安息日の礼拝  創世記の真相

創世記27章




27:1-4
 イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。そこで上に息子エサウを呼び寄せて、「息子よ」と言った。エサウが、「はい」と答えると、イサクは言った。
 「こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない。今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」

 
ヘブライ語原典では「さて、イサクが年老いた時であった。彼の目は見ることからかすんだ。それで彼の年上の息子エサウを呼んだ。そして彼に言った。『私の子よ』。 するとエサウはイサクに言った。『私はここに』。 そして(イサクは)言った。『見よ、さあ私は年老いた。私の死の日を、私は知らない。それで今、さあ、あなたの道具を、あなたの矢筒とあなたの弓を、持ち上げて野に出て行き、私のために獲物を獲れ。そして私のために、私が好むような御馳走を作り、私に持って来い。そうすれば私はそれを食べ、死なないうちに、私の魂があなたを祝福する。」です。 

 
イサクは高齢となり、目がかすんで見えなくなってきていました。それでイサクは長男のエサウを呼び寄せて、祝福を与えようと言い、エサウに狩りで獲物を獲って御馳走を作って持ってくようにと言いました。イサクは、胎から先に出たエサウに祝福を与えるべきと考えていました。イサクは、狩りが得意なエサウのことを勇敢だと思っており、エソウが狩りで獲ってくる獲物の料理が好物だったからです。

 「祝福」を受け継ぐ者は、一族の長(王)としての資格を受け継ぐだけでなく、神の言葉を聞く預言者でもあり、「主の大祭司」として主の祭壇で主の御名によって祭礼の務めを受け継ぐことになり、それに伴いほとんどの財産を受け継ぐことになります。それはまた、神様の祝福を人々にもたらす通路としての存在となることを意味します。そして自分の子に「祝福」を継承させる責任を受け継ぐことにもなります。
 後には、ヤコブの12人の息子たちに役割が分担されるようになりますが、それまでは「祝福」を受け継いだ者だけがすべての権限を担ったのです。そして、それは主の御名によって成される『魂による継承手続き』ですので、ひとたび主の御名によってそれが成されれば、変更することができません。




27:5-17
 リベカは、イサクが息子のエサウに話しているのを聞いていた。エサウが獲物を取りに野に行くと、リベカは息子のヤコブに言った。
 「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。わたしの子よ、今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、無くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」
 しかし、ヤコブは母リベカに言った。
 「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」
 母は言った。「わたしの子よ、そのときにはおかあさんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、行って取って来なさい。」 ヤコブは取りに行き、母のところに持って来たので、母は父の好きなおいしい料理を作った。リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。

 
ヘブライ語原典では「リベカは、イサクが彼の息子エサウに話した時に聞いていた。そしてエサウは、獲物を獲って持ってくるために野に行った。リベカは、彼の息子ヤコブに言った。『見よ、私はあなたの父が、あなたの兄エサウに【私に獲物を持って来て、私のために御馳走を作れ。そうすれば私は食べ、私の死の前に、主の面前であなたを祝福しよう】と話しているのを聞いた。それで今、私の息子よ、私の声に聞け。私があなたに命ずることを。さあ、群れの所へ行って、そこから私に良い山羊の2頭の子山羊を持って来なさい。私はそれらを、あなたの父のために彼が好むような御馳走に作ろう。そして、あなたの父に持って行きなさい。彼の死の前に、彼があなたを祝福することのために、彼は食べるでしょう。』 ヤコブは彼の母リベカに言った。『見よ、私の兄エサウは毛深い男です。しかし私は、滑らかな男です。おそらく私の父は私を触るでしょう。そして私は彼の目に騙す者のようになり、私は私の上に祝福でなく呪いを持ってくることになります。』 しかし彼の母は彼に言った。「私の息子よ、あなたの呪いは私の上に。きっと私の声に聞きなさい。行って、私に取りなさい。』 ヤコブは行って、捕まえ、彼の母に持って来たので、彼の母は彼の父が好むような御馳走を作った。そしてリベカは、彼女の年上の息子エサウの衣服と、家の中で彼女と共にある貴重品を取って、彼女の年下の息子ヤコブに着せた。そして雌山羊の子山羊の毛皮を、彼女は彼の両手の上と、彼の首の滑らかな所の上に着せた。そして彼女は、彼女の息子ヤコブの手に、彼女が作ったパンと御馳走を渡した。」です。

 リベカは、イサクがエサウに話したことを聞いていました。もちろん偶然ではありません。リベカは神様から託された重大な使命を果たすために、常に目を開き耳を傾けていたので、それができたのです。
 リベカは、イサクがエソウに話しているのを聞いて、その使命を果たすため、その「とき」を逃すことはありませんでした。即座にヤコブに、イサクがエサウに話していたことを告げた上で、「それで今、私の息子よ、私があなたに命ずることを、私の声に聞け」と言いました。そして、群れから2頭の子山羊を持って来させ、それを料理し、それを父イサクに持って行かせて、祝福を受けさせようとしました。
 それを聞いたヤコブはリベカに、自分はエサウのように毛深くないので父が触れて気付き、父の目に騙す者のように思われ、祝福でなく呪いを受けてしまうのでは、と言います。イサクは祝福と呪いの権限を持っていたからです。しかしリベカは、あなたの呪いは私の上に受けると言い、強くヤコブに命じます。神様の使命を帯びたリベカには確固たる確信があり、何も恐れていません。もとより、すべての責任を自分が背負う覚悟で、この「とき」を待っていたのです。
 そしてヤコブは子山羊を捕まえてリベカに持って来て、リベカはイサクが好むような御馳走を作ります。そしてリベカは、この「とき」のために家にしまっておいたエサウの衣服と貴重品を取ってヤコブに着せ、雌山羊の子山羊の毛皮をヤコブの両手と首に着せ、彼女が作ったパンと御馳走を渡しました。
 新共同訳聖書では分かりませんが、ヘブライ語原典では、はっきりと記されています。ヤコブに着せた子山羊の毛皮は、雌山羊の子だと。つまり、2頭の子山羊は、雌山羊の子でした。これが何を意味しているか、気付く人は気付くでしょう。これはリベカの2人の息子エサウとヤコブのことであり、またエバと2人の息子カインとアベルのことを示しています。つまり、ここに記されていることは、リベカとエサウとヤコブによって成される、エバとカインとアベルの関係の元がえしであることが示唆されているのです。

 新共同訳聖書には、「リベカの計略」「祝福をだまし取るヤコブ」などと太字の小見出しが書き加えられていますが、この太字の小見出しは聖書に、もともと書かれているのではなく、キリスト教会が加筆したものです。そのことを知らないで読む人は、リベカとヤコブが共謀してエサウの祝福を奪う話だと思い込まされてしまいます。しかし、小見出しを無視して読むと、実はまったく逆の話が書かれていることに気付くのです。
 そもそも、この「とき」の前に、エサウはパンとレンズ豆のスープと引き換えに長子権をヤコブに売り渡していました(創25)。つまり、長子権はヤコブにあるのです。それにもかかわらずエサウが「祝福」を受けるならば、それこそエサウの計略であり、祝福を騙し取ることになるはずです。
 さらに、よく考えてみるべきことがあります。神様は、リベカが双子を胎内に宿しているとき、主に強く求め、主は「あなたの胎の中に2つの民がいる。そして2つの民族が、あなたの腹から別れる。そして民族が民族より強くなる。そして大きい者が若い者に仕える」と言われました。神様はなぜイサクにではなく、リベカにこれを告げられたのでしょうか。しかもイサクは、まったくそのことを知らないかのようです。
 雌山羊の子山羊2頭と併せて、このことを考えるとき、神様とリベカによる「元がえし」の奥義が見えて来るのです。
 エバが蛇と罪を犯したとき、それをアダムにも与え、アダムは罪を共有しました。エバはアダムに間違いを犯させたのです。そのことの元がえしは、まだ成されていません。これを元がえしするには、アダムが間違いを犯そうとするときにエバがそれをさせない、ということになります。つまりリベカが、イサクが「主なる神の祝福」の継承という一大事で、重大な間違いを犯そうとするときに、その間違いを犯させないで正しい道に立ち戻すことこそが、元がえしとなることになります。
 そのためには、夫イサクは何も知らず、神様とリベカだけがそれを知っていて、しかもリベカが何としても必ずそれを成功させなければならないのです。
 これほどに困難な使命があるでしょうか。相手は、主なる神の祝福を継承しているイサクです。そのイサクに間違いを犯させないで正しい道に立ち戻す、そんな妻がいたとしたら、まさしくそれは本来の「完成されたエバ」に他なりません。
 
 実際、よく読むとリベカとヤコブは一切、何も間違った事をしていないことが分かります。間違いを犯そうとしているのは、イサクとエサウなのです。その2人に、間違いを犯させないようにしているのがリベカとヤコブなのです。リベカとヤコブは、イサクを騙そうとしているのではありませんし、エサウを出し抜こうとしているのでもありません。



27:18-29
 ヤコブは、父のもとへ行き、「わたしのお父さん」と呼びかけた。父が、「ここにいる。わたしの子よ。誰だ、お前は」と尋ねると、ヤコブは言った。「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、座ってわたしの獲物を召し上がり、お父さん自身の祝福をわたしに与えてください。」「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」イサクはヤコブに言った。「近寄りなさい。わたしの子に触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい。」
 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼に触りながら言った。「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」イサクは、ヤコブの腕が兄エサウの腕のように毛深くなっていたので、見破ることができなかった。そこで、彼は祝福しようとして、言った。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。イサクは言った。「では、お前の獲物をここへ持って来なさい。それを食べて、私自身の祝福をお前に与えよう。」ヤコブが料理を差し出すと、イサクは食べ、ぶどう酒をつぐと、それを飲んだ。それから父イサクは彼に言った。「わたしの子よ、近寄ってわたしに口づけをしなさい。」
 ヤコブが近寄って口づけすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。
 「ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ。
 どうか、神が天の露と地の生み出す豊かなもの穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え 多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり 母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ お前を祝福する者は 祝福されるように。」

 
ヘブライ語原典では「そしてヤコブは、彼の父の所に来た。そして言った。『私の父よ』。 イサクは言った。『私はここに。私の息子よ、あなたは誰だ』。ヤコブは彼の父に言った。『私はあなたの長男エサウです。私は、あなたが私に話したように作りました。どうぞお座りになって、あなたの魂が私を祝福するために、私の獲物から食べてください』。 イサクは彼の息子に言った。『私の息子よ、どうして、こんなに早く見つけることができたのか』。すると彼は言った。『なぜなら私の面前にあなたの神、主が起こされたのです』。するとイサクはヤコブに言った。『さあ、近寄れ。私の息子よ、あなたが私の息子エサウなのか、それともそうでないか、私はあなたに触ろう』。 ヤコブは彼の父イサクに近寄った。そしてイサクはヤコブに触って言った。『その声はヤコブの声だ。しかし、その両手はエサウの手だ』。しかしイサクは彼がヤコブだと分からなかった。なぜなら彼の両手は、毛深い彼の兄エサウの手のようだったから。そしてイサクは彼を祝福した。そしてイサクは言った。『あなたこそ、私の息子エサウだ』 そこでヤコブは言った。『私です』 イサクは言った。『私に給仕せよ。私は、私の息子の獲物から食べよう。私の魂が、あなたを祝福するために』 そこでイサクのために給仕すると、イサクは食べた。さらにヤコブは父イサクにぶどう酒を持ってきた。すると彼は飲んだ。そして彼の父イサクは彼に言った。『さあ、近寄れ。私の息子よ、私に口づけせよ』 それでヤコブは近づいてイサクに口づけした。するとイサクは、彼の服の匂いを嗅いだ。そして彼を祝福して言った。『見よ、私の息子の匂いは、主がそれを祝福された野の匂いのようだ。神があなたに与えるように。天の露から、その地の肥えたものから、そしてたくさんの穀物と酒を。諸々の民はあなたに仕え、諸国民はあなたにひれ伏す。あなたは、あなたの兄弟たちの支配者になれ。あなたの母の息子たちは、あなたにひれ伏す。あなたを呪う者たちは呪われ、あなたを祝福する者たちは祝福される』。」です。

 ヤコブは母リベカに言われたとおりに、リベカが作ったパンと御馳走を持って父イサクのもとに行き、エサウになりすまします。しかし父イサクは、いぶかしがって「どうしてまた、こんなに早く仕留められたのか」と尋ねます。ヤコブは機転を利かせて、「私の面前にあなたの神、主が起こされたのです」と言います。
 するとイサクは「さあ、近寄れ。私の息子よ、あなたが私の息子エサウなのか、それともそうでないか、私はあなたに触ろう」と言います。イサクはヤコブではないかと疑ったのです。イサクはヤコブに触ると、「その声はヤコブの声だ。しかしその両手はエサウの手だ」と言い、イサクを祝福するために給仕させます。さらにヤコブはイサクにぶどう酒を持ってきました。それはイサクが望んだ以上のもので、母リベカから渡されたものでもなく、ヤコブ自ら持ってきたものです。このことによりヤコブは単にリベカの命令に従っただけでなく、自らの意思でこのことを成したことが分かります。
 イサクはヤコブのぶどう酒を飲みました。後に分かるのですが、パンとぶどう酒で按手することが祝福の継承の儀式なのです。そして、もちろんパンとぶどう酒はイエス様の血と肉を示しています。
 イサクは「さあ、近寄れ。私の息子よ、私に口づけせよ。」と言って、服の匂いを嗅いで最終確認をしようとします。これはイサクの知恵です。イサクは服の匂いを嗅いでヤコブを祝福して言います。「私の息子の匂いは、主が祝福された野の匂いのようだ。神があなたに与えるように。天の露から、その地の肥えたものから。そしてたくさんの穀物と酒を。諸々の民はあなたに仕える。そして諸国民はあなたにひれ伏す。あなたはあなたの兄弟たちの支配者になれ。そしてあなたの母の息子たちはあなたにひれ伏す。あなたを呪う者たちは呪われる。そしてあなたを祝福する者たちは祝福される」と。
 リベカは、イサクを上回る知恵の持ち主だったことが分かります。そのリベカの知恵によって、リベカは神様の御言葉を成就させ、イサクにもエサウにもヤコブにも間違いを犯させませんでした。
 リベカがこのことを成せたのは、何よりも夫イサクを愛し、エサウのこともヤコブのことも愛していたからです。自分が夫からも子からも嫌われようとも、リベカにとっては、そんなことはどうでもいいのです。それが本当の愛です。夫に気に入られよう、子に気に入られようというのは、愛の正反対で、自分のために夫や子を利用しようとしているだけです。
 
 リベカは、夫イサクと祝福について口論したり、争ったりすることなく、何が正しいとか正しくないとか論じてもいません。ただ、主に言われたことを成すために黙々と準備を整えていたのです。エサウの移り香が付いている服まで用意していたのです。言うまでもなく、移り香など時がたてば消えてしまいますから常々それを取り変えながら用意していたのです。何という用意周到さでしょう。しかし、これがなかったら成功しなかったはずです。神様の御心を成すということは、こういうことを言うのです。




27:30-40
 イサクがヤコブを祝福し終えて、ヤコブが父イサクの前から立ち去るとすぐ、兄エサウが狩りから帰って来た。彼もおいしい料理を作り、父のところへ持って来て言った。「わたしのお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福をわたしに与えてください。」父イサクが、「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えが返ってきた。イサクは激しく体を震わせて言った。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」
 エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。父イサクは言った。「ああ地の産み出す豊かなものから遠く離れた所 この後お前はそこに住む 天の露からも遠く隔てられて。お前は剣に頼って生きていく。しかしお前は弟に仕える。いつの日にかお前は反抗を企て 自分の首から軛を振り落とす。」

 
ヘブライ語原典では「イサクがヤコブを祝福することを終わった時であった。ヤコブが、彼の父イサクの面前から、すぐ出て行ってしまった。そして彼の兄エサウが彼の狩りから来た。そして彼もまた御馳走を作って、彼の父に持って来た。そして彼の父に『私の父よ、起きてください。そしてあなたの魂が私を祝福するために、息子の獲物から食べてください』と言った。すると彼の父イサクは、彼に言った。『あなたは誰か』 それで彼は言った。『私はあなたの息子、長男のエサウです』 イサクは大変に大きな恐怖で震えて言った。『それなら、獲物を狩った人、私に持って来た彼は誰だ。あなたが来るより先に、私は全部から食べた。私は彼を祝福したので、彼は祝福されるであろう』 エサウが彼の父の言葉を聞いた時、大きな叫びを叫んだ。そして大変に大きな苦い叫びを叫んだ。そして彼の父に言った。『私の父よ、私を、私もまた祝福してください』 しかしイサクは言った。『あなたの弟が賢く来て、あなたの祝福を取った』 それでエサウは言った。『彼の名をヤコブと呼んだからではないか。彼はこれで2度も私の足を引っ張った。彼は私の長子相続権を取った。そして今度は見よ、私の祝福を取った』 そしてエサウは言った。『あなたは私の祝福を残さなかったか』。するとイサクは答えて、エサウに言った。『見よ、あなたのために私は彼を支配者に置いた。そして、すべての彼の兄弟たちを僕として彼に与えた。そして穀物とぶどう酒で、私は彼に按手した。私の息子よ、私があなたのために何をすることができようか』 それでエサウは彼の父に言った。『私の父よ、あなたには祝福は、それ1つなのか。私の父よ、私を、私もまた祝福してください。』 そしてエサウは彼の声を上げ、そして泣いた。すると彼の父イサクはエサウに答えて言った。『見よ、その地の肥えた物から、そして天の上からの露から遠く離れて、あなたの住まいがあるであろう。あなたの剣によって、あなたは生き、あなたはあなたの弟に仕える。そして、あなたが悲しむとき、あなたの首の上から彼のくびきをはすず』。」です。

 
イサクから祝福を継承したヤコブは、早々に父の前を出て行きます。狩りから戻ったエサウは、獲物で父のための料理を作って父のもとに運び、祝福を求めます。このときイサクは、エサウと間違ってヤコブに祝福を継承したことに大きな恐怖で震えます。祝福の継承を間違えることは、アブラハムの子孫代々がそれを受け継いでいくと約束された神様の意向に背くことになるからです。
 神様に背くこと、間違いを犯すことは、イサクにとって大きな恐れで震えるほどのことでした。イサクは、ヤコブに祝福を継承してしまったことをエサウに伝えます。それを聞いたエサウは、大変に大きな苦い叫び声を上げ、「父よ、私を、私もまた祝福してください」と言いますが、イサクは「お前の弟が賢く来て、あなたの祝福を取った」言います。新共同訳では「ずる賢い」と訳しているヘブライ語のベミルマーは、必ずしも「ずる賢い」という意味ではなく、「賢い」という意味です。
 エサウはなおも父イサクに、恨みがましく言います。「彼の名をヤコブと呼んだからではないか。彼はこれで2度も私の足を引っ張った。彼は私の長子相続権を取った。そして見よ、今度は私の祝福を取った。」「あなたは私の祝福を残さなかったか」と。エサウが言っている事は事実ではありません。ヤコブはエサウから長子相続権を取ったのではなく、エサウが食べ物と引き換えにそれを売り渡したのです。そして祝福は長子相続権と1セットになっているものなのですから、エサウはそのときに祝福継承権も売り渡したのです。
 イサクは答えて、エサウに言います。「見よ、あなたのために私は彼を支配者に置いた。そして、すべての彼の兄弟たちを僕として彼に与えた。そして穀物とぶどう酒で、私は彼に按手した。そして私の息子よ、私があなたのために何をすることができようか。」と。このイサクの言葉は、どうでしょうか。まるでイサクは、ヤコブを祝福したことが正しい事であるかのように、毅然としてエサウに言い放っています。新共同訳では「穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった」と訳の分からない訳し方をしていますが、ヘブライ語原典では「穀物とぶどう酒で、私は彼に按手した」です。これはパン(イエス様の肉)とぶどう酒(イエス様の血)で按手して祝福継承の儀式を完了したということです。
 もちろん、祝福の儀式はいったん行使した以上は曲げられないものだ、ということもあるでしょうが、つい先ほどヤコブに祝福を継承してしまったことを知って大きな恐怖で震えていたイサクとは別人のようです。
 そうです。大きな恐怖で震えたイサクは、それによって目が覚めたのです。目が覚めたイサクは、賢く振る舞ったヤコブと、ただ恨みがましいエサウとを見て、悟ったのです。この祝福は正しいことだったと。思い出してください。イサクの父アブラハムとよく似ています。アブラハムも、そのときには気付かなくても後で気付いて即座に実行する人でした。
 エサウは、なおも「私の父よ、あなたには祝福は、それ一つなのか。私の父よ、私を、私もまた祝福してください。」と言って、声を上げて泣きます。イサクはこのとき、はっきりと悟ったはずです。賢いヤコブに対して、私が勇敢な狩りの名手だと思っていたエサウは、ただ同じ言葉を繰り返し、泣くだけしかできないのか、と。このようなエサウが、祝福を継承すべき器でないことは、かすんで見えなくなったイサクの目にも、もはや明白でした。
 イサクはエサウに言います。「見よ、その地の肥えた物から、そして天の上からの露から遠離れて、あなたの住まいがあるであろう。あなたの剣によって、あなたは生き、あなたはあなたの弟に仕える。そして、あなたが悲しむとき、あなたの首の上から彼のくびきをはすず。」と。イサクは、ここにきて、はっきりとエサウの性質を誤りなく見ています。そして「あなたはあなたの弟に仕える」と、あのとき神様がリベカに言った言葉と同じ言葉を告げるのです。
 そうです。このときイサクは目覚めて、奇しくも神様とリベカと一致した正しい言葉を告げるのです。しかも、その言葉は神様の預言となっています。つまりイサクは、間違ってヤコブを祝福してしまったのではなく、危うく「情」に支配されて間違ってエサウを祝福してしまうところを、ヤコブの「知恵」によって間違えないで祝福できたことを確信して、この言葉を告げているのです。もちろんヤコブにそうさせたのはリベカなのですが、イサクがそのことにも気付いていたかどうかは定かではありません。
 
 神様の永遠の契約を軽んじて、一時の空腹を満たす欲望を優先するようなエサウが、長子権にも祝福継承にも値しないことは明白ですが、エサウは自分がしたことを棚に上げてヤコブを憎むようになります。



27:41-46
 エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」ところが、上の息子のエサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。彼女は人をやって、下の息子ヤコブを呼び寄せて言った。「大変です。エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています。わたしの子よ、今、わたしの言うことをよく聞き、急いでハランに、わたしの兄ラバンの所へ逃げて行きなさい。そして、お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい。そのうちに、お兄さんの憤りも収まり、お前のしたことを忘れてくれるだろうから、そのときには人をやってお前を呼び戻します。一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう。」

 リベカはイサクに言った。「わたしは、ヘト人の娘のことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません。」

 
ヘブライ語原典では「エサウは、彼の父が彼を祝福した、その祝福のためにヤコブを憎んだ。そして彼の心の中で言った。『私の父の服喪の日々が近づくだろう。私は、私の弟ヤコブを殺そう』 しかしリベカに、彼女の年上の息子エサウの言葉が告げられた。それで彼女は、年下の息子ヤコブに人を遣わして呼び、彼に言った。『見よ、あなたの兄エサウが、あなたを殺そうと、あなたに対して自分を慰めている。私の息子よ、今、私の声に聞きなさい。あなたのために、ハランの方の私の兄弟ラバンの所へ立って逃げなさい。そして少しの日々、彼と共に住みなさい。あなたの兄の激怒が戻るまで。あなたの兄の怒りが、あなたから戻るまで。そして彼が、あなたが彼に行った事を忘れるまで。そのときには私は人を遣わして、あなたをそこから連れて来ます。どうして1日に、あなた方2人ともを私が失う(ことができましょうか)。
 
 そしてリベカはイサクに言った。『私は、ヘト人の娘たちのために、私の人生にうんざりしました。もしヤコブが、この地の娘たちから、このようなヘト人の娘たちから妻をめとるなら、私にとって人生は何のためだったでしょう』。」です。

 エサウは、父イサクがヤコブを祝福したためにヤコブを憎んだ、とあります。しかし、これは逆恨みです。エサウは、パンとスープと引き換えにヤコブに自分から申し出て長子相続権を売り渡していたのですから。
 それなのにエサウは弟ヤコブを憎んで、心の中で「弟ヤコブを殺そう」と言います。これはカインが、弟アベルを妬んで憎み、殺そうと思ったのと同じです。しかし、こうなることもカインとアベルの「元がえし」のためには必要だったと言えます。
 ところが、エサウの言葉がリベカに告げられます。新共同訳は「上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った」と訳していますが、エサウが心の中で言った言葉がリベカの耳に入るはずがありません。ヘブライ語原典には「しかしリベカに、彼女の年上の息子エサウの言葉が告げられた」と書かれています。エサウが心の中で言った言葉をリベカに伝えたのは誰でしょうか。心の中で言った言葉を知っているのは、主なる神様のみです。
 リベカはヤコブを呼び寄せて、エサウがあなた殺そうとしている、エサウの激怒が収まるまでハランの私の兄弟ラバンの所へ逃げなさい、一日に2人の子を失うことはできない、と言ってヤコブを逃がします。
 リベカは、時がたてば激情型のエサウの激怒は治まると見抜いていますし、エサウがヤコブを殺せば、ヤコブだけでなくエサウをも失うことも分かっていたのです。リベカはエサウのこともヤコブのことも同じく愛していたことが、このことから分かります。
 リベカは兄ラバンがどういう人物であるかを知ったいるはずです。24章でみたように、リベカの兄ラバンはとんでもない人物です。この兄ラバンのために、幼いリベカも想像を絶する苦労をして育ったはずです。それなのに、なぜヤコブをラバンの所に行かせるのでしょうか? それはラバンを信頼して託したのではありません。リベカは兄ラバンには2人の娘がいることを知っていたのです。そしてリベカは、ヤコブにその娘を娶らせようとしたのです。エサウはカナンのヘト人の娘を娶り、リベカもヤコブも「霊の苦しみ」を味わっていました。ヤコブの嫁はカナン人ではなく一族の中から娶らせなければならないことを、リベカは分かっていたのです。
 リベカは、またこのことも分かっていたのです。もしリベカの息子がラバンの所に訪れたならば、ラバンは必ず追い返さないで働かせるために引き留めるであろうことを。そしてヤコブはラバンに苦労させられるかも知れないけれども、たとえどのような境遇にあろうとも祝福を継承したヤコブには神様が共におられ、神様がヤコブを導いて、アブラハム、イサクと交わされた永遠の契約をヤコブに成就されることを。

 リベカは、このことを夫イサクに納得させるために、こう言います。「私はヘト人の娘たち(エサウの嫁たち)のために、人生にうんざりした。」と。もちろんリベカは、ヘト人の娘たちのせいで人生にうんざりするような女性ではありません。しかしイサクを納得させるために、自分を悪者にして、こう言ったのです。イサクは、息子がカナンのヘト人から嫁を娶ったことについては、正しいことではないと分かっていますし、責任を感じていたはずですから、これを言われると了承せざるを得ません。そして、祝福を継承したヤコブには、どうしても一族の中から妻を娶らせるべきだ、というのは正論でした。イサクが異論を唱えることはできません。
 ヤコブがいなくなって、エサウの憤りと恨みは母リベカに向くことになるでしょう。それでもリベカは恐れません。そうしなければ、イサクの幸福も、エサウの幸福も、ヤコブの幸福も、自分自身の幸福もないことを、リベカは知っています。成すべきことを成さなければ、すべてが一瞬にして崩壊してしまうことを、リベカははっきりと分かっているのです。
 
 リベカの物凄さは、アブラハムと違って何度も神様が現れて指示されていないのに、見事に神様の言葉を成就させたことにあります。神様は、リベカにそうさせる必要があり、リベカは見事にそれを果たします。
 エバは自分の意志で神様の言葉に背きました。アダムのことも無視して。このエバの元がえしをして、本来のエバとして完成するためには、神様からの具体的な言葉がなくても、夫が自分に反対しても、自分独りで成し遂げなければならなかったのです。
 もちろん、神様と無関係の自分の意志を行うことは信仰でも何でもありません。神様に従うべきです。しかし神様に従うだけでなく、神様からの指示がなくても自分の意志で神様の意向を行うことが、創造本来の完成されたアダムとエバが成すべき行いです。
 リベカは、それを果たせなかったエバを超え、新たなイシャーとなりました。創造本来の女性となり、妻となり、母となった、最初の女性がリベカです。男尊女卑の色が強い聖書には書かれていませんが、リベカは生涯の中でたった一つの間違いも犯しておらず、いかなる女性も成すことができなかったことを成した最初の女性です。
 人類史上、一番難しいことを成し遂げた女性がリベカと言えます。





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