って、それを受け入れたら、そこにスキが生まれます。その情に彼らは、つけ込もうとしているのです。
 しかし、アブラハムの僕は、このことを成功させたのは主なる神様なのだから、と断固として応じませんでした。そこでラバンと母は仕方なく、最後の手段としてリベカの口から出る言葉にスキを見出そうとしたのです。
 しかし、リベカは毅然として『私は行く。』と言います。神様とアブラハムと僕とリベカに、まったくスキはありませんでした。こうして彼らは諦めて、リベカと乳母と、僕とその従者たちを送り出すことにし、「私たちの妹よ、お前は幾千万(の民)となれ。そしてお前の子孫が彼を憎む者たちの門を継ぐように。」と祝しますが、新共同訳のような「祝福の言葉」なのではなく、これはラバンと母が、神様に降参した言葉なのです。ラバンにも、母にもどうすることもできない、神様の意向に逆らうことはできない、わずかのスキもない、全面降伏です。




24:62-67
 イサクはネゲブ地方に住んでいた。そのころ、ベエル・ラハイ・ロイから帰ったところであった。夕方暗くなるころ、野原を散策していた。目を上げて眺めると、らくだがやってくるのが見えた。リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、「野原を歩いて、わたしたちを迎えにくるあの人は誰ですか」と僕に尋ねた。「あの方がわたしの主人です」と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告した。イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。


 
ヘブライ語原典では「イサクは、ベエル・ラハイ・ロイから戻ったところで、彼はネゲブの地に住んでいた。イサクは夕方、野原で(神様に)懇願するために出かけた。彼が両目を上げて見てみると、見よ、ラクダたちが来る。そしてリベカも彼女の両目を上げ、イサクを見た。彼女はラクダの上から飛び降り、僕に『私たちに向かって野原を歩いてくるあの人は誰ですか』と言った。すると僕は『彼こそ、私のご主人です。』 すると彼女はベールを取って、自分を覆った。僕はイサクに、彼がなしたすべての事柄を話した。イサクは、彼女を彼の母サラの天幕に連れて行った。そしてリベカを娶った。彼女は彼の妻になった。彼は彼女を愛した。そしてイサクは、彼の母の後で慰められた」です。

 40歳になっていたイサクはネゲブに住んでおり、その頃、ベエル・ラハイ・ロイから戻ったところでした。イサクは伯父のロトとは違って、ソドムやゴモラのような町には住まず、故郷のハランにも住まず、ネゲブに住んでいたのです。そこにはアブラハムがアビメレクから取得したベエル・シェバがあり、ベエル・シェバの近くには、神様の御使いがサラの女奴隷ハガルに現れたベエル・ラハイ・ロイがありました。また、サラが葬られている場所、アブラハムがカナン人エフロンから買い取ったマクベラの洞穴と畑と、マムレの樫の木々もありました。つまりイサクは、父アブラハムの信仰を受け継いでいたからこそ、ネゲブに住んだのです。イサクは神様を慕って、神様や御使いが現れた場所に度々、足を運び、また野原で神様に懇願する毎日だったのです。

 イサクは野原で神様に懇願するために出かけ、そこで目を上げたとき、ラクダたちが来るのを見ます。そしてリベカも両目を上げ、イサクを見ます。彼女は自分が見た、その人こそ夫となる人だと思い、ラクダの上から飛び降りてアブラハムの僕に、「私たちに向かって野原を歩いて来るあの人は、誰ですか」と言います。リベカが何に気付いたかを知った僕は、「彼こそ、私のご主人です。」と答えます。するとリベカはベールで、自身を覆うのです。
 花嫁は、結婚の夜まで未来の夫の前で、ベールで顔を覆う習慣でした。リベカは、イサクの人となりを知るまでもなく、神様が定められた夫に出逢った最初の瞬間に、そうしたのです。
 そして、僕からすべてを聞いたイサクは、リベカを母サラの天幕に案内します。母サラの天幕、それは一族の母の天幕です。一族の女のトップが住む場所です。このことはリベカが、イサクの妻として、一族の女たちのトップに立ったことを意味します。

 「イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」という新共同訳からは、まるでイサクがマザコンのような印象を受けますが、ヘブライ語原典の意味はそうではありません。リベカは、まるでサラの生き写しのように確固たる信仰をもち、夫と共に神様の道を歩んだサラと同じく、イサクと一致して信仰で一族を率いる統率力をもっていたので、イサクはリベカを愛し、母サラが亡くなってポッカリと開いていた穴も、まったく埋まったことを意味しているのです。




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