31:22 ヤコブが逃げたことがラバンに知れたのは、三日目であった。ラバンは一族を率いて、七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドの山地でヤコブに追いついたが、その夜夢の中で神は、アラム人ラバンのもとに来て言われた。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。」 ヘブライ語原典では「そして、ヤコブが逃げたことが第3の日にラバンに告げられた。ラバンは彼の兄弟たちを共に取って、7日の道のりヤコブの後を追跡し、ギレアドの山で彼に接近した。しかし、その夜の夢の中でアラム人ラバンの所に神が来て、ラバンに言った。『あなたはヤコブと共に善から悪まで話さないように気を付けよ。』」です。 ヤコブたちが去ったことがラバンに告げられたのは、3日目のことでした。なぜラバンが知るまで3日もかかったのかというと、ラバン自身がヤコブの家畜と自分たちの家畜が交配してヤコブが豊かにならないように、歩いて3日の距離を置いていたからです。ラバンの計略は、逆にヤコブの家畜を繁栄させ、自分の家畜を衰退させたばかりか、ヤコブたちが去ったのを知るのに3日もかかってしまうことになったのです。 新共同訳で「逃げた」と訳しているヘブライ語ヴァラフは、「危険を察して姿を隠す」という意味ですので、新共同訳はユダヤ人ヤコブのことをよく思っていないため悪意ある訳になっていると言わざるを得ません。 ヤコブは、以前とは変わったラバンの顔を見て、危険を察し、主がヤコブに「あなたの父祖たちの地に帰れ。あなたの生まれ故郷へ。わたしはあなたと共にいる」と言われたので、妻や子供たちを連れて故郷に向かったのです。 ラバンは、ヤコブのものは自分のものだと心に決めてましたので、ヤコブたちが去ったのを知り、身内の者たちを率いて追いかけました。ヤコブたちは家畜の大群を率いていたので歩みは遅く、ギレアドの山でラバンたちに追いつかれてしまいます。 しかし、ラバンたちがヤコブたちに接近したその夜、主がラバンの夢の中に来て、ラバンに言ったのです。「あなたはヤコブと共に善から悪まで話さないように気を付けよ」と。 新共同訳では「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」と訳していますが、主はそういうことを言ったのではありません。主が「ヤコブと共に善から悪まで話さないように気を付けよ」と言われたのは、ラバンが言葉の上で善と悪を巧みに使い分け、善を悪と言い、悪を善と言いくるめて、人を自分の思い通りに従わせようとする人間なので、主がこの言葉でラバンの心に杭を打っておいたのです。 ラバンはアブラハムやイサクの親戚ですし、リベカの兄ですから、アブラハム・イサクの神、リベカの神である主のことは知っていますし、恐れてもいます。しかし同時にラバンは、メソポタミアの偶像を信じてもいます。そして、主なる神様と偶像の両方を、うまく使い分けているつもりでした。ただし、主と共にいるヤコブやリベカには通用しませんでした。 ラバンは、ヤコブたちに追いついた夜、旅の床の中で、善から悪までどう言いくるめてヤコブたちを連れ戻そうかと、企みを巡らせていたのでしょう。その夜の夢に、主が来て「あなたはヤコブと共に善から悪まで話さないように気を付けよ」と言われたのです。偶像を崇拝しながらも、主を恐れているラバンにとって、この主の言葉は心の中に杭となって打ち込まれました。 31:25 ラバンがヤコブに追いついたとき、ヤコブは山の上に天幕を張っていたので、ラバンも一族と共にギレアドの山に天幕を張った。 ラバンはヤコブに言った。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは、なぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか。ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。孫や娘たちに別れのくちづけもさせないとは愚かなことをしたものだ。わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前達の父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか。 ヘブライ語原典では「ラバンはヤコブに追いついた。ヤコブはその山に彼の天幕を張っていた。そしてラバンも、彼の兄弟たちと共にギレアドのその山に張った。そしてラバンは、ヤコブに言った。『あなたは何をしたか。私の心を盗んだ。そして私の娘たちを、剣の捕らわれ人のように連れて行った。どうしてあなたは、逃げるために隠れたか。そして私を盗んだ。私に告げなかった。私はあなたを歓びをもって、太鼓と琴と歌をもって送っただろうに。しかし、あなたは私に、私の娘たちと息子たちに口づけすることを許さなかった。今、あなたがしたことは、馬鹿なことをしたものだ。私の手には、悪事を、あなた方と行うための力がある。しかし、あなたの父の神が、昨夜、私に【あなたはヤコブと共に善から悪まで話すことを気を付けよ】と言った。そして今、あなたが行ってしまった。なぜならば、あなたの父の家がとても恋しくなったので。どうしてあなたは、私の神々を盗んだか。』」です。 ラバンがギレアド山でヤコブに追いついたとき、ヤコブが山に天幕を張っていたので、ラバンも一族の者たちと共に、その山に天幕を張りました。そしてラバンはヤコブを責めて言いました。「あなたは何をしたか。私の心を盗んだ。そして私の娘たちを、剣の捕らわれ人のように連れて行った。どうしてあなたは、逃げるために隠れたか。そして私を盗んだ。私に告げなかった。私はあなたを歓びをもって、太鼓と琴と歌をもって送っただろうに。しかし、あなたは私に、私の娘たちと息子たちに口づけすることを許さなかった。今、あなたがしたことは、馬鹿なことをしたものだ。私の手には、悪事を、あなた方と行うための力がある。しかし、あなたの父の神が、昨夜、私に【あなたはヤコブと共に善から悪まで話すことを気を付けよ】と言った。そして今、あなたが行ってしまった。なぜならば、あなたの父の家がとても恋しくなったので。どうしてあなたは、私の神々を盗んだか。」と。 ラバンはヤコブに、盗んだ、逃げた、隠れたと言い、娘たちを捕らえて連れて行ったと言います。これは事実と異なります。ヤコブは何一つ盗んでいませんし、隠れてもいませんし、娘たちを娶り家畜を養うためにラバンと結んだ契約期間は過ぎていますし、娘たちを無理やり連れ去ったのでもありません。 ラバンは、ひとこと言ってくれさえすれば、太鼓と竪琴と歌で、喜んで送り出してやったものを、と口先だけの偽善を言い、同時に、お前たちを力づくでひどい目に遭わせることもできると脅し、自分がそうしないのはイサクの神が「あなたはヤコブと共に善から悪まで話すことを気を付けよ」と言ったからだ、と言います。 よく気を付けて見ると、神様が言われた言葉が少し違っているのが分かります。神様は「善から悪まで話さないように気を付けよ」と言われたのに、ラバンは「善から悪まで話すことを気を付けよ」と言っているのです。「話さないように」と「話すことを」では、まったく逆です。神様は「話さないように」と言われたのに、ラバンは気を付けながら話したのです。神様が言われたことを自分の都合がいいように歪めて受け取り、神様に対して従ったふりをしながら自分の言い分を言い張ったのです。 そしてラバンはヤコブに、あなたは父の家がとても恋しくなったのだろうと、同情を寄せているように装い、最後に本音を漏らします。「どうしてあなたは、私の神々を盗んだか」と。 そうです。ラバンが一番欲しかったのは、偶像テラフィムなのです。それはラバンが最も頼みにしていたものです。自分の行く手の選択を占うものとしても、ヤコブの財産をもすべて自分の財産にするためにも(メソポタミアのハムラビ法典では、偶像テラフィムの持ち主が財産の相続権を有していた)。偶像テラフィムさえあれば、ラバンの家で築き上げたヤコブの財産のすべて、娘たちや、ラバンの家で生まれた孫たち、家畜たちまで、すべてを取り返すことができると思っていたのです。 しかし、そのことを悟られないために、ヤコブに、盗んだ、逃げた、隠れたと言い、娘たちを捕らわれ人のように連れて行ったと言い、力づくで取り戻すこともできると脅しつつ、それをすべて水に流すから偶像だけ返してくれと言ったのです。神様だけを信じているヤコブには偶像は必要ないはずだから、そのように言えばヤコブは偶像を返すはずだと計算し尽くして、ラバンはこう言ったのです。神様の言葉まで引き合いに出して。 31:31 ヤコブはラバンに答えた。「わたしは、あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと思って恐れただけです。もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください。」 ヤコブは、ラケルがそれを盗んでいたことを知らなかったのである。 そこで、ラバンはヤコブの天幕に入り、更にレアの天幕や二人の召使いの天幕にも入って探してみたが、見つからなかった。ラバンがレアの天幕を出てラケルの天幕に入ると、ラケルは既に守り神の像を取って、らくだの鞍の下に入れ、その上に座っていたので、ラバンは天幕の中をくまなく調べたが見つけることはできなかった。 ラケルは父に言った。「お父さん、どうか悪く思わないでください。わたしは今、月のものがあるので立てません。」ラバンはなおも探したが、守り神の像を見つけることはできなかった。 ヘブライ語原典では「ヤコブはラバンに答えて言った。『なぜなら、私は恐れた。あなたが私のもとから、あなたの娘たちを奪い取らないか、私は言った。もし、あなたが、あなたの神々を見つけるなら、彼(その者)は生きない。私たちの兄弟の前で、私と共に何かあなたのものがあるか見分けよ。そして、あなたのために取れ。』 しかし、ヤコブはラケルがそれらを盗んだことを知らなかった。そしてラバンは、ヤコブの天幕と、レアの天幕と、2人の侍女たちの天幕に入った。しかし彼は見つけなかった。そしてレアの天幕から出た。そしてラケルの天幕の中に入った。しかしラケルは、その守り神を取っていて、それをラクダの荷鞍の中に置いて、その上に座った。ラバンが天幕の全体を手探りしたが、見つけなかった。それでラケルは、彼女の父に言った。『私の主人の目に怒らないように。なぜなら私は、あなたの面前で立つことができません。なぜなら私に女の道(月経)がありますから』 ラバンは捜したが、その守り神を見つけなかった。」です。 ヤコブは故郷に向かってラバンの家を出た理由について、「なぜなら、私は恐れた。あなたが私のもとから、あなたの娘たちを奪い取らないか、私は言った。」と。ヤコブが言ったことは図星でした。ラバンは、ヤコブが契約期間を終えたので故郷に戻ると言いだしたならば、娘たちも孫たちも家畜も財産もすべて置いたまま、ヤコブ1人だけを去らせようと企んでいたのです。 そしてヤコブは言います。「もし、あなたが、あなたの神々を見つけるなら、彼(その者)は生きない。私たちの兄弟の前で、私と共に何かあなたのものがあるか見分けよ。そして、あなたのために取れ。」と。ヤコブは、ラケルが父ラバンの偶像テラフィムを持ち出したことを知らなかったのです。だから、もし偶像を見つけたら、偶像を持ち出した者を殺すと言ったのです。 ラバンは偶像テラフィムを探しましたが、見つけられませんでした。なぜなら、ラケルがテラフィムをラクダの荷鞍の中に入れ、その上に座っていて、「怒らないでください、私は月のもので立つことができないのです」と言います。ラバンは、自分が神と崇拝しているものを、まさか娘が月経の尻の下に敷くとは想像もできなかったのでしょう。結局、ラバンは偶像テラフィムを見つけることができませんでした。またラバンは、つい先ほど「私の娘たちを、剣の捕らわれ人のように連れて行った」と言った、自分の忠実なはずの娘が、自分に嘘をつくとは考えもしなかったのかも知れません。 ラバンの企みは、溺愛していたであろう娘ラケルによって破たんしたのです。 31:36 ヤコブは怒ってラバンを責め、言いかえした。「わたしに何の背反、何の罪があって、わたしの後を追って来られたのですか。あなたはわたしのものを1つ残らず調べられましたが、あなたの家の物が1つでも見つかりましたか。それをここに出して、わたしの一族とあなたの一族の前に置き、私達二人の間を皆に裁いてもらおうではありませんか。この二十年間というもの、わたしはあなたの元にいましたが、あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはありません。わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。しかsも、わたしはしばしば、昼は猛暑によるは極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。 この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました。 もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」 ヘブライ語原典では「ヤコブは怒った。そしてラバンと言い争った。そしてヤコブは、答えてラバンに言った。『私の反逆は何か。あなたが激しく私の後を追った、私の過失は何か。あなたが私の器のすべてを手探りした時、何を見つけたか。すべてのあなたの家の器を、私の兄弟たちとあなたの兄弟たちの前に置いてください。そして私たち2人の間を、裁かせよう。私はあなたと共にいたこの20年、あなたの雌羊たちとあなたの雌山羊たちは流産しなかった。そして、あなたの群れの雄羊たちを、私は食べなかった。裂かれた動物を、私はあなたの所へ持って来なかった。私が、私の手からそれの罪を負った(損害を賠償した)。あなたは昼間に盗まれた物を、そして夜に盗まれた物を、私の手から要求した。私は昼間、猛暑が私を食い尽くし、夜間に氷が私を食い尽くした。そして私の目から、私の眠りがさ迷った(私は眠ることさえできなかった)。これが私にとっての、あなたの家での20年だ。私は14年間、あなたの2人の娘たちのために、そして6年はあなたの羊の群れのために、あなたに仕えた。あなたは私の報酬を10回取り替えた。もし、私の父の神が、アブラハムの神がおられなかったなら、イサクの恐れる方が私におられなかったなら、今やあなたはきっと私を空っぽで去らせただろう。神は、私の両手の労苦と苦痛をご覧になって、昨夜、真実を明らかにされた』。」です。 ラバンが偶像テラフィムを見つけられなかったのを見て、ヤコブは怒りました。そしてラバンと言い争い、ラバンに答えて言います。あなたが激しく後を追った私の反逆は何か、私の過失は何か、と。あなたの家の物が一つでも見つかったのなら、それをここに出して皆に裁かせようではないか、と。そして今度はヤコブが、正当な事実を皆の前に示し始めます。ヤコブが強いられた労苦と苦難は、そこにいた誰もが知っていたことでした。不当なのはラバンの方であることは明らかでした。 そして、もし神様がおられなかったら、あなたはきっと私を空っぽで去らせただろう、と言います。それが昨晩、神様がラバンの夢に現れた本当の意味であり、神様が正当に裁かれたのだということをラバンに示したのです。 31:43 ラバンは、ヤコブに答えた。「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。しかし、娘たちや娘たちが産んだ孫たちのために、もはや、手出しをしようとは思わない。さあ、これから、お前とわたしは契約を結ぼうではないか。そして、お前とわたしの間に何か証拠となるものを立てよう。」 ヤコブは一つの石を取り、それを記念碑として立て、一族の者に、「石を集めてきてくれ」と言った。彼らは石を取って来て石塚を築き、その石塚の傍らで食事を共にした。ラバンはそれをエガル・サハドタと呼び、ヤコブはガルエドと呼んだ。ラバンはまた、「この石塚(ガル)は、今日からお前とわたしの間の証拠(エド)となる」とも言った。そこで、その名はガルエドと呼ばれるようになった。そこはまた、ミッパ(見張り所)とも呼ばれた。 「我々が互いに離れているときも、主がお前と私の間を見張ってくださるように。もし、お前がわたしの娘たちを苦しめたり、わたしの娘たち以外にほかの女性をめとったりするなら、たとえ、ほかにだれもいなくても、神ご自身がお前とわたしの証人であることを忘れるな。」とラバンが言ったからである。 ヘブライ語原典では「ラバンは答えてヤコブに言った。『この娘たちは私の娘たち、そしてこの息子たちは私の息子たち、そしてこの羊の群れは私の群れ、そして、あなたが見ているそれはすべて私のもの。私の娘たちのために私は何をしよう。今日、これらのために、また彼女たちが産んだ彼女たちの息子たちのために。そして今、さあ、私たちは契約を結ぼう。私とあなたは。そして、私の間と、あなたの間に、証拠になるものを』。 そしてヤコブは石を取った。そしてそれを記念碑として高く持ち上げた。そしてヤコブは、彼の兄弟たちに『石ころを拾い集めよ』と言った。そして彼らは、石ころを取って、山を造った。そして、山のそばの場所で食べた。ラバンはそれをエガル・サハドタと呼んだ。しかし、ヤコブはそれをガルエド(証しの山)と呼んだ。そしてラバンは『この山は私の間と、あなたの間で、今日、証拠となる』と言った。それだから彼は、その名をガルエドと呼んだ。そして、ここがミツパ(見張り所)とも呼ばれるのは、ラバンが『私たちが彼の友から、それぞれが隠れている時に、私の間とあなたの間を、主が見つめるように。もし、あなたが私の娘たちを苦しめ、またもし私の娘たちの上に妻たちを娶るなら、見よ、私たちと共に人がいなくとも、神が私の間とあなたの間で証人だ。』と言ったからである。」です。 ラバンは、遂に本心を口に出しました。娘たちも、息子たちも、家畜たちも、ヤコブの目に見えている者はすべて私のものだ、と。本当はそうなのに、自分は善人だから、そうしないのだと偽善者を貫きます。しかし今や、そう思っているのはラバンだけであることは明白でした。そこにいた誰もが、ヤコブの言い分が正しいことを知っていました。 そこでラバンは、せめて善人として恰好を付けようとして、自分は娘たちと孫たちのために、神様の前でヤコブと契約を結ぼうと言うのです。 そこでヤコブは石を取り、記念碑として高く持ち上げました。これは、かつてヤコブが故郷を出て、ラバンの家に向かう途中でしたことと同じです。あのとき、ヤコブは天と地を結ぶ梯子を神の御使いたちが昇り降りする夢を見ましたが、ヤコブの傍らに主が立っていました。そして枕元に集めていた石を記念碑としたのです。 その主が、今度はこの地でラバンの夢の中に来て、ヤコブの助けとなられたので、ヤコブは石ころを集めさせて山を造り、あのときと同じく主が現れて働きを成された証しとしたのです。 そして、その側で契約を締結するためにラバンと食事を共にしました。ラバンはそれをエガル・サハドタ(アラム語で「証しの塚」)と呼びましたが、ヤコブはガルエド(ガルエド)と呼びました。また、ラバンが「私の間とあなたの間を、主が見つめるように」と言ったので、ミツバ(見張り所)とも呼ばれるようになります。 ミツバ(見張り所)というのは、警告という意味です。ラバンはヤコブを信用していないのです。ラバンは人を誰も信用していません。自分が信用できない人間なので、人は誰も信用できないと思っているのです。そして、ラバンがこのミツバという言葉を持ち出してきた理由が、この後、明らかになるのです。 31:51 ラバンは更に、ヤコブに言った。「ここに石塚がある。またここに、わたしがお前との間に立てた記念碑がある。この石塚は証拠であり、記念碑は証人だ。敵意をもって、わたしがこの石塚を超えてお前の方に侵入したり、お前がこの石塚とこの記念碑を超えてわたしの方に侵入したりすることがないようにしよう。どうか、アブラハムの神とナホルの神、彼らの先祖の神が我々の間を正しく裁いて下さいますように。」 ヤコブも、父イサクの畏れ敬う方にかけて誓った。 ヤコブは山の上でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事の後、彼らは山で一夜を過ごした。 ヘブライ語原典では「そしてラバンは、ヤコブに言った。『見よ、この山が。そして見よ、記念碑が。私の間と、あなたとの間に、私が立てた。この山は証拠。そして、この記念碑が証拠。私が、あなたの所へ、この山を超えて行かないことの。そして、あなたがこの山を超えて私の所へ行かないための。悪のために、この記念碑を超えないようにしよう。アブラハムの神とナホルの神が、彼らの父祖の神が、私たちの間を裁く』。そしてヤコブは、彼の父イサクの畏れによって、誓った。ヤコブは、その山で犠牲(献げるものの意味)をささげた。そして、パン(食事の意味)を食べるために彼の兄弟たちを呼んだ。そして彼らはパンを食べ、その山で泊った。」です。 ラバンはヤコブに、石を集めた山、記念碑を、自分が立てたと言います。事実は、ヤコブが立てたのです。そしてラバンは、お互いにこの記念碑を超えないことを約束する、そのための記念碑だと言います。ラバンがそう言ったのは、ラバンがヤコブを恐れていたからです。 ラバンが、警告、見張りという言葉=ミツバという言葉をこの契約の場に持ち出してきたのも、ラバンがヤコブを恐れていたからです。なぜならば、もしヤコブが偶像テラフィムを持って来てラバンの家の財産はすべて自分のものだと主張すれば、ハムラビ法典ではすべてのラバンの財産がヤコブのものとなるからです。 もちろん、ヤコブは偶像などに頼ることも、利用することもありませんが、ラバンは一方的にそれを恐れて契約を結ぼうと提案したのです。しかしヤコブは、そのような低次元のことではなく、神様と、石(やがて表われる救世主を象徴)について、証しの場として契約するのです。祖父アブラハムとアビメレクの契約、父イサクとアビメレクの契約の時と、よく似ています。違っているのは、アブラハムとヤコブの時は「井戸」、ヤコブの時は「石」です。 ラバンはアブラハムの神、ナホルの神を持ち出していますが、ラバンにとってアブラハムの神とナホルの神が同じ神を意味しているのかどうかは定かではありません。その父祖の神というのも同様です。というのは、ラバンはアブラハムの神についても、ナホルの神についても、本当の事は知らないので、自分が思っているアブラハムの神、ナホルの神、父祖たちの神を、持ち出してきただけに過ぎません。そもそも、アブラハムの神も、ナホルの神も、父祖たちの神も、ラバンと共にいないのですから、ラバンとは何の関係もありません。ヤコブにとってだけ関係があるのです。 ヤコブは、父イサクの神様に献げ物をささげました。この献げ物は、父イサクの身代りになった雄羊を意味しています。単なる「いけにえ」「犠牲」と訳したのでは、その真意が分かりません。 この意味を、石=犠牲の雄羊=イエス様と解釈するのは早計です。イエス様は結果として十字架に付かれはしましたが、イスラエルの民がイエス様を受け入れていたら、どうだったでしょう。実際、イサクは死んで復活したのではなく、死なないで生きる者となりました。つまりイエス様は、人を生きながらにして生まれ変わせることができる方であることが、示唆されていると言えるのです。 ヤコブにとっては、この場所はそういう場所でした。ヤコブはそれを記念したのです。ラバンにとっては、ヤコブがテラフィムを持って財産を奪いに来ないよう約束させる、極めて低レベルの、この世的な契約に過ぎませんでした。 さて、神様はラバンに「善から悪まで話さないように気を付けよ」と言われたのに、ラバンは自分に都合がいいように歪めて「善から悪まで話すことを気を付けよ」と神様は言われたとヤコブに言い、神様に対して従ったように見せかけながら自分の言い分を言い張りました。これが神様に従ったことになるでしょうか。 もちろん、これは神様への反逆です。かつてエデンで蛇は、神様が「それを食べたら死ぬ」と言われたのに対して「食べても死なない」と、まったく逆のことを言いました。神様の言葉に従わなかったばかりか、逆のことをヤコブに言ったラバンは、その後どうなったでしょうか。 ラバンとその家族の消息は、聖書から一切、消えてしまうのです。アブラハムの兄弟ナホルには、アブラハムと同じく12人の子がおり、その家系からリベカ、レア、ラケルがアブラハムの家系の妻になっています。ナホルの家は、アブラハムの子孫たちと結ばれるためにこそ、神様によって繁栄させられていました。ラバンがこのとき、神様の言葉に従っていたら、ヤコブの子孫とラバンの子孫は結び合い、その後もその家系は繁栄し続けたかも知れません。 しかし、ラバンが神様の言葉に従っているように見せかけながら逆のことを言ったことによって、その家系の消息は聖書から一切消滅してしまうのです。言葉の罪を、あらためて認識せざるを得ません。 人は自分が言う言葉を軽視していますが、エデンの蛇も言葉で人を堕落させ、エバも言葉で堕落したのです。その言葉が行いに繋がり、神の子から一気に蛇以下の存在になったのです。 |