安息日の礼拝  創世記の真相

創世記29章




29:1-8
 ヤコブは旅を続けて、東方の人々の土地へ行った。ふと見ると、野原に井戸があり、そのそばに羊が三つの群れになって付していた。その井戸から羊の群れに、水を飲ませることになっていたからである。ところが、井戸の口の上には大きな石が載せてあった。まず羊の群れを全部そこに集め、石を井戸の口から転がして羊の群れに水を飲ませ、また石を元の所に戻しておくことになっていた。
 ヤコブはそこにいた人たちに尋ねた。「皆さんはどちらの方ですか。」「わたしたちはハランの者です」と答えたので、ヤコブは尋ねた。「では、ナホルの息子のラバンを知っていますか。」「ええ、知っています」と彼らが答えたので、ヤコブは更に尋ねた。「元気でしょうか。」「元気です。もうすぐ、娘のラケルも羊の群れを連れてやって来ます」と彼らは答えた。ヤコブは言った。「まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに言ったらどうですか。」すると、彼らは答えた。「そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。」


 
ヘブライ語原典では「ヤコブは彼の足を上げた。そして東方の子たちの地に行った。そして彼は見た。すると見よ、その野に井戸が。そして見よ、その側に3つの羊の群れが横たわっている。なぜなら、その井戸から彼らはその群れに飲ませる。そして井戸の口の上のその石は大きかった。そこにすべての群れが集まる。彼らはその石を井戸の口の上から転がし、羊の群れに飲ませ、その石を井戸の口の上のその場所に戻す。ヤコブは彼らに言った。『私の兄弟たちよ、あなた方はどこから』。 すると彼らは言った。『私たちはハランから』。 ヤコブは彼らに言った。『あなた方はナホルの息子ラバンを知っていますか』。すると彼らは言った。『私たちは知っている』 ヤコブは彼らに言った。『彼は元気ですか』 すると彼らは言った。『元気です。そして見よ、彼の娘ラケルが羊の群れと共にやって来る』。ヤコブは言った。『見よ、まだ日は大きい。まだ家畜が集められる時刻ではない。羊の群れに飲ませよう。そして草を食べさせよう』。すると彼らは言った。『すべての群れが集められ、井戸の口の上からその石を転がし、羊の群れに飲ませるまで私たちは出来ない』。」です。

 
ヤコブは梯子の夢を見たベテルの地から、メソポタミアにあるハランに向かって出発しました。
 ここで確認しておきたいことがあります。それをしておかないと、この場面で真に気付くべきことに気付けないまま読んでしまうことになるからです。
 かつてアブラハムはイサクの嫁を同族から娶るため、信頼している僕に贈り物を携えさせてリベカがいるラバンのもとへ向かわせ、イサクがその地に向かうのではなくリベカに来させるようにと厳命しました。しかし今回のヤコブの場合は、なぜそうではないのでしょうか。
 その理由は、ヤコブの嫁には同族のラバンの娘を娶る必要があるのですが、前の章でリベカが言ったように、エサウがヤコブを殺そうとしていたので、エサウの怒りが治まるまでラバンの所に置いてもらう必要があったからです。
 エサウはイシュマエルの所に行ったので、ヤコブがラバンの所から嫁を娶ってイサクとリベカの所に戻ってくればいいのでは? と思うかも知れませんが、イシュマエルの所に向かったエサウはいつでもヤコブを襲う可能性があります。
 リベカは、そこまで読み切っていたからこそ、ヤコブをラバンの所に行かせたのです。ラバンにとってヤコブは働き手となり、自分の娘の婿ともなれば、たとえエサウがラバンの所に行ったとしてもヤコブを守るに違いないと、リベカには分かっていたのです。また、ラバンがいるハランはメソポタミアにありましたから、エサウが軍勢を率いてそこに向かったならばメソポタミアの軍勢は黙っていません。
 もちろん、祝福の逆転という神様のご計画をリベカが実行しなければ、このような波風は立ちませんでしたが、それでは神様のご計画を成就することはできず、神様のご計画を成就できないということは自分が生きている意味がないし、夫イサクは失敗者となり、息子たちは滅び、すべてが塵に帰してしまうことは、リベカの開かれた目には明白でした。
 リベカにとっても、夫イサクのためにも、息子たちのためにも、神様の血統のためにも人類の未来のためにも、リベカにとって選択肢は1つしかなかったのです。
 リベカは、神様のご計画を成就するために波風が立つことを厭いませんでした。夫からの理解もなく、表面的には息子たちを仲たがいさせるように見えることを、あえて実行するのですから、目が開かれていない家族の目からは自分が諸悪の根源であるかのようにみなされて孤立する可能性もありました。しかし、そんなことはリベカは覚悟の上でした。そしてリベカの勇気ある行動により、夫イサクの目は覚め、何が正しい道であるかを悟らせることができ、成すべきことを成すことができたのです。リベカは夫イサクを救い、息子たちを救い、神様の血統を救い、人類の未来を救ったのです。
 しかし目的の成就のためには、まだ道半ばです。祝福の逆転は、カインとアベルの元がえしを成功させるために、したことです。祝福の逆転によって、エサウがヤコブに殺意を抱くことは、カインがアベルに対して殺意を抱いたのと同じですから、元がえしするためには、そこまでは必要だったことです。サタンがアダムに抱いた嫉妬により「死」をもたらしたことを元がえしするために、カインとアベルは同じような立場に立って「死」を克服する使命がありました。しかしカインとアベルは失敗しました。エサウとヤコブもそれを元がえしするために同じような立場に立ちますが、ヤコブはエサウに殺されては「死」を克服することは出来ず、元がえしできません。エサウの殺意をおさめさせて、和解の上で立場を逆転する使命をヤコブは担っているのです。

 さて、ヤコブが東方の地に入ると、井戸があり、その側に3つの羊の群れが横たわっていて、井戸の上に大きな石がありました。ヤコブは、そこにいた人たちに、あなた方はナホルの息子ラバンを知っていますか、と尋ねました。すると彼らは、知っている、もうすぐラバンの娘ラケルが羊の群れを連れてやって来る、と答えました。
 ヤコブが、まだ日は高く家畜が集められる時刻ではないから、羊の群れに飲ませ、草を食べさせよう、と言ったのは、ヤコブも羊の群れの面倒を見ていたので、羊の世話の仕方をよく知っていたのです。そのヤコブからすれば、彼らが日の高いうちから無駄に羊たちを待たせていることは、奇異な光景に見えました。
 ところが彼らは、すべての群れが集められ、井戸の口の上からその石を転がし、羊の群れに飲ませるまで私たちは出来ない、と言ったのです。そのような「しきたり」を作ったのは誰か、それはおそらくラバンです。この後にラケルが羊を率いて来て、ヤコブが石をどかして羊たちに水を飲ませるのですが、それに対して抗議するような権力者は登場しません。つまり、ラバンの娘ラケルが羊を率いて井戸に到着したら、石をどかして井戸の水を羊たちに飲ませることができた、ということです。
 リベカがラバンの家にいたときは、このように井戸に石で蓋をしていませんでしたし、このような「しきたり」もありませんでした。ということは、リベカが自由に井戸の水を誰にでも飲ませるようにしていたのだということが、このことから分かります。おそらくラバンは、以前からこのような「しきたり」で自分の権威を見せつけたかったに違いありませんが、リベカは誰が何と言おうと善いことを実行することができる人だったということです。
 ただ、ラバンの家からリベカがイサクに嫁いでいなくなって以降は、井戸ではラバンが作った「しきたり」があったということです。そして、その「しきたり」は、羊飼いにとって効率の悪い、自然の理にかなっていないものでした。何が本当の善悪なのかが分かっていない人間が作る「しきたり」は、えてして、このようなものです。これもラバンの性質の一端を示しています。



29:9-15
 ヤコブが彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女も羊を飼っていたからである。ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。ヤコブはラケルに口づけし、声を上げて泣いた。
 ヤコブはやがて、ラケルに、自分が彼女の父の甥に当たり、リベカの息子であることを打ち明けた。ラケルは走って行って、父に知らせた。ラバンは、妹の息子ヤコブの事を聞くと、走って迎えに行き、ヤコブを抱きしめ口づけした。それから、ヤコブを自分の家に案内した。ヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、ラバンは彼に言った。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ。」
 ヤコブがラバンのもとにひと月ほど滞在したある日、ラバンはヤコブに言った。「お前は身うちの者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」

 
ヘブライ語原典では「ヤコブが彼らと話しているうちに、ラケルが彼女の父に属する羊の群れと共に来た。なぜなら彼女は羊を飼っていたからである。そしてヤコブが彼の母の兄ラバンの娘と、彼の母の兄ラバンの羊の群れを見た時に、井戸の口の上からその石を転がした。そして彼の母の兄ラバンの羊の群れに飲ませた。そしてヤコブはラケルに口づけし、彼は声を上げて泣いた。ヤコブはラケルに、彼が彼女の父の親戚であるリベカの息子であることを告げた。すると彼女は、彼女の父に走って行って、告げた。ラバンが彼の妹の息子ヤコブの消息を聞いた時であった。ラバンはヤコブに向かって走った。そしてヤコブを抱きしめ、彼に口づけした。そしてヤコブを彼の家に連れて入った。ヤコブはラバンに、これらの事柄すべてを物語った。ラバンは彼に『あなたは私の骨、そして私の肉の者だ』と言った。そしてヤコブはひと月ほどを彼と共に住んだ。そしてラバンはヤコブに言った。『あなたが私の親戚であろうとも、私のためにただで働くことがあろうか。あなたの賃金は何か私に告げよ』。」です。

 ヤコブが人々と話していると、ラケルが羊の群れを連れてやって来ました。ヤコブは、ラバンの娘と羊の群れを見た時、井戸の口の上から石を転がして、羊の群れに飲ませました。これは、ヤコブの母リベカが、イサクの代理でやって来たアブラハムの僕とラクダたちにしたのと同じことです。
 この場面は、何気なく読んでしまうとリベカのときと同じような場面に見えるのですが、よく見るとまったく違っていることに気付くのです。ヤコブの普段の生活がいかに神様に即し、自然の理にかなった、優れた生活をしていたか、そしてラバンが自分の目に忠実でいかに神様に即さず理にかなわない生活をしているかが見える場面です。
 
 ヤコブは、ラバンの娘ラケルに口づけし、声を上げて泣き、自分がラケルの父の親戚リベカの息子であることを告げました。ラケルは父ラバンの所に走って行って、そのことを告げました。ラバンは、妹の息子ヤコブのことを聞いて、彼に向かって走って行き、ヤコブを抱きしめ、彼に口づけしました。そしてヤコブを彼の家に連れて入りました。
 ヤコブはラバンに、ここに来た事の次第をすべて物語りました。かつて母リベカがそうしたように、ありのままをすべて物語ったはずです。それを聞いたラバンはヤコブに「確かにあなたは私の骨、そして私の肉の者だ」と言いましたが、この表現はアダムが自分の脇腹の肉から女が造られたのを見て言った「ついに、これこそ、私の骨の骨、私の肉の肉」をなぞった言葉です。ラバンはヤコブにこのように言うことで、自分がメソポタミアに住んではいるけれども「主なる神」に属する者であるとヤコブに示したかったのでしょう。
 しかし、似てはいるけれども、少し違うのです。ラバンの場合は「私の骨、私の肉」です。アダムがエバに言ったのは「私の骨の骨、私の肉の肉」で、それは自分と一体の“かけがえのない存在”という意味ですが、ラバンはヤコブを「自分の肉、自分の骨」と言い、お前は自分のものだと言っているようなものです。このあたりの言葉の使い方の狡猾さは、サタンそっくりです。よく注意して耳を開いて聞いていないと、勘違いして誤魔化されてしまいかねません。

 ヤコブが、ひと月ほど滞在したある日、ラバンはヤコブに「あなたが私の親戚であろうとも、私のためにただで働くことがあろうか。あなたの賃金は何か私に告げよ」と言いました。
 この言葉の何と狡猾なことでしょう。本当に「あなたが私の親戚であろうとも、私のためにただで働くことがあろうか」と思っているならば、そんなことをわざわざ口に出して言ったりしません。「あなたは、ここで働いてくれないか。あなたが要求するものは与えよう」と言うはずです。ラバンは実は「あなたは私の親戚なのだから、私のためにただで働くのが当然なのだが、自分は憐れみ深い伯父さんだから、いくら欲しいのか言ってみなさい」と言っているのです。
 言葉を弄する者は醜いものです。このような厭らしい言葉に対しても、ヤコブは嫌な顔を見せません。ヤコブは、父と母の慣れ染めのエピソードを聞いていたでしょうから、当然、ラバンの人となりも分かっていたのです。



29:16-20
 ところで、ラバンには二人の娘があり、姉の方はレア、妹の方はラケルといった。レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。ヤコブはラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」と言った。ラバンは答えた。「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。」
 ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。

 
ヘブライ語原典では「さて、ラバンには2人の娘たちがいた。年上の名はレア、そして年下の名はラケルである。レアの目は柔らかく、ラケルは容姿が美しく、見るのに美しかった。ヤコブはラケルを愛した。そして言った。『私は、あなたの年下の娘ラケルのために、あなたに7年間仕える。』 するとラバンは言った。『私が彼女を他の男に与えるより、あなたに与えるのが良い。私と共に住め』。こうしてヤコブは、ラケルのために7年仕えた。彼が彼女を愛していたので、わずかな日々のようであった。」です。

 ラバンには、長女レアと次女ラケルの2人の娘がいました。レアとは「野生の雌牛」という意味で、ラケルは「雌の子羊」という意味です。野生の雌牛が意味するものは「働き、生活力、繁栄」で、しっかり者の女性という意味が込められています。ラケルの名も、豊かな繁栄を願って命名されているように思われます。ラバンが娘に何を求めているかを彷彿させる命名の仕方です。
 この命名は、エサウとヤコブの関係を思い起こさせます。エサウは野生の狩りを生業にしましたし、ヤコブは天幕の周りで羊の世話をしました。つまり、エサウとヤコブ、レアとラケルは対応しているのです。

 ラバンの「あなたが私の親戚であろうとも、私のためにただで働くことがあろうか。あなたの賃金は何か私に告げよ」との申し出に、ヤコブは「私は、あなたの年下の娘ラケルのためにあなたに7年間仕える」と願い出ます。ヤコブは井戸で会ったラケルに、母リベカのエピソードとイメージを重ね合わせ、ラケルに一目ぼれしたのかも知れません。
 ラバンはヤコブが願い出たことを承諾します。



29:21-30
 ヤコブはラバンに言った。「約束の年月が満ちましたから、わたしのいいなずけと一緒にならせてください。」ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。ラバンはまた、女奴隷ジルバを娘レアに召使いとして付けてやった。ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」
 ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルもヤコブに妻として与えた。ラバンはまた、女奴隷ビルハを娘ラケルに召使いとして付けてやった。こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。

 
ヘブライ語原典では「ヤコブはラバンに言った。『私の妻を下さい。なぜなら私の日々が満ちたからです。私は彼女の所に入りたい』 ラバンはその場所のすべての人々を集めた。そして祝宴を行った。そして夜であった。彼は娘レアを取って、彼女を彼の所へ強く説得して連れて来た。そしてヤコブは彼女の所に入った。ラバンはレアに、彼の侍女ジルバを侍女として与えた。そして朝であった。すると見よ、彼女はレアであった。ヤコブはラバンに言った。『あなたが私に行ったこれは何か。私はラケルのためにあなたと共に働いたではないか。しかし、なぜあなたは私を騙した』。ラバンは言った。『私たちの所では長女の前に、年下の女を与えるなどということは行われない。レアのために1週間を満たせ。他の7年、更に私と共にあなたが働く働きによって、私たちはラケルもまたあなたに与えよう。』 ヤコブはそのように行った。そしてヤコブは、そのための1週間を満たした。ラバンはヤコブに彼の娘ラケルを、ヤコブの妻として与えた。ラバンは彼の娘ラケルに、彼の侍女ビルハを侍女として与えた。そしてヤコブは、ラケルの所にも入った。ヤコブはラケルを、レアよりも愛した。そしてヤコブはラバンと共に、さらに他の7年間働いた。」です。

 7年の歳月が満ちたので、ヤコブはラバンに約束どおりラケルを妻として迎え、彼女の所に入りたいと申し出ます。ラバンはすべての人々を集め、祝宴を行いました。その夜ラバンは、長女レアを強く説得してヤコブのもとに連れて来ました。そしてヤコブは彼女の所に入り、一夜を伴にしました。朝になってヤコブは、一夜を伴にしたのがレアであることを知り、ラバンに問いただしました。
 するとラバンは、長女より先に次女が嫁ぐ風習がない、更に7年働くならばラケルも与えると言うのです。ラバンは、娘2人を利用してヤコブを無償で14年働かせ、自分の財産を増やそうと考えたのです。

 普通に読むと、ヤコブはラバンにまんまと騙されたかのようですが、あることに気付くと、そう単純な話ではないことが分かります。ラバンの思惑によって共にヤコブの妻となったレアとラケルはこの後、子供を身ごもるか否かによって互いに嫉妬し、壮絶な子作り合戦を展開していくのですが、次の30章の冒頭にこう書かれているのです。

「ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり」(創30・1)

 これが書かれているのは姉レアが4人の子供を産んでから、しばらくたって後のことです。つまりラケルは、姉レアに4人の子ができても、自分になかなか子供ができないと分かるまでは、姉レアのことを妬んでいなかったのです。このことは何を意味しているでしょうか。
 そもそも祝宴の夜、ラケルは自分ではなく姉レアがヤコブの所に入ることを知らなかったはずがありません。姉レアはラバンに強く説得されたとヘブライ語聖書は記していますが、ラケルは納得の上のことだったのです。
 ラケルは姉レアと共に自分たち姉妹がヤコブの妻になることを承諾していたのです。もっと言えば、ラケルはそれを望んだのでしょう。ラケルとレアは仲良しだったに違いありません。そして、おしゃまで積極的なラケルは、姉のためにもそれが良いと考え、自分と姉とヤコブは、きっとうまくやっていけるという自信もあったように思われます。そうでないと承諾していないでしょう。
 7年間を共に過ごし、ヤコブはレアからもラケルからも好かれていたようです。レアが父ラバンから強く説得されるほど拒んだのは、ヤコブのことを好きでなかったからではなく妹ラケルのことを思いやったからでしょう。「レアの目は柔らかく」という表現は、優しいという意味も持っています。
 7年間をヤコブと共に過ごしたレアとラケルは、共にヤコブに好意を寄せていて、妹ラケルは姉レアもヤコブのことを好きだと知っていたのでしょう。それに、ラケルがヤコブと結婚したならば、レアは誰と結婚すればいいのでしょう。エサウはカナン人の妻2人と、イシュマエルの娘1人を妻に娶っていました。エサウの第4夫人になるよりも、共にヤコブの妻になった方がいいと父と妹から強く説得されれば、レアが仕方なく同意したことも理解できます。
 そうすると、ラバンは明らかにヤコブを利用するために騙しているのですが、レアとラケルはヤコブを騙したというよりも、2人ともヤコブのことを愛しており、また姉妹同士も仲が良かったのでそうした、と考えた方が納得がいきます。姉レアが夫と寝て4人の子を産んでも、ラケルはまったく妬んではいなかったのですから、夫婦関係・姉妹関係に妬みはまったくなかったのです。ラケルが姉レアを妬むようになったのは、自分に子供ができないと思ったからなのです。自分に子供が出来ないがゆえに、子供ができる姉レアを妬んだのです。

 そして、もう1つ、それだけではない重要な意味が、この7年には込められているのです。
 ヤコブはそもそも本来は、妻を娶るために無償で7年も働く必要はない、イサクの正統な後継者です。イサクがラバンに財産を分けて、その代わりに娘をヤコブの嫁として迎えるというのが、あるべき本来の嫁取りです。しかしエサウの殺意があるために、それができないので、ヤコブはラバンの所に向かったのです。
 本当は、ヤコブに殺意を持っているエサウが悪いのです。世間的な「筋目」の問題で言えば、間違っているのはエサウなのに、どうしてヤコブがこんな苦労をしなければならないのかという、不条理な話に見えます。
 しかし一見、不条理に見えるこの話には、カインとアベルの元がえしをヤコブが成すという神様のご計画から見るとき、すべてが納得されるのです。この見解が正しいことは、後にヤコブの行いによってエサウが屈服し、2人が和解して、カインとアベルの元がえしを成功させることによって証明されます。
 では、ヤコブが嫁を娶るために働いた7年は何を意味しているのでしょうか。その答えは創4・15にあります。カインはアベルを殺した罪が重すぎて負いきれません、わたしが御顔から隠されて地上をさまよう者になってしまえば、わたしに出会う者は誰であれ私を殺すでしょう、と神様に言います。それに対して神様は、いや、それゆえカインを殺す者は誰であれ7倍の復讐を受けるであろう、と言われました。
 もともとカインとアベルは、サタンとアダムの関係を元がえしする使命を担っていました。サタンが悪いと言ってしまえばそうですが、サタンがいかなることを仕掛けてこようとも、エバもアダムもそれを支配しなければならなったのです。つまり、カインがアベルに何を仕掛けてこようとも、アベルは殺されてはなりませんでした。アベルがカインにどうすれば良かったのか、その答えをヤコブは教えてくれています。
 カインがアベルを殺害したのは、現代人が考える普通の殺人事件とは事情が異なっています。カインとアベルは、サタンとアダムの関係性を逆転する使命を担っていました。サタンによってアダムが堕落し、そこに「死」という要素が入り込んでしまいました。それを元の関係性に元がえしすることによって、「死」を克服する使命があったのです。
 カインとアベルはそれを果たすことが出来ず、アベルは殺害されてしまい、カインは神様から与えられた地から追放され、神様の御顔から隠されて地上をさ迷うことになりました。神様の御顔から隠された地上世界には、アダムとエバ以前に創造された人間(神様の息吹をまだ吹き入れられていない人間)たちがいました。カインは、その人間たちに出会えば殺されてしまうと思ったのです。それに対して神様は、カインを殺す者は誰でも7倍の復讐を受けるであろう、と言われ、カインにしるしを付けられたのです。
 ヤコブは、カインが背負ったものを自ら背負い、7年間、カインと同じように神様が祝福する地(イサクとリベカが神様から相続した地)を離れて、ラバンのもとで働いたのです。それはカインが神様の御顔から隠された地で生きるのと同じです。ただしカインと違うのは、エサウはヤコブに殺意をもっているけれどもまだ殺しておらず、ヤコブはエサウに殺されないで和解し、神様から与えられた地に戻ることができる、ということです。
 本当は、それを背負うべきはエサウです。ですからヤコブは、エサウが背負うべきものを代わって背負い、それを克服し、エサウとの和解を成功させ、カインとアベルの元がえしを成そうということです。
 そうすると7年だけでいいはずですが、ヤコブはラケルを欲してラケルのために更に7年働きました。そして、後にイスラエル12部族の長となる子供たちを産むのです。



29:31-35
 主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これらか夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。レアはまた身ごもって男の子を産み、「主はわたしが疎んじられているのを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫はわたしに結びついて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。

 
ヘブライ語原典では「主はレアが嫌われていることを見た。そして彼女の胎を開いた。しかしラケルは不妊だった。レアは妊娠し、息子を産んだ。レアは彼の名をルベン(“見よ、男の子よ”の意)と呼んだ。なぜなら彼女は『主が私の苦しみを見たから。今や、私の夫は私を愛するだろう。』と言ったからだ。レアはさらに妊娠し、息子を産み、そして言った。『主が私が嫌われていることを聞かれ、私にこれもまた与えられた。』 彼女は彼の名をシメオン(“主は私の苦労を耳にした”の意)と呼んだ。そしてレアはさらに妊娠し息子を産み、そして言った。『今、今度こそ、私の夫は私に結び付く(夫ヤコブは私の伴侶になる)。なぜなら私は彼のために3人の息子たちを産んだのだから。』 それゆえ彼はその名をレビ(“結び付いた”の意)と呼んだ。レアは更に妊娠し、息子を産み、そして言った。『今度は私は主をほめたたえる。』 それゆえ彼女は、その名をユダ(イェフダ:神聖4文字を含む名前で“賛美”の意。)と呼んだ。そしてレアは産むことから止まった。」です。
 
 
主は、レアがヤコブに嫌われていることを御覧になり、彼女の胎を開かれたので、彼女は身ごもりました。一方、ラケルは身ごもりませんでした。このことは神様がいかに公平・公正な愛の御方であるかを示しています。
 レアは生んだ子をルベン(見よ男児、という意味)と名付けました。レアが「主が私の苦しみを見たから。今や、私の夫は私を愛するだろう」と言ったことに由来しています。最初の子、長子を産んだことは、レアにとっては大きな救いだったことでしょう。長子を産んだことで、夫が自分を愛してくれるようになるだろうと期待し、「ル(見よ)」「ベン(息子)」という、実に率直な命名をしています。

 レアはまた妊娠し、息子を産みます。レアは「主が私が嫌われていることを聞かれ、私にこれもまた与えられた」と言って、シメオン(主は私の苦労を耳にした)と名付けました。このことは、長子ルベンを産んでも夫ヤコブはレアを愛さなかったことを示しています。それでもレアは、神様がそのことを知ってくださって第2子を与えてくださったことを喜んでいます。

 レアは続けて身ごもり、3人目の息子を産みました。今度こそ夫は私にとって伴侶となってくれる、私は3人の男児を産んだのだからと言い、レビ(結びついた)と名付けました。2人の子を産んでも、夫ヤコブはレアとの心の結びつきをもたなかったのです。レアは、第3子によって夫ヤコブとの心の結びつきがもたらされることを願って、名付けます。

 更にレアは妊娠し、4人目の男児を産みました。その時、彼女は「主をほめたたえる」と言ったので、その子の名はユダ(神聖4文字を含む名前で“賛美”の意)と名付けられました。

 レアは、愛する夫との心の結びつきを得られず、どれほど苦しかったことでしょう。それでもレアはヤコブを愛し続け、夫の心が自分と結びつけられることを願っています。
 そしてレアは、どんなに苦しくても神様に不平不満を一言も洩らしません。神様が自分の苦しみを知っていてくださり、子を与えてくださったことを感謝しています。4人目のユダを産んだときには、もはや神様に苦しみを訴えることもなく、神聖4文字を含むユダという命名によって最大限に神様を賛美しています。子の名には、自分のことなど一切含まれていません。ただ神様への賛美のみです。このユダから、ダビデが生まれ、イエス様が生まれることになるのです。
 
 ヤコブはラケルを愛しましたが、ラケルには子供が生まれず、レアには立て続けに4人の男の子が生まれました。それでもラケルはレアに嫉妬していませんし、レアとラケルの間に諍いはありませんでした。





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