30:1-3 ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えて下さらなければ、わたしは死にます」と言った。ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神ご自身なのだ。」 ラケルは、「わたしの召使いのピルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」と言った。 ヘブライ語原典では「ラケルは彼女がヤコブに生まなかったことを見た。そしてラケルは彼女の姉をねたんだ。そしてヤコブに言った。『私に息子たちを下さい。もし、息子たちを下さらないなら私は死ぬ』。そしてヤコブの怒りがラケルに対して燃え、彼は言った。『神があなたから胎の実を妨げたのに、私は神に代われるのか。』。そして彼女は言った。『ご覧なさい。私の下女ビルハを。彼女の所に入りなさい。すると彼女は私の膝の上に産む。そして私は彼女によって私もまた子を得ます』。」です。 レアがヤコブの息子4人を次々に産んだのに対し、ラケルは自分が子を産まなかったことで、姉をねたむようになりました。それはラケルが、それまでは姉をねたむことがなかったということでもあります。 レアが子供たちに付けた名前をみると、レアが夫に愛されない中、どれほど神様を愛し続け、また神様がレアを愛したかが分かります。レアは夫から愛されなくても神様を恨むこともなく、神様を愛し、そして子を与えてくださった神様に感謝しています。 一方、妹のラケルは夫ヤコブに愛されていましたが、自分が子供を身籠らないのを見て、姉をねたむようになり、そしてヤコブに言ったのです。「私に息子たちを下さい。もし息子たちを下さらないなら私は死ぬ」と。ラケルは、子供ができないのを夫ヤコブのせいにします。それに対してヤコブは火のように怒り、「神があなたから胎の実を妨げたのに、私は神に代われるのか」と言います。 「ヤコブの怒りがラケルに対して燃え」というのは、単なる怒りの様子ではなく、決して見過ごすことができない激しい怒りの様子です。ヤコブは、ラケルが子供ができないのをヤコブに八つ当たりしたことを怒ったというよりも、神様がラケルに子供を授けないのにラケルが自分のことを棚に上げて責任転嫁していることを怒ったのです。子供ができない理由がヤコブにないことは明らかで、ヤコブはレアによって4人もの子を授かっているのです。問題はヤコブにあるのではありません。子供を与えるのは神様であって、自分は神様ではない、神様がレアに子を授けラケルに授けないのには理由がある、それをわきまえないラケルを、ヤコブは火のように怒ったのです。 神様は、レアが嫌われているのを見て、レアの胎を開いたのです。ラケルは夫ヤコブに愛されていました。ですから、それは極めて公平なことです。ラケルは、そのことを自分に向けて、よく考えるべきでした。しかしラケルは、そうはしません。ラケルは夫ヤコブに、自分の侍女ビルハの所に入って子供を生ませることをヤコブに強いるのです。 このことは、かつてサラがエジプト人の女奴隷ハガルにアブラハムの子を産ませたことを思い起こさせますが、ビルハは侍女ですので奴隷ではありません。ただ、この時のラケルの考え方は、神様から子を授かろうとするのではなく、自分で人為的に力づくでどうにかしようとする考え方です。レアが子供を授かっているのに、自分に子供が授からないのには、理由があると考えるべきなのです。 30:4-13 ラケルはヤコブに召使いビルハを側女として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。やがて、ビルハは身ごもってヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。ラケルの召し使いビルハはまた身ごもって、ヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と言って、その名をナフタリと名付けた。 レアも自分に子供ができなくなったのを知ると、自分の召使いジルパをヤコブの側女として与えたので、レアの召使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸運な(ガド)と言って、その子をガドと名付けた。レアの召使いジルパはヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」と言って、その子をアシェルと名付けた。 ヘブライ語原典では「ラケルはヤコブに、彼女の待女ビルハを妻として与えたので、ヤコブは彼女の所に入った。そしてビルハは妊娠し、ヤコブに息子を産んだ。ラケルは『神は私を裁かれ(判決を下す、弁護する=ヘブライ語ディン)、私の声を聞かれて、私に息子を与えられた』と言った。彼女は彼の名をダン(裁く者、の意)と呼んだ。そして、さらに侍女ビルハは妊娠し、ラケルの2番目の息子をヤコブに産んだ。ラケルは言った。『神の編み糸で私は姉を絡ませて組打ちした、姉と同じように私は出来た』。それでラケルは、彼の名をナフタリ(糸をよる、巻きつける、争う、組打ちする、の意)と呼んだ。 そしてレアは、産むことから自分が止まったことを見た。そして侍女ジルバを取って、彼女を妻としてヤコブに与えた。するとレアの侍女ジルパは、ヤコブに息子を産んだ。そしてレアは言った。『幸運が来た』と。そして彼の名をガド(幸運の意)と呼んだ。そしてレアの侍女ジルバは、ヤコブに2番目の息子を産んだ。そしてレアは言った。『私の幸運で若い女たちが私を認めた』。そして彼女は、彼の名をアシェル(幸せなこと)と呼んだ。」です。 ラケルは夫ヤコブに、侍女ビルハを妻として与えたので、ヤコブはビルハの所に入りました。そしてビルハは、ヤコブの息子を産みます。ラケルは『神は私を裁かれ、私の声を聞かれて、私に息子を与えられた』と言って、息子の名をダン(裁く者の意)と呼びました。しかし、ラケルが侍女ビルハに子供を産ませたことは神様がさせたことではなく、ラケルが勝手にしたことです。それをラケルは自分で勝手に、神様がそうされたと言ったのです。ラケルは、このようなことをするのではなく、自分の心にある姉への妬みを征服し、神様に願うべきでした。 さらに侍女ビルハは、ヤコブとの間に2番目の息子を産みます。ラケルは『神の編み糸で私は姉を絡ませて組打ちした、姉と同じように私は出来た』と言って、ナフタリと呼びます。ラケルは姉に対する対抗心を、そのまま子供の名前にしましたが、もちろん神様は姉を絡ませる編み糸など用意するはずがありません。ラケルが勝手にそう言っているのです。 一方、「レアは産むことから自分が止まったことを見た」とあります。これは次々に子供を授かっていたのに子供が授からなくなったということで、閉経の年齢に入ったものと思われます。そうと知ったレアは、侍女ジルバを妻としてヤコブに与えました。 レアの場合は、ラケルが侍女に子供を産ませたときのような動機は記されていません。レアは、侍女ジルバが産んだ男の子に「幸運が来た」と言って、名をガドと呼びます。さらにレアの侍女ジルバは、2番目の息子を産みます。レアは「私の幸運で若い女たちが私を認めた」と言い、名をアシェルと呼びました。 レアは、侍女ジルバが産んだ2人の子供に、「幸運」「幸せなこと」と名付けています。そこに神様のことが出てきていません。レアは、夫に愛されないという、人間的な尺度では「不幸」な状態の中で、神様に愛され、子供を次々に授かりました。そして、そのことを神様に感謝し、神様を讃えました。レアが得た神様との強い結びつきは、人間の幸・不幸の尺度を超えた、得難い、得たくても得たくても得られるものではない魂の歓びだったです。 そのレアが、神様によって自分が産んだ4人の子に付けた名と比べると、侍女ジルバが産んだ2人の子供に付けられた「幸福」「幸せなこと」という名は、人間的な尺度の中では最高の名ではあるけれども、神様によって授かった子供たちとは一線を画している命名です。 実際、ヤコブの12人の息子たちの中で、レアとラケルが産んだ息子とその子孫たちの行く末と、侍女たちが産んだ息子とその子孫たちの行く末とでは、違っていくのです。もちろん、侍女たちの息子もヤコブの血を引いているのですが、レアやラケルの血は引いておらず、神様の意向によって産まれたか否かという点でも、違いを生じるのです。 そして、このことはこの後、聖書を読み解いていく上でも、人類歴史を読み解いていく上でも、重要なカギとなります。 30:14-20 小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」と言うと、レアは言った。「あなたは、わたしの夫を取っただけでは気が済まず、わたしの息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。」「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」とラケルは答えた。 夕方になり、ヤコブが野原から帰ってくると、レアは出迎えて言った。「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」 その夜、ヤコブはレアと寝た。神がレアの願いを聞き入れられたので、レアは身ごもってヤコブとの間に五人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「わたしが召使いを夫に与えたので、神はその報酬(サカル)をくださった」と言って、その子をイサカルと名付けた。 レアはまた身ごもって、ヤコブとの間に六人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「神がすばらしい贈り物をわたしにくださった。今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれる(ザバル)でしょう。夫のために六人も男の子を産んだのだから」と言って、その子をゼブルンと名付けた。 ヘブライ語原典では「小麦の収穫の日々に、ルベンが行った。そして彼は野で【恋なすび】を見つけた。そして彼の母レアの所に、それらを持って来た。そしてラケルが、レアに言った。『あなたの息子の恋なすびの中から、どうぞ私に与えてください』。するとレアは言った。『あなたが私の夫を取ることは、そして私の息子の恋なすびを取ることが、小さいことか』。するとラケルは言った。『それでは今夜、あなたの息子の恋なすびの代わりに、今夜、彼があなたと共に寝るように』。そして夕方に、ヤコブが野から来た。そしてレアが彼に向かって出て、言った。『私の所に来てください。なぜなら、私はがあなたを私の息子の恋なすびで確かに雇ったからです』。それで彼はその夜、彼女と共に寝た。神はレアに聞いた。それで彼女は妊娠し、ヤコブに5番目の息子を産んだ。レアは言った。『私が私の侍女を私の夫に与えたので、私の報酬を神が与えられた』そして彼女は、彼の名をイサカルと呼んだ。レアはさらに妊娠し、6番目の息子をヤコブに産んだ。レアは言った。『神が私に授けた良い授かりもの(ゼベドゥ)です。今度は、私の夫は私と住む(ザバル)でしょう。なぜなら私が彼に6人の息子たちを産んだからです』。そして彼女は、彼の名をゼブルンと呼んだ。」です。 小麦の収穫の時期、レアの長男ルベンが野で恋なすびを見つけ、それを母レアのもとに持って来ました。 「恋なすび」については様々な説があり、一説には地中海地域から中国西部にかけて自生するナス科の植物マンドレイクとも言われています。マンドレイクは、根にアルカロイド(多くの有毒物質を含み、しばしば薬理作用を示し、医薬や娯楽のための麻薬成分:催淫作用)が認められ、薬用として用いられていたそうです。聖書の雅歌7章14節では、恋なすびは女性の妊娠を促進するためのものとしてではなく、男のために使われる媚薬もしくは精力剤として登場します。 この時代、現代でいうところのフィトテラピー(植物効果)やアロマテラピー(芳香効果)は生活の中で活用されていましたから、恋なすび=マンドレイク説はうなずけます。他に、恋なすびは男性器の隠語であるとの説もあります。 ただ、いずれにしても、この部分は読めば読むほど不可思議なのです。 ラケルはレアに「あなたの息子の恋なすびの中から、どうぞ私に与えてください」と言います。しかし、レアは「あなたが私の夫を取ることは、そして私の息子の恋なすびを取ることが、小さいことか」と言います。レアは、ヤコブと同等のものとして恋なすびのことを語っています。恋なすびがマンドレイクのことを意味するならば、少し不自然な感じがします。その点については、恋なすびが貴重な価値を有していたとの説もあるのですが、それにしてもヤコブと同等に論じるのは解せません。 レアの言葉に対してラケルは「それでは今夜、あなたの息子の恋なすびの代わりに、彼があなたと共に寝るように」と申し出ます。ラケルは、姉レアにヤコブと一夜を過ごす権利と引き換えに、恋なすびを分けて欲しいと取引を申し出ています。しかし、レアはヤコブの妻ですし、ヤコブはこれまでもレアの所に入って息子を産ませているのですから、少し奇異に感じます。この頃にはヤコブがレアの所に入らず、ラケルとだけ共に暮らしていたとすれば分からなくもないのですが・・・。 聖書のこの部分を誤解した中世のキリスト教会では、恋なすびが女性の不妊治療に効果があるとの迷信が流行しました。しかし、実際にはそのような効果はなく、恋なすびにそうした効能がないことは科学的にも明らかになっています。雅歌の記載からも、聖書では恋なすびはそのような意味で記されているのではないことは明らかです。 夕方になってヤコブが野から来ると、レアが彼に向かって「私の所に来てください。なぜなら、私はがあなたを私の息子の恋なすびで確かに雇ったからです」と言います。夫に対して「雇った」と言うのもおかしな話ですが、それでヤコブはその夜、レアと寝ました。 そして「神はレアに聞いた。それで彼女は妊娠し、ヤコブに5番目の息子を産んだ」と書かれています。「神はレアに聞いた」といのは、レアが神様に願い、神様がそれを聞かれたということです。つまりレアは、子供が産めなくなっていたけれども、ルベンの恋なすびをラケルに与え、自分に子供を与えてくださいと神様に願い、神様がそれを聞き入れられて妊娠し、ヤコブに5番目の息子を産んだのです。 サラも閉経してからイサクを授かっていますから、神様がレアの願いを聞き入れられて、子供を産むことから止まったレアが妊娠しても不思議はありません。こうして5番目の子を授かったレアは、「私が私の侍女を私の夫に与えたので、私の報酬を神が与えられた」と言って、息子をイサカルと呼びます。 これも不思議です。恋なすびの報酬ではなく、侍女を夫に与えた報酬だと言うのです。恋なすびが関係ないのなら、恋なすびのことは何のために挿入されている話なのか、という疑問が湧きます。 レアはさらに妊娠し、6番目の息子をヤコブに産み、「神が私に授けた良い授かりものです。今度は、私の夫は私と住むでしょう。なぜなら私が彼に6人の息子たちを産んだからです」と言います。 ここでも不思議なのは、恋なすびの契約では一夜だけの契約だったはずなのに、レアはまたヤコブの子ゼブルンを産んでいるのです。そればかりか、レアはこの後にも女の子を産みます。恋なすびの一夜の契約は、何の意味があるのでしょう。 「恋なすび」のことは、文脈の流れの中でいかにも不自然なのです。これは、どういうことなのでしょうか。おそらく、恋なすびのことは、著者が何か別のことを読者に悟らせたくて挿入しているのではないでしょうか。そうでないと、恋なすびのことは何も意味がないことになります。実際、レアは、ラケルにルベンの恋なすびを分け与えた後、イサカルを身籠って産み、次いでゼブルンを身籠って産み、さらに女の子ディアを身籠って産んでいるのですが、恋なすびを分けてもらったラケルは身籠っていないのです。そうすると、恋なすびの話は、ラケルがそれによって身籠る話ではなく、逆にレアが身籠る話ということになります。あるいは、何か別の意味が隠されているということになります。 「何か別の意味」について、これから後に起こっていく聖書の記載から謎を解くことができない訳ではありませんが、それは聖書を読む人の目に委ねることにします。ここでは、あえて書きません。 30:21-24 その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名付けた。しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、ラケルは身ごもって男の子を産んだ。そのときラケルは「神がわたしの恥をすすいでくださった」と言った。彼女は、「主がわたしにもう一人男の子をくださいますように(ヨセフ)」と願っていたので、その子をヨセフと名付けた。 ヘブライ語原典では「その後、レアは娘を産み、彼女の名をディナと呼んだ。そして神はラケルを覚えた。そして神は彼女に聞いて、彼女の胎を開いた。彼女は妊娠し、息子を産んだ。そして『神は私の恥を集めた』と言った。彼女は『主が私に他の息子を加えるように(ヨセフ)』と言って、彼の名をヨセフと呼んだ。」です。 レアはその後、女の子を産み、その名をディナと名付けました。ヤコブは、恋なすびの一夜の契約と関係なく、何度もレアの所に入っていることになります。 試しに、恋なすびの話を抜きにして30章を読んでみると、ヤコブはラケルの所よりもレアに所に足しげく入っているように読めます。だとすると、ヤコブはレアを愛するようになっていたとも読めるのです。 ラケルの方はレアの息子ルベンから恋なすびを分けてもらったにもかかわらず、それでも子供を授からなかったのです。 レアが6人の息子を産み、7番目に女の子を産んでから、神様はラケルを覚えられるのです。ラケルは、何をしても身籠ることがないことに恥じ入り、人為的なやり方で侍女に子を産ませても真の歓びを得ることはできないことを悟り、ようやく魂の底から神様を求め、神様に願い、それが神様に聞き入れられたことが、「神は私の恥を集めた」という言葉に表われています。ラケルが数々の恥を感じたのは、おそらくかつてサラが女奴隷ハガルに夫の子を産ませたがゆえに感じたものと同様だと思われます。ラケルは神様がその恥をすすいでくださったと感じ、神様に感謝したのです。 人為的に侍女に子を産ませた時とは明らかに違い、ラケルは切実な言葉で主に感謝して歓んでいることが分かります。 しかし、ラケルがこのときまで身籠らなかったことは、ラケルの魂がそれにふさわしく満ちるのを神様が待っておられたのと同時に、そうして生まれたヨセフだからこそ、この後に12兄弟の中で重要な使命を担うことになるのです。 ラケルは子を産んだとき、主にもう1人の息子を加えて下さるよう願って、名をヨセフと名付けます。ラケルも年齢的にも、もう1人子供を産めるかどうか、ぎりぎりだったはずで、自分の命と引き換えに2人目の子を主に願ったものと思われます。ラケルのこの願いは聞き入れられ、2人目の子が生まれて間もなく、ラケルは亡くなります。 30:25-36 ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。「わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。わたしは今まで妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存知のはずです。」 「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ」とラバンは言い、更に続けて、「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず払うから」と言った。 ヤコブは言った。「わたしがどんなにあなたのために尽くし、家畜の世話をしてきたかよくご存じのはずです。わたしが来るまではわずかだった家畜が、今ではこんなに多くなっています。わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。しかし今のままでは、いつになったらわたしは自分の家を持つことができるでしょうか。」 「何をお前に支払えばよいのか」とラバンが尋ねると、ヤコブは答えた。「何もくださるには及びません。ただこういう条件なら、もう一度あなたの群れを飼い、世話をいたしましょう。今日、わたしはあなたの群れを全部見回って、その中から、ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中でくりみがかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊を取りだしておきますから、それをわたしの報酬にしてください。明日、あなたが来てわたしの報酬をよく調べれば、わたしの正しいことは証明されるでしょう。山羊の中にぶちとまだらでないものや、羊の中に黒みがかかっていないものがあったら、わたしが盗んだ者と見なして結構です。」ラバンは言った。「よろしい。お前の言うとおりにしよう。」 ところが、その日、ラバンは縞やまだらの雄山羊とぶちやまだらの雌山羊全部、つまり白いところが混じっているもの全部とそれに黒みがかった羊をみな取りだして自分の息子たちの手に渡し、ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離を置いた。 ヘブライ語原典では「ラケルがヨセフを産んだ時であった。ヤコブはラバンに言った。『私を遣わしてくください。私は私の国へ、私の所に行きたいのです。私が妻たちのためにあなたに仕えたのですから、私の妻たちと私の子供たちを与えてください』。するとラバンは彼に言った。『もし、私があなたの目に恵みを見つけたなら、どうぞ(居て欲しい)。主があなたのゆえに私を祝福したことを私は予知したから』。そしてラバンは言った。『私の上にあなたの報酬を明示するならば、私は与えよう』。するとヤコブは彼に言った。『あなたは、私があなたに仕えたことを知っている。そして私と共にあなたの群れがいたことも知っている。なぜなら私の前には、あなたにあったものはわずかだったのに、多くになって拡張した。主が私の足もとであなたを祝福したからです。しかし今、私の家のために私もまた働くのは、いつのことでしょう』。するとラバンは言った。『私はあなたに何を与えよう』。するとヤコブは言った。『あなたは私に何も与えないで構いません、もしあなたがこの事を私にするなら、私はあなたの羊の群れを守り飼うために戻りましょう。今日、私はあなたの群れの中を巡りましょう。すべての羊の中から、斑点とまだらの羊をすべて、小羊たちの中で褐色の羊すべて、雌やぎたちの中でまだらと斑点のものすべて、それが私の報酬になるでしょう。明日の日に、あなたが来る時、あなたの面前に私の報酬について、私の義しさが答えるでしょう。山羊たちの中に斑点とまだらがないものや、子羊たちの中に褐色でないものがあったら、それは私と共に盗まれたもの』。ラバンは言った。『はい。どうかあなたの言葉のようになるように。』そしてラバンはその日に、縞とまだらの雄山羊たち、すべての斑点とまだらの雌山羊たち、その中に白いところのすべてを、自分の息子たちの手に与え、ラバンはヤコブがラバンの羊の群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に3日かかる道(距離)を置いた。」です。 ラケルがヨセフを産んだとき、ヤコブは91歳になっていました。約束の14年(7年+7年)も過ぎ去っていましたので、ヤコブはラバンに妻たちと子供たちを連れて故郷に戻りたい、と申し出ました。するとラバンは、まだ居てほしい、主なる神があなたのゆえに私を祝福したことを私は占いで知ったから、と神様のことを持ち出して巧妙に言いくるめようとします。そしてラバンは、報酬を明示してくれれば与えよう、と言います。 ラバンは家族に隠れて自分の偶像(メソポタミアの神々の偶像テラフィム)を自分の神にしていて、それによって占いをしていました。偶像に取り憑いているのは神々でも何でもなく悪霊たちです。そのためラバンの心は悪霊の巣窟になり、ずる賢いサタンのような心になっていたのです。そしてラバンの心は、狡猾な言葉遣いに表われています。 ラバンの申し出に対してヤコブは、もう十分に仕えてきたし、財産も増やしたことをあなたは知っているはずです、それは私の主なる神様が私のゆえにあなたにそうされたからです、もう十分のはずです、これでは私が自分の家のために働くのは、いつのことになるか分かりません、と言います。偶像崇拝者であるラバンが財産を増やすことができたのは、自分のおかげでも偶像のおかげでもなく、ヤコブの神様がヤコブのためにしたことでした。 それでもラバンが、私はあなたに何を与えよう、と言うのでヤコブは、何もいりません、特定の山羊と羊だけを自分の報酬にしてくれたら、もう一度、あなたの群れを飼いましょうと言います。ラバンは、ヤコブが言った特定の山羊と羊を自分の息子たちに渡してしまい、ヤコブと自分との間に歩いて3日かかる距離を置いたのです。 しかし、ラバンがいかにずる賢く立ち廻ろうとも、ヤコブには神様が共にいました。 30:37-43 ヤコブは、ポプラとアーモンドとプラタナスの木の若枝を取って来て、皮をはぎ、枝に白い木肌の縞を作り、家畜の群れがやって来たときに群れの目につくように、皮をはいだ枝を家畜の水飲み場の水槽の中に入れた。そして、家畜の群れが水を飲みにやって来たとき、さかりがつくようにしたので、家畜の群れは、その枝の前で交尾して縞やぶちやまだらのものを産んだ。また、ヤコブは羊を二手に分けて、一方の群れをラバンの群れの中の縞のものと全体が黒みがかったものとに向かわせた。彼は、自分の群れだけにはそうしたが、ラバンの群れにはそうしなかった。また、丈夫な羊が交尾する時期になると、ヤコブは皮をはいだ枝をいつも水ぶねの中に入れて群れの前に置き、枝のそばで交尾させたが、弱い羊のときには枝を置かなかった。そこで、弱いのはラバンのものとなり、丈夫なのはヤコブのものとなった。こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにラクダやろばなどを持つようになった。 ヘブライ語原典では「ヤコブは彼のために、生の【はこやなぎ】と【アーモンド】と【すずかけ】の枝を取った。そして、そこの白い樹皮を裸にして皮をはいで、その枝の上にその白(によって縞を作り)、皮をはいだその枝を、羊の群れが飲むために来る水飲み場の流水溝の中に(入れ)、羊の群れに向かいあって飲むために置いた。すると、それらが来た時に熱くなった(さかりがついた)。そして、その群れはその枝に向かって熱くなり(さかりがつき)、羊の群れは縞と斑点やまだらのものを産んだ。ヤコブは小羊たちを分けて、群れの顔を縞のものの方へ与え、ラバンの羊の群れの中のすべての褐色のものに向かわせた。ヤコブは自分のために群れを別に置いた。そして、ラバンの羊の群れの上にそれらを置かなかった。そして、羊の群れが発情する時はいつも、ヤコブは枝によってそれを発情させるために流水溝に枝を置き、羊の群れの目に向かって置いた。しかし、その羊の群れが弱さを見せる時、彼は置かなかった。そして弱ったものはラバンのものになり、結び合うものはヤコブのものになる。そして、その男(ヤコブ)はとても、とても拡大し、多くの羊の群れと侍女たちと僕たちとラクダたちとロバたちが彼のものとなった。」です。 ラバンがいかにずる賢く立ち廻ろうとも、ヤコブは自分がラバンに報酬として申し出た特定の家畜だけを繁殖させることができました。 ヤコブが用いたその方法は、人が真似しても同じ結果は得られません。つまり、これは神様がヤコブに示した方法なのであり、神様がそこに介入されたからこそ実らせることができた方法なのです。 この事の後、ヘブライ語原典は「その男(イーシュ)はとても とても拡大した」と記しています。ヤコブという名ではなく、その男(イーシュ)と記されているのは、堕落前のアダムと同一視して書いているのです。 家畜が増えると、それを養うために多くの人を雇う必要がでてきます。また餌や道具を運ぶためのラクダやロバも、たくさん持つようになりました。ラバンの悪だくみや言葉に屈することなく、ラバンの罠に落ちるのではなく、本来の神様が創造された男(イーシュ)として、ラバンにもメソポタミアの偶像や偶像に取り憑いている悪霊たちにも勝利し、そして家畜たちを支配統治する資格を得たことを表しています。 ラバンの悪だくみは、かえってヤコブに多くて強い繁殖力を持つ家畜をどんどん繁栄させ、ラバンには繁殖力が弱くて少ない家畜だけが残る結果となったのです。ラバンが3日の距離をおいたせいで、ラバンとラバンの息子たちの家畜は、ヤコブの家畜たちと交わることもなく、どんどん減退していきました。 一方、ヤコブの家畜は、ラバンたちの弱い家畜と交わることなく、どんどん繁殖したのです。ラバンの悪だくみは、かえってヤコブに多くの財産を築く結果となりました。これは、かつてアブラハムやイサクが敵から多くの財産を与えられたことを上回り、自分と神様とによってヤコブが築き上げたものです。 |