安息日の礼拝  創世記の真相

創世記26章




26:1-6
 アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。そのとき、主がイサクに現れて言われた。
 「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」
 そこで、イサクはゲラルに住んだ。

 ヘブライ語原典では「アブラハムの時代にあった最初の飢饉以外に、その地に飢饉があった。イサクは、ゲラルの方のペリシテ人の王アビメレクの所に行った。すると主が彼に現れて言った。『エジプトの方へ降るな。あなたに私が言う、その地に定住せよ。この地に寄留せよ。そうするならば私はあなたと共にいて、あなたを祝福しよう。なぜなら、あなたに、そしてあなたの子孫に、これらのすべての地を私は与えるからだ。そして私は、あなたの父アブラハムに誓った誓いを実現する。私はあなたの子孫を、空の星のように増やし、私はあなたの子孫にこれらの地のすべてを与える。地のすべての国民が、あなたの子孫によって互いに祝福しあうだろう。アブラハムが私の声に聞き従い、私の戒め、私の命令、私の定めと私の教えを守ったゆえに。』。そしてイサクはゲラルに住んだ。」です。

 イサクが住んでいたベエル・ラハイ・ロイの近くに、父アブラハムの時代にあった飢饉とは別の新たな飢饉が起こりました。イサクは、後代になってペリシテ人と呼ばれるようになる人々の王アビメレクが統治するゲラルに行きました。そのとき、主がイサクに現れて言われました。「エジプトの方へ降るな。あなたに私が言う、その地に定住せよ。この地に寄留せよ。そうするならば私はあなたと共にいて、あなたを祝福しよう。なぜなら、あなたに、そしてあなたの子孫に、これらのすべての地を私は与えるからだ。」と。
 そこでイサクはゲラルに住みました。ゲラルは、かつてイサクの父アブラハムが寄留した、アビメレクが王として治めていた地です。このゲラルに住んでいた民は、後代にはペリシテ人と呼ばれるようになります。
 ゲラルの地は、神様がアブラハムとその子孫に与えると約束されたカナンの地の一部でした。つまりそこは、アビメレクが治めていたとしても、本当は神様がイサクとその子孫たちに与えた、イサクの土地なのです。



26:7-11
 その土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。イサクは永く滞在していたが、あるとき、ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた。アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。『彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです』とイサクは答えると、アビメレクは言った。『あなたは何ということをしたのだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。』アビメレクはすべての民に命令を下した。『この人、またその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。』

 ヘブライ語原典では「その場所の人々が、彼の妻について尋ねた。そこでイサクは『彼女は私の妹』と言った。なぜなら、彼は『私の妻』と言うことを恐れていた。その場所の人々が、リベカのゆえに私を殺さないようにと。
なぜなら彼女は容姿が美しいゆえに。そしてイサクにとって、そこでの日々が長くなった時であった、ペリシテ人の王アビメレクが窓を通して眺めていると、彼は見た。すると見よ、イサクが彼の妻リベカと共に戯れていた。そこでアビメレクは、イサクを呼んで言った。『見よ、確かに彼女はあなたの妻。それなのに、どうしてあなたは、彼女は私の妹、と言ったか』。それでイサクは彼に言った。『なぜなら、彼女のために私は死ぬのではないかと思、言ったのです』。アビメレクは言った。『あなたが私たちにした、これは何か。もう少しで民の1人があなたの妻と共に寝てしまうと、あなたが私たちの上に罪をもたらすところだった』。それでアビメレクはその民のすべてに『この人に、そして彼の妻に触れる者は、必ず殺される』と言って命じた。」です。

 ゲラルの住民は、イサクの妻について尋ねました。イサクは「彼女は私の妹です」と言いました。リベカはイサクの「妹」ではありません。しかし、もしイサクが「彼女は私の妻です」と言ったら、どうなっていたでしょう。すでにソドムやゴモラで見たように、異邦人が住む地では虐待や性的な横暴がまかり通っていましたから、寄留者や旅人が美しい妻を同行させていたら、夫は殺されて妻は蹂躙されるのが常でした。
 しかし神様はイサクに、神様が与えたカナンの地の一部である、今は異邦人が住んでいる地ゲラルに住むようにと命じられました。そして子孫を増やし、これらの地のすべてを与えると言われたのです。イサクは、ここに住まなければなりませんし、妻を蹂躙されるわけにもいきませんし、自分が殺されるわけにもいきません。神様から与えられたこの地を子孫に継承することができなくなるからです。そのことを恐れて、イサクは妻リベカのことを「私の妹です」と言ったのです。
 もし、彼らに対して忠実に嘘をつかないで、正直に「私の妻だ」と言っていたら、イサクは殺され、妻を蹂躙され、神様の約束を果たすことはできませんでした。
 キリスト教会では、このときイサクが言ったことや、アブラハムが妻サラをファラオやアビメレクに「私の妹だ」と言って差し出したことを、自己保身のための失敗だとしています。パウロの教えを信じるローマ教会に基づくキリスト教会は、時の権力者であるローマ皇帝に忠実に仕え、ローマ教会以外の12使徒の教会の信徒らを「異端」として殺戮してきましたから、異邦人の権力者に忠実であり、隣人に対して不忠実でした。

 このことについて考えるにあたり、つい先日、ある事件がありました。
 2015年4月2日、アルカイダ系の過激派がケニアの大学を襲撃し、キリスト教徒の学生を狙って147人を殺害し、79人を重症にした事件です。テロリストたちはキャンバスでイスラム教徒を除いてキリスト教徒を狙って銃を乱射しました。彼らはまた学生寮に入り、部屋を空けては「キリスト教とはいるか」と問い、「はい」と進み出た者を撃ったのです。キリスト教徒の学生の中には、大きな戸棚に隠れていて助かった学生もいました。イスラム教徒の学生が、もしそのことをテロリストたちに正直に言っていたら、戸棚に隠れていた学生も殺されていたでしょう。
 キリスト教徒の学生は、テロリストに対して忠実に、嘘をつかないで正直に「はい。私はキリスト教徒です」と答えて殺されるべきだったのでしょうか? 同部屋のイスラム教徒の学生は、テロリストらの質問に「はい。キリスト教徒が戸棚に隠れています」と正直に言って、仲間を売って殺させるべきだったでしょうか?
 答えは明白です。問題は、嘘をつくことが正しいか否かではなく、何に対して忠実であるべきか、なのです。仲間を殺害しに来たテロリストに対して正直に、忠実に、「私はキリスト教徒です」と名乗り出たり、「仲間があそこに隠れています」と嘘をつかないで答えることこそ、批難されるべきです。
 人は、いかなる相手に対しても決して嘘をついてはならない、というのであれば、人殺しが家に押し入って来た場合に、母親が急いで子供を押し入れに隠し、人殺しから「子供を出せ」と言われたら「子供はそこに隠れています」と正直に言って、子供を殺させるべきでしょうか。それこそ人として、親として、あるまじき態度です。
 キリスト教徒もイスラム教徒も同じ聖書の神を信じる人たちです。仲間を殺害しに来たテロリストに対して、嘘をついてはならないから、と自己正当化しながら仲間を売ることこそ自己保身であり、隣人愛に反する行為であり、神に反する行為です。
 イエス様も、このことについて、はっきりと教えておられます。イエス様はあるとき、言葉じりをとらえて罠にかけようとしたファリサイ派とヘロデ派の人々に、皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか否かと質問され、デナリオン銀貨を持って来させ、次のように言われました。「これは誰の肖像と銘か」。彼らは「皇帝のものです」と答えました。するとイエス様は「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。彼らはこれを聞いて驚き、立ち去りました(マタイ22:21)。
 ファリサイ派とヘロデ派の人々は、イエス様が「皇帝に税金を納めるべきではない」と答えたならば、皇帝への反逆罪としてイエス様をローマの法廷に連行し、またイエス様が「皇帝に税金を納めるべきだ」と答えたならば神様への反逆罪としてユダヤの法廷に連行するつもりでした。ところがイエス様は、どちらでもない答えを返したのです。
 銀貨は皇帝のものでしょうか、それとも神のものでしょうか。言うまでもなく、銀は神様が創造されたものです。その神様が創造された、神様のものである銀に、皇帝は自分の肖像と名を刻み、自分のものとして人々を不当に支配していることを、イエス様は指摘されたのです。そしてファリサイ派とヘロデ派の人々は、そのローマ皇帝に仕えていましたから、イエス様は、単にどちらともつかない答えを返して彼らを驚かせただけでなく、彼らが神と皇帝との両方に仕えている不信心者であると、彼らに付きつけたのです。「あなたたちは皇帝に忠実なのか、神に忠実なのか」と。彼らの罠は、彼ら自身に向けて戻って来たのです。だから彼らは、すごすごと立ち去ったのです。
 イエス様はまた、「不正な管理人」についての教え(ルカ16章)でも同様のことを教えています。この譬え話は、ある金持ちが、経理を任せている管理人が無駄遣いしていると聞いて、管理人の職を解いて会計報告書を出させる話です。管理人はクビになると食べていけないので、自分を家に迎えてくれるような人たちを作ろうと考え、金持ちの主人に借金している人たちの借用書を書き直させ(たとえば百万を借りている人の借用書を80万と書き直させる)、提出したのです。それを知った金持ちの主人は、あろうことか管理人を誉めるのです。不正にまみれた富で友を作りなさい、と。そして、この話の結論は、人は神と富とに仕えることはできない、というものです。
 富に忠実な人は、この譬え話が理解できません。こんな不正を、なぜ主人は赦したのか、なぜイエス様はこんなおかしな譬え話をしているのか、と。
 イエス様が教えているのは、人は何に対して忠実であるべきか、ということです。すべてのものは本来、神様が創造されたものであり、神様だけが正当に人に与えるべきものです。それを富によって神様から奪い、富で人が人を支配することは不正な事です。つまり富というものは、もともと不正にまみれたものですから、富に忠実な人は神様に対しても隣人に対しても愛がなく不忠実なのです。その不正にまみれた富で同胞(主の民)を助けることこそ、真に自分の助けになるのであり、それこそが神様に対して忠実なのだと、イエス様は教えているのです。
 人は何に対して忠実であるべきか、という生き方の軸をはっきりとさせて、あらためてイサクのこの箇所を読むと、イサクがしたことは失敗でもなければ、自己保身でもない、ただ神に忠実であるイサクが、神以外のものに忠実ではないという、信仰の正しい姿を示していることが分かるのです。むしろ神様に忠実なイサクが、神に背いて生きているカナン人(ゲラルの人たち)に忠実であるはずがないのです。忠実であるべきではないのです。だから、カナン人に対してイサクが正直に答えなければならない謂われがないのです。 

 ところで、このイサクとリベカの逸話ですが、一見するとアブラハムとサラのときの繰り返しのように見えますが、よく見ると、そうでないことが分かります。
 アブラハムとサラのときと違って、イサクはリベカをアビメレクに渡してはいません。アビメレクは、イサクとリベカが戯れているのを見て、勝手に恐れて「彼女はあなたの妻。それなのに、どうしてあなたは、彼女は私の妹、と言ったか」、「あなたが私たちにした、これは何か。もう少しで民の1人があなたの妻と共に寝てしまうと、あなたが私たちの上に罪をもたらすところだった」と言い、民のすべてに「この人に、そして彼の妻に触れる者は、必ず殺される」と言って、そうしないように命じたのです。
 ここでアビメレクは、アブラハムとサラのときに神様が夢の中でアビメレクに言ったことを、はっきりと思い出していることが分かります。アビメレクは、イサクがアブラハムの息子であることを聞いて知っていました。なぜならば続く15節以降に、この地の人々がイサクがアブラハムの息子だと知っていたことが記されているからです。アビメレクは、アブラハムの息子イサクにも、父アブラハムの神が共にいることを悟ったのです。そして恐れて、「この人に、そして彼の妻に触れる者は、必ず殺される」と言って、そうしないように命じたのです。なぜなら、そんな者がもし出たならば、自分も必ず死ぬことになることを知っているからです。
 イサクは恐れたと書かれていますが、アビメレクが恐れたとは書かれていません。しかし、実は恐れたのはイサクではなくアビメレクの方だったことが、よく見ると分かるのです。

 イサクは妻リベカをアビメレクに渡すことなく、アビメレクが勝手にイサクとリベカが戯れているのを見て恐れ、アビメレクはゲラルの民のすべてに「この人に、そして彼の妻に触れる者は、必ず殺される」と命令したのです。これによって、何がどうなったでしょうか。そうです。ゲラル(後代のペリシテ)の王アビメレクがこのように命じたおかげで、イサクはリベカを妻だと公に知られても、誰からも害されることなくゲラルで生活できるようになったのです。
 つまり、神様はこのことを予めご存知だったからこそ、イサクとリベカをゲラルに滞在させたのです。それは父アブラハムと母サラが、息子イサクとその妻リベカのために、この地に築いていた大きな信仰の足台の上に、成立したことだったのです。神様は、そこにイサクとリベカを導かれたのでした。それはアブラハムとサラの信仰の勝利を、イサクとリベカがさらに一歩前進させた出来事だったのです。



26:12-22
 イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。
 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」 イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらを塞いでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けた通りの名前を付けた。
 イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。
 イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。
 イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。
 イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。その夜、主が現れて言われた。
 「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす わが僕アブラハムのゆえに。」
 イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。

 ヘブライ語原典では「イサクはその地に種をまいた。そして、その年に百倍を見出した。主は彼を祝福した。そして、その人は大きくなった。そして、いよいよ大きくなり、まことに非常に大きくなるまでになった。彼に羊の群れと牛の群れがあり、そして多くの召使いがあったので、ペリシテ人たちは彼をねたんだ。そして彼の父アブラハムの時代に、彼の父の僕たちが掘った井戸を、ペリシテ人たちが土ほこりで満たし、それらをふさいだ。そしてアビメレクはイサクに向かって行った。『私たちのところから行け、なぜなら、あなたは私たちより非常に強くなったからだ』 イサクはそこから行って、ゲラルの川に野営して、そこに住んだ。そしてイサクは、彼の父アブラハムの時代に彼が掘って、アブラハムの死の後でペリシテ人がそれを塞いでいた水の井戸を、再び掘った。それでイサクは、彼の父がそれらを呼んだ名のように、それらの名を呼んだ。イサクの召使いたちが、その水無し川で掘って、命の水の井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いたちがイサクの羊飼いたちと『この水は私たちのものだ』と言って争ったので、その井戸の名をイサクはエセク(争い)と呼んだ。なぜなら、彼らがイサクと口論したからである。イサクの召使いたちが別の井戸を掘ると、彼らはまたそれについて争った。それでイサクはシトナ(敵意)とその名を呼んだ。そして彼は、そこから移って別の井戸を掘った。しかし彼らは、それについて争わなかった。それで彼はその名をレホボト(広い場所)と呼び、『今こそ主が、それで私たちがこの地で豊かになるよう、私たちのために広くした』と言った。彼はそこからベエル・シェバへ上った。その夜のうちに、主が彼に現れて言った。『私はあなたの父アブラハムの神。恐れるな。なぜなら私があなたと共にあるからだ。そして私はあなたを祝福しよう。そしてあなたの子孫を増やそう。私の僕アブラハムのゆえに。』 彼はそこに祭壇を建てた。そして主を御名で呼んだ。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちが井戸を掘った。」です。

 イサクとリベカが、アブラハムとサラの信仰の勝利をさらに一歩前進させた後に、イサクがその地に種をまくと、その年に百倍の実りがありました。主がイサクを祝福したからです。
 アブラハムとサラのときは、アビメレクが多くの財産と共にサラを返しましたが、イサクはリベカを差し出すこともなく、アブメレクから何ももらうう必要もなく、自分たちの力と神様の祝福とによって、またたく間に非常に大きく栄えたのです。
 イサクたちが羊と牛の群れ、そして多くの召使いを持つようになると、後代にペリシテ人と呼ばれるようになるゲラルの人々は彼をねたみました。そして彼の父アブラハムが掘った井戸を土ほこりで満たして、ふさぎ、アビメレクはイサクに「私たちのところから行け、なぜなら、あなたは私たちより非常に強くなったからだ」と言います。
 アビメレクの狡猾さは、相変わらずです。アブラハムとの契約で、その井戸はアブラハムとその子孫のものだと契約したはずなのに、契約を破って井戸を埋めた上で、イサクを追い出したのです。しかし、アブラハムが契約して誓ったのは神様に対してであり、単にアブラハムとアビメレクの人間の契約ではありません。

 イサクはそこから出て行って、ゲラルの川に野営して、そこに住みましたが、アビメレクの言いなりになった訳ではありませんでした。アビメレクに屈しなかったのです。かと言ってイサクは、アビメレクやゲラルの人々に立ち向かいもしませんでした。イサクは、彼らの言いなりにならず、彼らに立ち向かいもせず、ただ黙々と彼らが埋めた父アブラハムの井戸を掘り起こしていき、アブラハムが付けたとおりの名を付けたのです。
 イサクは、父アブラハムが掘った井戸は自分たちのものであり、それを奪う権利はアビメレクにはなく、自分たちにあるという事実を、ただ黙々と明らかにしていったのです。アブラハムが付けたとおりの名を付けた、というのは、その井戸がアブラハムの子孫のものであることを明白に事実化していったのです。事実の前には、何ものも勝つことはできないからです。
 この後のことが新共同訳では分かりにくいのですが、ヘブライ語原典では、イサクの召使いたちが水無し川で掘って、命の水の井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いたちがイサクの羊飼いたちと「この水は私たちのものだ」と言って言い争ったのです。「水無し川」というのは、かつては水が流れていた川で、今は水がなくなっている川です。イサクは、かつてそこに井戸があって、そこから水が流れて川となっていたのに、井戸が埋められたので川に水が無くなったと悟り、埋められていた井戸を掘り当てたのです。すると彼らは「この水は私たちのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと言い争ったのです。
 その井戸の名をイサクはエセク(争い)と呼びます。イサクは、ゲラルの人々が自分の羊飼いたちに争いを仕掛けて来ても、むしろそのことを記念して、その井戸をエセク(争い)と呼んでいるほどの余裕です。彼らをまったく恐れていません。
 イサクは、さらに召使いたちに別の井戸を掘らせます。すると、それについても争いが生じたので、今度はその井戸をシトナ(敵意)とイサクは名付けます。イサクは、彼らが仕掛けて来る争いや敵意が、自分に対し何の力も及ぼせないことを知っているかのように、さらにそこから移って別の井戸を掘ります。するともう争いは起こりませんでした。口論を仕掛けても、敵意を仕掛けても、まったくひるまないイサクに、彼らの方が引き下がったのです。
 こうしてイサクは戦わずして勝利し、彼らは戦わずして破れたのです。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)呼び、「今こそ主が、それで私たちがこの地で豊かになるよう、私たちのために広くした」と言ったのです。掘った井戸の範囲がすべて自分たちのものとなり、イサクは広い土地を確保しました。神様が約束された地の広い部分を、相手に立ち向かうこともなく自分のものとしたのです。
 これは、相手が不正なのに争いを仕掛けてきたとき、むやみに恐れず自分の信仰が揺るがないならば、相手が自滅していくという、勝利の方程式です。神様が共にいる人には、必ずこの方程式が働きますが、そうでない人には必ずしも働きません。世に属する人はサタンには勝てないので、理不尽であっても不正な相手が力を持っていれば勝てないのです。ここにサタンが支配している世の理不尽があり、いくら自分が正しくても神様と共にいなければ彼らに勝てないのです。
 
 
これらのことの後、イサクは自分を誇ることなく、栄光を神様に帰し、主なる神様がそれをなされた、と言いました。するとベエル・シェバで、その夜のうちに主がイサクに現れて言われます。「私はあなたの父アブラハムの神。恐れるな。なぜなら私があなたと共にあるからだ。そして私はあなたを祝福しよう。そしてあなたの子孫を増やそう。私の僕アブラハムのゆえに。」と。イサクはそこに主なる神のために祭壇を建て、主を御名で呼びました。
 神様はイサクの行いを認められて、父アブラハムのときと同じようにイサクと共にいることを約束され、これからも恐れることなく行動せよ、なぜなら私(神様)が共にいるからだ、と保証されたのです。

 イサクは、その場所に祭壇を建て、主を御名で呼びました。主を御名で呼ぶというのは、主が現れて「主がある」ことをイサクが身をもって体験したことを証しする、ということです。主の御名は「わたしはある」ですから、その御名のとおりに主があることをイサクは身をもって体験したので、そのことをそこで証ししたのです。口で主の名を唱えることが「主の御名を呼ぶ」ことではないのです。これは奥義です。
 そしてイサクは、そこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘りました。イサクは、そこに井戸があることを確信していたので、僕たちに井戸を掘らせたのです。ベエル・シェバはそもそも、かつてアブラハムがアビメレクとピコルと共に契約を結び、アブラハムがその井戸を掘ったことを7匹の雌羊で証拠とした場所です。井戸はアビメレクによって塞がれていましたが、イサクは確信を持ってそこに行って天幕を張り、井戸を掘り始めたのです。

 
そうです。イサクは、知っていたのです。父アブラハムが井戸のそばに「ぎょうりゅうの木」を植えていたことを。アビメレクたちが井戸を埋めたとしても、「ぎょうりゅうの木」を目印にして井戸を掘れば、必ずそこに水を見つけることができるとイサクは知っていたのです。そして父アブラハムは、そのために「ぎょうりゅうの木」を植えていたのです。



26:23-33
 アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。イサクは彼らに尋ねた。「あなたたちは、私を憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」
 そこで、イサクは彼らのために祝宴を催し、共に飲み食いした。
 次の朝早く、互いに誓いを交わした後、イサクは彼らを送り出し、彼らは安らかに去って行った。その日、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。そこで、イサクはその井戸をシブア(誓い)と名付けた。そこで、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている。

 
ヘブライ語原典では「アビメレクが、彼の軍の長ピコルとその仲間アフザトと共に、ゲラルからイサクのところに行った。イサクは彼らに言った。『どうして、あなた方は私のところに来たか。しかもあなたがたは私を憎んで、あなた方のところから私を追い出した。』 彼らは言った。『私たちは確かに主があなたと共にいることを見た。そこで私たちは言った。どうか私たちの間とあなたの間に、私たちの間の誓いがあるように。そして私たちは、あなたと共に契約を結ぼう。私たちがあなたを傷つけなかったように、私たちがあなたに良いことだけを行って、あなたを平安のうちに去らせたように、あなたが私たちに悪事をしないように。今あなたは主に祝福されている。』 イサクは彼らのために祝宴を行い、彼らは食べて飲んだ。
 彼らはその朝、早起きして、お互いに誓った。そしてイサクは、彼らを送り出し、彼らはイサクのところから平安のうちに去った。そしてその日に、であった。イサクの僕たちが来て、彼らが掘った井戸について彼に告げた。彼らは彼に言った。『私たちは水を見つけました』。彼はそれをシヴァと呼んだので、今日までこの町の名はベエル・シェバ(誓いの井戸)と言われる。
」です。

 アビメレクが、彼の軍の長ピコルとその仲間アフザトと共に、ゲラルからイサクのところに来ました。アビメレクは、かつてアブラハムを欺いたように、イサクに対しても同じことを言いました。イサクを憎んで追い出しておきながら「私たちがあなたに良いことだけを行って、あなたを平安のうちに去らせたように」と言い、アブラハムが掘った井戸をイサクが掘り起こすと争い、敵意を示しておきながら「私たちがあなたを傷つけなかったように、あなたが私たちに悪事をしないように」と言っています。サタンさながらの偽りです。
 しかしイサクは、彼らのために祝宴を行いました。それは何故でしょう。彼らは、イサクが争っても敵意を向けても屈することなく、次々に井戸を掘り当ててしまうので、遂にあきらめて退きました。そして、自分たちがイサクと争っても勝てないことが分かり、逆に、自分たちを滅ぼさないで欲しいと懇願してきたのです。
 そして彼らは「私たちは確かに主があなたと共にいることを見た」と認め、さらに「今あなたは主に祝福されている」と認めました。つまり勝敗は決したのです。イサクは逆に、彼らを支配する者となったのです。
 
 彼らはその朝、早起きして、お互いに誓い、イサクは彼らを平安のうちに送り出しました。イサクは彼らを倒そうと思えば倒すこともできましたが、イサクはそうしませんでした。イサクがこうして立場を逆転し、完全勝利したその日に、イサクの僕たちが井戸を掘り当て、「私たちは水を見つけました」と言いました。
 イサクは、それをシヴァ(シェバ=誓い)と呼びました。イサクは父から聞いて知っていたのです。ベエル・シェバという地名の由来について、アブラハムの逸話とイサクの逸話とが聖書に書かれていて、どちらが事実なのか、という解釈の仕方がキリスト教会にはあるのですが、そういう次元の話ではまったくないのです。
 こうしてイサクは、アブラハムがその礎を築いていた場所をすべて勝ち取り、この地の支配者かたの争いと敵意に屈せず、戦わずして立場を逆転したのです。




26:34-35
 エサウは、四十歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。

 
ヘブライ語原典では「エサウが40歳の年であった。彼はベエリの娘ユディト、そしてヘト人エロンの娘バセマトをめとった。彼女たちはイサク、またリベカにとって霊の苦しみとなった」です。

 イサクとリベカから生まれた双子のうち、先に出てきたエサウは40歳のときにヘト人の娘2人を妻にめとりました。ヘト(ヒッタイト)とはカナンの息子のことで(創10-15)、ヘト人はカナン人でもあります。アブラハムは、息子イサクの嫁取りに際してカナンの娘から取ってはならないと言いました。もちろんイサクはそのことを知っているでしょうから、エサウは誰の言うことも聞き入れないでカナンの娘を妻にしたのです。
 そして、この嫁たちがイサクとリベカにとって「霊の苦しみ」となりました。新共同訳では「悩みの種となった」と訳されていますが、ヘブライ語原典の「霊の苦しみとなった」は、単に悩みの種となったという意味ではありません。神様に忠実なイサクとリベカにとって「霊の苦しみ」となるもの、それはカナン人の偶像崇拝と異教の習慣を意味します。
  

 



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