安息日の礼拝  創世記の真相
■創2:1〜2:25■



                                   
 天地創造の第7の日について、聖書に次のように記されています。
創2:1-2:4
 「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
 これが天地創造の由来である。
 
 「天地万物は完成された。」は、ヘブライ語原典では「天と地と、それらすべての軍勢が完成された。」です。このことから、神様もしくは主のことを、後に「万軍の主」と言うようになります。「万軍の主」というと、まるで軍隊を率いている神様のようなイメージを持たれるかも知れませんが、そうではありません。
 「天と地と、それらすべての軍勢」、後に日本語で「万軍」と訳されるようになるヘブライ語は「ツェヴァーオート」ですが、意味は「戦いに出る」とか「戦いにおいて勝利をもたらす」という意味です。では、神様は何に対して戦われ、勝利をもたらされるのでしょうか。
 ここまで6日の創造において神様は、天と地と人とすべての万物を創造されましたが、神様が戦わなければならないような存在は創造されていませんし、神様が創造された6日に戦いはありません。ですから、ここでいう「軍勢」というのは軍隊のようなものではなく、軍勢にたとえられるような、規律正しく、調和に満ちている天地万物の状態を言っているのです。
 何によって規律と調和に満ちているかというと、神様の愛の大いなる権威によって、正しい規律で調和し、天と地とすべてのものに、それが一貫しているのです。もし神様が創造された天と地とすべての軍勢が戦いに出ることがあるとすれば、それは、神様の愛と大いなる権威によって調和している正しい規律を乱すものに対して、です。「万軍の主」と言う場合の万軍とは、本来は、神様が創造された天と地とすべてのもの、のことなのです。続いて

創2:1-3
「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」
とあります。ヘブライ語原典では次のとおりです。
 「神は、彼が創ったところの彼の作業を完成した。そして第7の日に、彼が創ったところの彼の作業のすべてから休んだ。神は第7の日を祝福し、それを聖別した。なぜならその日に、彼は神の創造の作業すべてを、休んだからである。」

 
 
神様は創造の御業を完成されて、第7の日に神様が創造された創造の御業すべてから離れて休まれました。そして神様は、創造の御業を完成されて休まれた第7の日を祝福し、聖別されたのです。
 このことは、「聖」とは何かということを教えてくれています。神様は、6日にわたる創造の作業を完成されて、その作業から離れられ、休まれたその日を聖別されました。創造の作業を完成されたから、作業を離れて休むことができたのであり、創造の作業を完成しなければ休息(安息)はされなかったのです。つまり、創造の作業を完成されたから「聖」はあるのです。


 
また6日で創造の作業を完成されたのには、意味があります。休息の日を含めた7日というのは、天と地とすべての軍勢にとって生命と生育と完成のリズムの基調となるもので、崩されてはならないものです。たとえば1週間の7日はそのまま日と月の運行から成っていますし、7×4の28日は人の生理現象のリズムでもあります。
 神様は気まぐれに6日で創造の御業を成されて7日目に休まれたのではないのです。それが天と地とすべての軍勢が育まれるための規律と調和のリズムなのです。だからこそ、人もこのリズムで生活するならば、神様と天と地とすべての軍勢と調和するのです。そして、このリズムで生活しないならば、人は自らの調和を壊しますし、天と地とすべての軍勢と調和しなくなりますし、更には天と地とすべての軍勢の規律と調和を乱してしまうことにもなるのです。
 人は、堕落してこのリズムで生活しなくなりましたが、後に神様は出エジプトの際にエジプトから導き出した民に、安息日を守り、聖別せよと命じられます。人だけでなく家畜も土地も休ませなさい、と神様は命じられます。それは神様が命じられたことだから守らなければならない、といった義務的なこと以前に、それが人にとって極めて重要なことであり、人のために神様が創造されたリズムだからなのです。家畜もこのリズムがもっとも適しているのであり、土地も、そして自然のあらゆるものも、そうなのです。
 イエス様も弟子たちも信徒たちも、安息日を守り聖別して生活しました。ところが、ローマ・カトリック教会が十戒から偶像崇拝の禁止と安息日の順守という項目を削ってしまいます。これにより、キリスト教は安息日を守らなくなってしまいました。神様が創造された生命のリズムを失うことは不幸です。以上が天地創造の由来です。 続いて創世記にはこう書かれています。


創2:5-7
「主なる神が地と天を創られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

 ここで注目すべきことがあります。「主なる神が地と天を創られたとき、」と、ここで初めて「主なる神」(ヘブライ語ではアドナイ・エロヒーム)という、神様の呼び方が出てくるのです。
 「主」とは、「主人」という意味なのですが、聖書に出て来る「主」には2種類の意味があるのです。一つは、神様を意味する場合です。そしてもう一つは、後にイエス様として地上に現れることになる光=言葉=命であられる方を意味する場合です。そのことを、もっとも端的に示しているのが、聖書の「詩編」に収められているダビデの賛歌です。

「わが主に賜った主の御言葉。
『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」

 ダビデが「わが主」と呼んでいるのが、後にイエス様として地上に現れることになる光=言葉=命であられる方(御子)のことです。そしてダビデが「主」と呼んでいるのが父なる神様のことです。
 聖書に登場する人物の多くは、神様である「主」と、御子である「主」の区別がついていないのですが、ダビデははっきりとそれを知っていたのです。
 さて、創世記では2章4節で初めて「主なる神」という言い方が登場します。ヘブライ語原典では明らかに、この2章4節の「主なる神(アドナイ・エロヒム)を、「神(エロヒム)」とは別の言い方で使い分けています。それは父なる神様と共に創造の作業をされてきた御子のことを意味しているように思われます。というのは、後に地上に来られたイエス様が、こう言われているからです。
 
 「人の子は安息日の主である。」(ルカ6:5)

 人の子は安息日の主である、というのは、預言者たちが幻で見てきた「人の子」が「安息日の主」だということです。「主」というのは神様のことである場合と御子である場合がありますが、預言者たちが幻で見てきた「人の子」は神様ではありません。つまり、ここでイエス様は、自分こそが「人の子」であり、「安息日の主」は「人の子」なのであり、安息日の主は自分であると言っているのです。
 イエス様は、父なる神様と共に天地創造の作業をされて、7日目に休まれた「安息日の主」なのです。
 キリスト教会では、聖書のこのイエス様の言葉を取り違えて、逆に安息日を無くしてしまいました。しかし、よく考えると、安息日を無くしてしまったら、「安息日の主」であると言われたイエス様はどうなるのでしょうか? 安息日を否定してしまうことは、安息日の主であるイエス様を否定してしまうことになってしまいます。イエス様は安息日を無くされたわけではありません。安息日に何を行うべきか、安息日をどう過ごすことが正しいかを教えられたのです。実際、イエス様は安息日を破っていません。安息日を正しく過ごされました。わたしたちは、イエス様のように安息日を過ごすべきなのです。

 さて、「主なる神が地と天を創られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。」とあります。6日目に神様は、人には「全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木」を与えられ、地の獣・空の鳥・地を這うものなどすべて命あるものには「あらゆる青草」を食べ物として与えられています。ですから、ここで言われている「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。」は、地上のどこにも植物が生えていなかったということではありません。
 地上にまだ生えていなかったのは、あらゆる青草でも、種を持つ草でも、種を持つ実をつける木でもなく、「野の木(ヘブライ語原典では野の低木)」「野の草」です。「野」というのは「野生」という意味です。そして、その理由は主なる神が地上に雨をお送りにならなかったから、だというのです。
 これは何を意味しているのでしょう。6日目に、神様は人に「全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木」を与えられましたが、それは神様が人のために特別に与えたものであって、野生のものではありませんでした。なぜならば、その段階では野生のものは、まだ人には早すぎるからです。
 これまで見てきましたように、神様が人に与えられた「全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木」は、単なる肉体を養うための植物のことではなく、霊の成長を促進するための食べ物、つまり霊的な知恵や知識を得るためのものでした。そして、その人の為の食べ物は、他の生き物の食べ物である青草とは区別して与えられたものでした。
 しかし、人は神様が創造されたものたちを支配しなくてはなりません。人がそれらを支配できるだけのものを証明しなくては、それらは人に従いませんし、人にそれだけの知恵や知識や愛がなくては、それらを支配することはできません。人がそうなるためには、神様の手を離れても、神様の意向に沿った、神の子にふさわしい愛と知恵と力を示す必要があります。そのために、その愛と知恵と力を自ら養う必要があります。人の親が子供を育てる際に、幼い頃までは親から与えるものだけで育ち、安全に成長していく必要がありますが、ある段階まで成長してくると外の世界に出て、いわゆる野生のあらゆる環境に触れて、自分で学び、取捨選択して、更なる成長をしていく必要があるのと同じです。
 そのために必要となるのが、「野の木」「野の草」なのです。「野の木」「野の草」は、野生の草木のことで、野生の草木から学ぶ知恵や知識のことを意味します。それはまた同時に、人が霊だけでなく肉体を養うためのものでもあるのです。人が堕落してエデンから追われる前は、人は天界(霊界)と地上界(物質界)を一つの同じ世界として生きていましたから、人は「野の木」「野の草」を食べて肉体を養うと同時に、「野の木」「野の草」からあらゆる知識や知恵を学ぶのです。
 これは農家の人には分かりやすい話かも知れません。「野の木」「野の草」からあらゆる知識や知恵を学ぶことは、農家の人にはごく自然なことです。しかし堕落前の人は、もっとあらゆる知恵や知識を「野の木」「野の草」から学んだのです。
 また、科学も、そもそもは自然とその現象から学んだ知識によって成立していったものです。天体の動きや、引力や様々な力の発見、様々な粒子の発見、数の発見、それらはすべて自然から発見した知識です。つまり「野の木」「野の草」から発見したものと言えます。人類が、もし堕落していなかったら、科学の発展も、とんでもなく物凄いものになっていたことでしょう。

 地上にそれまで「野の木」「野の草」が生えていなかったというのは、主なる神が地上に雨をお送りにならなかったから、だと創世記は記しています。この雨も、単に物質としての雨のことだけを意味しているのではなく、それは同時に、神様が最初に創造された光とは異なる面での「神様の恵みの水」=霊的な恵みの潤いを全地にもたらすことを意味しています。
 そして「主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。」に続いて、こう書かれています。「また土を耕す人もいなかった。」
 6日目に人が創られているのに、人がいなかった、ということは、やはり2章に書かれているのは6日目のことなのか・・・そうではありません。よく見ると、人がいなかったのではなく、「土を耕す人」がいなかったと書かれています。そうです。この段階までは人はまだ、土を耕していなかったのです。
 ヘブライ語原典では次のように書かれています。「地上界の大地には野の低木はまだなかった。また野の草もまだ芽生えてなかった。なぜなら主なる神が雨を地上に降らさなかったからだ。また土地を耕すためのアダムがいなかったからである。」

 この続きが、日本語訳の聖書では、おかしな記述になっています。

 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。

 神様が地上に雨を降らさなかったから「野の木」「野の草」が生えていなかったし、土を耕す人もいなかった、しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。となっているのです。神様はこの後、アダムを形づくり、命の息を吹き入れる訳ですが、「しかし」の意味が不明なのです。これは日本語訳がおかしいのです。
 ヘブライ語原典では「しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。」ではなく、「そして水蒸気が地から上がっていた。そして、土地の表面のすべてを潤していった。」です。水蒸気が地から上がっただけでは地は潤いません。むしろ乾いてしまいます。水蒸気が地から上がったら、どうなるでしょうか? 雲になり、雨が地を潤します。ヘブライ語原典では、そうつながっているのです。ですから、それによって地上には「野の木」「野の草」が生えることになるのです。
 続いて、主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。
 6日目に創造された人には、まだ神様から「命の息」は吹き入れられていませんでした。ただ、6日目に創造された人も土の塵から創られたのは同じですので、肉体的には同じ人です。違いは、主なる神が、ここで鼻の中に「命の息」を吹き込んだことです。これによって人は「生きる者」となりました。そしてアダムは、それまでの人とは違って、地を耕すという知恵を持つようになります。ただし、ここでの「地を耕す」という意味は、労働としてのそれではありません。楽に地を耕すだけで、人はより豊かに「野の木」「野の草」を得ることができるようになり、それらを野のものではない草や木とすることもできるようになり、子供に食べさせるのも、より容易になり、子育ても、より楽で豊かなものになります。

 ここで神様がアダムに吹き入れられた「命の息」は、「霊」のことを意味すると考えれることがあるのですが、単なる霊のことではありません。神様に命の息を吹き入れられる前の人にも、霊はありました。御使い(天使)は霊ですし、御使いの他にも天界に霊的な生き物は創造されました。しかし、それらには神様の「命の息」は吹き入れられていません。アダムに吹き入れられた「命の息」は、単なる霊ではなく「神の霊」のことなのです。「神の霊」を吹き入れられたことにより、アダムは「神の子」として生きる者となったのです。
 ですから、アダムの子孫たちは、本来は「神の子」として生きるのでなければ、生きているとは言えません。



創2:8-2:9
「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる樹を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」

 
ヘブライ語原典では次のようになります。
 「主なる神は東の方のエデンに園を植えた。そこに彼が形づくった人を置いた。そして主なる神は、土から、見るのに好ましく、食べるのに善い、すべての木を、芽生えさせた。そして、その中央に、命の木と、善と悪を知るための木を、芽生えさせた」です。

 主なる神は、天界と地上界が一つに調和している世界の、東の方角にあるエデン(ヘブライ語で楽しみの地、よく潤された所の意)に園を植えられました。そこに、神が命の息を吹き入れられた人を置かれました。
 そして、主なる神は、土から、見るのに好ましく、食べるのに善い、すべての木を芽生えさせられたのですが、これらの木は人が食べて肉体を養い育てると同時に、人が身につけて成長していくべきあらゆる知識や知恵を身につけるために植えられたものです。
 留意すべきは、主なる神は、見るのに好ましく、食べるのに善い、全ての木とはベルに、中央に命の木と善悪の知識の木を芽生えさせられているのです。つまり、中央の「命の木」と「善悪の知識の木」は必ずしも、見るのに好ましく食べるのに善い木とはされていないのです。
 このことは何を意味しているでしょうか。
 まず、樹の配置についてですが、すべてのものは「軍勢」に例えられるように規律と調和によって神に統治されていました。ということは、東の方のエデンの園の木の配置も、意味があって配置されているということです。
 人が食べるための木は、見るのに好ましく、食べるのに善い、すべての木を芽生えさせられたのですが、「命の木」と「善悪の知識の木」は中央にありました。このことは、人が見るのに好ましく、食べるのに善い、すべての木から、すべての知識と知恵を身につけ、肉体的にも十分に成長してから、中央にある「命の木」と「善悪の知識の木」に辿り着くべきであること、すまり人が、あらゆるすべての知識と知恵を身につけ、肉体的にも十分に成長してから「命の木」と「善悪の知識の木」に辿り着くよう、主なる神はそれを中央に植えられたのです。
 神様は人の食べ物として、最初は動物が食べるものとはくべるされた「種を持つ草と種を持つ実をつける木」を与えられ、人に命の息を吹き入れられてから「野の木」「野の草」という低木を与えられ、次に見るのに好ましく、食べるのに善い、すべての木を芽生えさせ、そして最後に「命の木」と「善悪の知識の木」に辿り着くようにされたのです。


 
「命の木」について、エノク書に次のようにあります(エノクが見ているのは人が堕落した後の園であり、堕落前の園ではないことには注意が必要です)。

 「わたしはそこから地上の他の場所に行った。すると彼(御使い)は昼となく夜となく燃え続ける山並みをみせた。それを越えて更に進むと7つの壮大な山があり、それぞれみな違った姿をしていた。(中略)
 第7の山は中央にあってどれよりも高く、玉座のような形をしていた。そして芳香を放つ樹が玉座を取り巻いていた。それらの樹のうちの1本はかつてわたしが嗅いだこともない香りをもっており、周囲の樹々や、ほかの同様の樹とも違っていた。その香りはあらゆる香りにまさり、その葉も花も幹も永遠に枯れることがなく、その実は美しく、なつめやしに似ていた。
 わたしは言った。「なんという美しい樹、何というよい香りであろうか。その葉のきれいなこと、花のうるわしさ、なんと素晴らしいではないか」。
 するとわたしに同行していた聖天使ミカエル、天使たちの長が答えた。
 「エノクよ、なぜこの樹の香りについてわたしに聞くのか、どうして真理を学びたいと願うのか」。そこでわたしは言った。「わたしは何でも知りたいと思いますが、特にこの樹については知りたいのです」。彼は答えた。「お前の見た高い山だが、あの頂上の形は神の玉座のように見えるだろう。まさにその通りなのだ。そこに、大いなる聖者、栄光の主、永遠の王が、恵みをもって地上を訪れるときに座られるのだ。さてこの香りの高い樹について言えば、大審判の日までは、死ぬべき人間はだれもこの樹に手を触れてはならない。その審判の日に主はすべてのものに報い、一切のものについて永遠の決算をされるのだ。そのとき、この樹は義人と聖者に与えられる。その果実は選民の食べ物となり、樹は聖所、すなわち永遠の王なる主の宮に移し植えられる。
 そのときかれらは大いに歓び
 聖なる場所に入る。
 その芳香は彼らの骨にしみとおり
 かれらは地上にいきながらえ
 その先祖たちのような長寿を得る。
 彼らの生きる日のかぎり、悲しみも災いも、
 責苦も悩みも彼らに手を触れない。」(24章〜25章

 
 
このことから、「命の木」は、人が目指すべき完成された正しいあるべき姿になったときに与えられる食べ物であったことが分かります。それはまるで、主なる神が創造の6日の作業を終えられて安息されたときの祝福のようであり、聖別されたもののようです。

 次に「善悪の知識の木」について見てみましょう。エノク書に次のようにあります。
 「わたしが北の方に目をやるとそこには7つの山があり、その山もナルド(甘松)や芳香樹、肉桂、胡椒などがたくさんあった。わたしはそこからこれらの山々の頂上をみな越えて地の東の方に行き、エリトリア海の上を遥かに過ぎて、天使ゾティエルが守護している門を過ぎた。そして『義の楽園』に着いた。多くの樹の向こうに巨大な樹がたくさん茂っており、素晴らしい香りを放ち美しく輝いていたが、そこには知恵の樹(善悪の知識の木)もあり、その木の果を彼らは食べて素晴らしい知恵を得ているのであった。
 その木は「もみの木」のように高く、その葉はカロブに似て、その果実はぶどうの房のように極めて美しく、樹の香りは遠くまで届いた。
 わたしは言った。「何と美しい樹であろう。何と心を引く眺めであろう」。するとわたしと同行していた聖天使ラファエルが答えて言った。「これこそ知恵の樹、お前の先に生きていた老父と老母が食べたのはこの樹の果実なのだ。そのとき彼らは知恵を得、彼らの目が開けて、自分たちが裸なのを知り、そして彼らは楽園から追放されたのだ。」(32章1-3

 これによって「善悪の知識の木」は、素晴らしい知識を得るためのものであることが分かります。
 ただし、どんなに素晴らしい知識であっても、未熟な人や、危険な考えをもった人が、それを得てしまったら、どうなるでしょうか。神様が危惧していたのは、まさにそのことだったのです。
 もちろん、何から何まで手取り足とり教られたとおりに行動するだけなら、人はロボットと同じであり、神の子としての資格はありません。神の子としてすべてのあらゆるものを支配するためには、人は自由意思によって正しく成長し、正しく完成し、神の子たる存在に完成する必要がありました。人の成長と完成のため、必要不可欠の危惧でもあったのです。人が、未熟なままに、よこしまな動機で、善悪の知識の木の実を食べることは、あってはならないことでした。
 
 人が霊・肉ともに十分に成長し、完成してから、「命の木」「善悪の知識の木」から取って食べることは、害のないことであり、むしろ祝福となるもので、聖なることでした。しかし、未熟な人が、よこしまな動機で、その実を食べてしまったら、未熟でよこしまな人が、扱いきれない知識で全地を支配するようになり、それは動物や植物を苦しめ、人をも苦しめることになり、全地には苦が満ちることになってしまいます。



創2:10-2:11
「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであって。」


 ヘブライ語原典には次のようにあります。
 「エデンから園を潤すために川が出ていた。そして、そこから分かれて4つの源になる。一つの名はピション、それは金があるハビラ全域を巡っているもの。その地の金は善い。そこにはプドラフとショハムの石もあった。また第2の川の名はギホン。それはクシュの全地を巡っているもの。また第3の川の名はチグリス。それはアシュルの東の方に行っているもの。そして第4の川はユーフラテス」です。

 ここに記される川も、単に物質としての川を指しているのではありません。天界と地上界が一致している世界の川です。この川は、エデンの園を潤し、そこから4つの源となって流れ出る「神様の恵みの水」=霊的な恵みの潤いをもたらす川でもあります。ここに出て来る「金」や「プドラフとショハムの石」も、単なる物質としてのそれではありません。
 金は、聖書では「精錬されたもの」を意味し、「プドラフとショハムの石」もただの石ではない宝のような石を意味します。それは人のことも意味しています。つまり、ピション川とハビラ全域は、金のように精錬される人や、宝石のような人がいる地方であることを暗示しています。
 ギホン川が流れるクシュ全域も、神様の恵みが流れる地域を暗示しています。チグリス、ユーフラテスも同様です。ただし、金や宝石が出て来るのはピション〜が流れるハビラ全域です。
 ただし、堕落語の世界ではノアの時代に大洪水が起こり、その地の地形も川の位置も大きく変わりますので、これら4つの川がそのまま現在の地形や川の位置にあてはまるわけではありません。



創2:15-2:17
「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。
『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」

 ヘブライ語原典では次のとおりです。
 「主なる神は人を取った。そして彼を、それを耕すため、またそれを守るために、エデンの園の中に置いた。そして主なる神は人に命じて言った。『園の木のすべてから、お前は大いに食べて良い。しかし、善と悪の知識の木からは、お前は食べるな。なぜなら、お前がそれから食べる日に、お前は必ず死ぬ』」です。
 先に主なる神は、人をエデンの園に置かれましたが、ここでは主なる神は改めて人をとられ、そしてエデンの園の「中」に置かれました。その間に4つの川についての記載があります。ここにある程度の時間の経緯があり、それはアダムがある程度、成長して、エデンの園を耕し、守る力がついてきたので、園の中に置かれるべきときがきたことを示しています。
 「耕すため」について、ヘブライ語で「耕す」を意味する「ハラーシュ」ではなく「アバード」が用いられています。「アバート」は「仕える」という意味の言葉です。これは、耕す意味と同時に、園を守ることを強調する言葉になっています。それほど、そのを守ることは重要だったわけです。

 エデンの園は、人が完成するまでの期間をそこで過ごすために神様が設けられた場所でした。人は完成すると、そこから出たり入ったり自由に活動し、その子孫たちが世界中に、宇宙にまでも拡がる可能性が約束されていたといえましょう。完成された人は、子を産み育てる親となり、子供たちを正しく教育して導き、そのことによって寄り神に近づく存在となります。そして、そうした親に育てられた子供たちが同じようにして、それぞれの個性を善なるものに完成して、そのような人類が地に満ちれば、幸福が全地にみなぎり、動物も植物もあらゆるすべてのものが正しく愛によって統治され、調和されて産み増える世界が約束されていました。

 「耕す」には、加工するという意味もあります。人が土を耕すことは、自然に手に入れること、手を加えることを意味するからです。神様が想像された天地万物を、人が善加工することによって、創造主の子として神様の善を更に広げていくことができます。神様は、神の子たる人が、神様が用意されたすべてのものを材料にして、自らの善なる知恵で善加工するよう創造されたのです。神様は木や愛氏を用意されています。それらを用いて人が自らの家屋を作ったり、隣人や生きとし生けるものを互いに善く養い合うために活用するよう、用意されたのです。

 ここで、神様がエデンの園を「守らせる」ために人を園の中に置かれたことにも触れておきましょう。神様はエデンの園を人に守らせるために、人を園中に置かれました。
 ということは、もしエデンの園や「命の木」「善悪の知識の木」を狙う存在があったとしても、人はそれを守る必要があったということです。そして、園を守るということは、もしそれを狙う者があったとしても、人がそれを支配するべきであることも示しています。また人にはそのを守ることができるからこそ、神様は人にそのを守らせたのです。
 人がそれを守ることができたら、人はあらゆるすべてのものを支配することができるということです。

 なお日本語で、主なる神が人に「命じた」とありますが、ヘブライ語原典では、この言葉はより正確には『忠告して言われた』です。ここでも神と人との親子関係の感情を感じることができます。

 さて、神様はここで「命の木」から取って食べるなとは言われたいません。食べてはならないのは「善悪の知識の木」から、だけです。(ただし善悪の知識の木から取って食べた人が、命の木からも取って食べることがないようにされました)。
 神様は「善悪の知識の木」からは食べるな、お前が食べる日に、お前は必ず死ぬ、と言われました。この「死」の意味については後に詳しく述べますが、注目すべきは「食べる日に必ず死ぬ」と言われていることです。人は、エデンの園を追い出されたために死ぬ存在になったのではなく、食べた日に死んだのです。このことから、「死」の意味がよりよく分かるのです。




創2:18-19
「主なる神は言われた。
『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」


 ヘブライ語原典では次のとおりです。「主なる神は言った。『人が彼一人でいることは善くない。わたしは彼のために彼女を造ろう、彼と向き合う者としての助け手として。』」

 この部分を、ユダヤ教や中世のキリスト教、そしてイスラム教は、はじめに人に神様が息吹を吹き込まれ、人のあばら骨から女が創られたと解釈し、男性が女性より優れている存在であるとか、女性は男性の補助的存在であるなどと「男尊女卑的」な考え方を持っていました。
 しかし、それは明らかな間違いです。ここで神様が「助け手」と言われたヘブライ語の「エゼル」に、その本来の意味を正確に知ることができます。エゼルは補助的な役割ではなく、まったく対等な存在を意味する言葉です。
そもそも「助け手」という言葉も、聖書では神様ご自身が人の助け手だと言っておられますし、神様ご自身がイスラエルの助け手だとも言っておられます。つまり「助け手」というのは、対等以上である意味さえ含んでいる言葉なのです。
 また、「彼と向き合う者」という言葉からも、男と女は対等の存在であることがわかります。
 それと、実はこれらのこと以上に、あまり知られていない重要なことが見逃されているのです。
 ヘブライ語で「彼」というのは、必ずしも「男」を意味しません。アダムというのも「塵」のことで、「男」という意味ではありませんし、人の名前でもありません。創世記には、あくまでも「人」と書かれています。
 1章の6日目に創造された人を思い出してください。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女とに創造された」(創1:27)

 もしアダムが男だったら、2章でも「人」と書かず、「男」と書いたはずです。でも、主なる神が命の息を吹き入れたのは「男」ではなく「人」だと書かれているのです。
 つまり、この段階では、固定概念や先入観にとらわれず。書かれているとおり「男」ではなく「人」と読むべきなのです。この事実をきちんと見ておくと、後に書かれていることの意味がより見えてくるのです。

 

創2:19-2:20
「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」


 ヘブライ語原典では「主なる神は土からすべての野の生き物とすべての空の鳥を造った。そして人(の前)に連れてきた。彼がそれを何と呼ぶかを見るために。人がそれを呼ぶと生きる魂の名となった。」

 主なる神様は、人が独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者を造ろう、と言われてから、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれをどう呼ぶか見ておられました。そして、人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となりました。
 これは例えば、幼子がようやく言葉をしゃべるようになった頃に、犬のことを「ワンワン」と呼んだり、猫のことを「ニャーニャー」と呼んだり、車のおもちゃを「ブーブー」と呼ぶのと似ています。
 幼子は、犬、猫、車とは呼びません。それらは教えられて初めて知る名で、それを教えられていないと幼子は、声すなわち言葉で対象を認識するのです。これは驚きです。誰からも教えられていないのに、その対象物の本質を、その声(言葉)で認識するのです。生き物の本質は、その言葉にあることを生まれながらに知っているかのようです。
 アダム(人)が呼ぶと、その生き物の名となったのは、その呼び名が対象物の本質を、そのまま表していたからです。人がものごとの本質を認識する力を持っていたことは、後に女のことを「男(イシュ)から取られたものだから女(イシャー)と呼ぼう。」と名付けていることから分かります。
 
 神様が土で獣や鳥を形づくられたという表現は、単なる「造形」のことを表しているのではありません。聖書全体を読んでから創世記を読むと、それは聖書的な、天界的な、神様独特の表現であることが分かります。
 神様は、人や国のことを、たとえば「陶器」などのように土で形成されている譬えで語られます。不信仰の故に国が壊れると、陶工が陶器を壊すことに譬えたりするのです。そして、その土で創られた陶器は、塵で創られたアダムのことと直結していて、聖書の中の一つの箇所が、聖書の初めから終わりまでの意味を含んでいたりするのです。
 神様が土で獣や鳥を形づくられたというのは、ここで出て来る獣や鳥は死んだら土に帰る肉にすぎない獣や鳥のことを言っているのです。それは天界の獣や鳥と違って霊的な存在ではないという意味です。
 神様はいきなり女を与えるのではなく、人が自分で野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥に名をつけていく過程で、それらが「つがい」であることを知り、人が自分にも「つがい」を必要であることを自分で認識するのを、お待ちになったからです。そしてまた、人が動物の中に人と対等なものはいないということを悟るのを待たれたのです。更にまた、それを人が自分で認識していくことこそが、人と動物との違いであり、神の子たる証しでもあります。
 


創2:21-2:23
「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠りこむと、あばら骨の一部を抜き取り、その後を肉でふさがれた。
 そして、人から抜き取ったアバラ骨で女を作り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
 人は言った。
 『ついに、これこそ
 わたしの骨の骨
 わたしの肉の肉
 これこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』」

 
ヘブライ語原典では次のようにあります。
「そして主なる神は、深い眠りを人の上に落とした。すると彼は眠った。それで彼は彼の側面(もしくは脇腹)の一部を取った。そしてその代わりに肉を閉じた。
 そして主なる神は、人から取った側面(もしくは脇腹)を女に組み立てた。そして彼女を人のところに連れてきた。
 すると人は言った。『今度こそ、これは私の骨からの骨、また私の肉からの肉。これは女(イシャー)と呼ばれる。なぜなら、男(イシュ)から取られたからだ。」です。

 「深い眠り」と訳されているヘブライ語の「タルデマー」は旧約聖書に7ケ所あります。それは単なる肉体の睡眠を意味するのではなく、神様が御業を成される状態にするという意味です。
 その次の箇所は、注意深く読むことが必要です。日本語で「あばら骨」と訳されているヘブライ語の原語は「側面」もしくは「脇腹」です。これを「あばら骨」と訳するのは極端な訳だと言わざるを得ません。
 人は、自分から取られた側面(もしくは脇腹)から女を組み立てられて、それを人のところに連れてきました。そのとき初めて「男」という言葉が出て来るのです。
 つまり、このとき初めて、神様から命の息を吹き込まれた人が「男」と「女」になったのです。
 「組み立てる」という表現も、人形を組み立てるように造ったという意味ではありません。詩編139章でダビデは言っています。

 「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。」

 これはダビデが、自分自身が神様によって再創造(生まれ変わり)されていることを自覚して、神の御業を賛美した詩です。ダビデは胎児であった時から神様が自分のすべてを御覧になっていたことは知っていましたが、それだけでなく、自分が神様の手によって再創造されていることを自覚したのです。主なる神の手による再創造(生まれ変わり)を体験した人は、ダビデが言っていること、アダムの身に起こったことを、同じように実体験するのです。
 これは、人がまず、神様から命の息を吹き込まれ、次に、それぞれに命の息を持つ男と女とに成ったということです。そうでないとアダムである男には神様の息が吹き込まれているのに、女には吹き込まれていないことになってしまいます。そうではなくて、人に神様の息が吹き込まれ、一体であった人が「男」と「女」とに、神様の手によって造られたということなのです。だから男にも女にも等しく神の息は吹き込まれているのです。
 
 さて、「あばら骨」ではなく「脇腹」ならば、興味深い資料があります。近代医学では、脇腹(あばら骨とその周辺の肉)の細胞には、人体を構成するのに必要な元素のすべてが備わっていることが判明しているそうです。死んだ骨からは女が再生されることはありませんが、生きている脇腹なら、理論的には再創造はあり得るのだそうです。人が「女を見て「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っていることからも、あばら骨だけではおかしく、骨と肉でなければ辻褄が合いません。
 生きている人の骨は、骨そのものが生きていて、常に古い細胞は棄てられ新しい細胞が造られ、常に生まれ変わっているそうです。専門的には、破骨細胞が壊し、骨芽細胞が補修するという、正反対に見える2つの反応が、人が生きている間、協力し合って同時に進行していて、あたかも夫婦が助けあっている関係のようだといいます。
 また、あばら骨と肉の一部を抜き取られても、理論的にはアダムの方も再生が可能だというのです。
 この観点からすると、創世記に書かれている、死んだ骨からではなく生きた骨から女が造られ、その後に人の脇腹も回復したという記述は、医学的には理にかなっており、しかも、性染色体を除いて女(XX遺伝子)は男(XY遺伝子)と全く同一の遺伝子を持ち、まさに「一体」と言える根拠が、創世記のこの部分には記載されているというのです。
 
 あるいはまた、「脇腹」ではなく「側面」と訳すならば、女は人のあばら骨から造られたのではなく、人の側面から取られたという意味になり、もともと一つだった「人」の側面を取って造られたのが「女」で、残った側面が「男」で、だから二人は一体となる、という意味が、より鮮明に理解できます。聖書のマラキ書にも、こう書かれています。

「主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。」(マラキ2・15)

 主なる神は、人を霊と肉を持つ一つのものとして造られ、それに命の息を吹き込まれ、それを男と女にされ、だから男と女は霊的にも肉的にも一体になるべきものだ、それが本来の人のあるべき姿だということです。
 神様が一つのものとして造られた「人」が、自分の側面を取られて、それが「女」となり、残りの側面は「男」となり、それが一体となって「人」となり、神の似姿となる。人は女を見て「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言いますが、ヘブライ語の骨は「本質、自身」を表し、肉の肉とはヘブライ語の「一つの肉」を表します。この言葉から、男と女は本質と使命を共有する、もともとは一つであったものの分身として造られた存在であることが分かります。
 なお、この女の名はエバではありません。アダムが女に名付けた名は「イシュー」です。エバという名は、女が人ではないものと交わったために、人だけの母とならず、人以外のすべてのものの母となってしまったために、後にアダムが付けた名前です。それは女の本質が変わってしまったことを表しています。



創2:24--2:25
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」

 ヘブライ語原典では次のとおりです。「この故に男は彼の父と母を離れて、彼の妻とくっつき、一つの肉になる。そして、アダムと女の彼ら2人は裸であったが、彼らは互いに恥ずかしがらなかった」です。

 「男が父母を離れて女と結ばれ」というのは、「父母を捨てて」という意味ではありません。男は、1人前になって父母から独立し、女と結ばれて、自分が新たな父母になる、のです。
 このことは、子がいつまでも父母に依存したり、父母が子を離そうとせず独立させないことは、創造の本質に適っていないことを示しています。
 彼らは裸でしたが、互いに恥ずかしがりはしませんでした。それは、彼らが裸であることを恥ずかしがる要因が、何もなかったことを意味すると共に、2人の間に、また神様と男と女の間に、何ら隠しだてするような要因がなかったことを示してもいます。
 さらに、彼らが「裸」だったことは、幼子がそうであるように、自分で物事の善悪を判断しようとしない、素直な善いものであったことも意味しています。ただし、彼らはずっと幼子のままでいるべきだった訳ではありません。
 人は、幼子のままでは、あらゆるすべてのものを支配することはできません。天使も含めたあらゆるすべてのものを人が支配するには、それに相応しい知識や知恵を得て成長し、完成して、神様のように完全なものになる必要があります。知識や知恵は、自分だけの利得や名声を求めるような用い方であっては、これもまたあらゆるすべてのものを支配することはできませんし、あらゆるすべてのものの安息を実現することもできません。知識や知恵は、あらゆるすべてのものを生かし、幸せにする用い方が出来てはじめて、あらゆるすべてのものを支配できます。
 人が正しい知識、知恵を身につけて、それを行うようになれば、主なる神から与えられるのが「白い着物(晴れ着)」です。そのことは聖書のあちことに記されています。
 人が裸を覆うべきものは、正しく知識と知恵を身につけて、善く行う者に主から与えられる「白い着物(晴れ着)」であって、犯した罪を隠すためのイチジクの葉でもなければ、獣の皮でもないのです、本来は。
 後に彼らは、未熟なままに自己中心的な欲望で神様に背き、蛇の誤謬(ごびゅう)に従って「善悪の知識の木」から取って食べ、未熟なまま自分でも扱いきれない目が開けてしまい(実際はその瞬間に死んだ、のですが)、自分たちが裸であることを知り(自分たち、とあるように2人一緒に裸であることを知ったことにも注目)、イチジクの葉で下腹部を覆いますが、それは多い隠さなければならない恥ずかしいことを、彼ら2人が共に下腹部で実行したことを示しています。


 

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