安息日の礼拝  創世記の真相

創世記32章




32:1-6
 次の朝早く、ラバンは孫や娘たちに口づけして祝福を与え、そこを去って自分の家へ帰って行った。
 ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。
 
ヤコブは、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わすことにし、お前たちはわたしの主人エサウにこう言いなさいと命じた。「あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者をご主人様のもとに送ってご報告し、ご機嫌をお伺いいたします。」

 ヘブライ語原典では「その朝、ラバンは早起きした。そして、行って彼の娘たちとその息子たちに口づけし、彼らを祝福して、ラバンは彼の場所に帰った。そしてヤコブは、彼の道に行った。そして神の天使たちがヤコブに出会った。ヤコブは彼らを見た時に『これは神の陣営だ』と言った。そして彼は、その場所をマハナイム(2組の陣営)と呼んだ。ヤコブは使者を、エドムの野、セイルの地にいる兄エサウの所に、彼の顔の前に遣わした。そしてヤコブは使者たちに、あなた方は私の主人エサウにこのように言え、と命じ言った。『あなたの僕ヤコブが、ラバンと共に逗留(とうりゅう=一定期間とどまること)していましたので、今まで遅くなりました。ヤコブは雄牛とロバ、羊の群れ、僕や下女を所有するまでになりました。そして、主人(エサウ)に告げるために、またあなたの目に恵みを見出すために、使者を遣わしました』と。」です。

 ヤコブとラバンたちがガルエド(証しの山)の契約を交わした翌朝、ラバンは早起きし、娘たちと孫たちに口づけし、祝福の言葉を言って、自分の家に帰りました。
 ラバンが言った祝福(ヴァラフー)の言葉は、もちろん神様の祝福とは何の関係もないもので、かつてリベカをイサクの元に嫁がせる際にラバンとリベカの親族らが「わたしたちの妹よ あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」(創24:60)と言ったのと同様、ラバンが個人的に祝福の言葉を述べたに過ぎません。
 ラバンと分かれたヤコブたちは、故郷であるイサクとリベカの家に向かって旅を続けます。すると突然、神の御使いたちがヤコブの前に現れます。
 この御使いたちは『万軍の主』とも言われる神様の、聖なる軍勢です。その軍勢が今や、ヤコブの前に現れたのです。
 
 新共同訳の「神の陣営」や、マハナイム(2組の陣営)という言葉から、ヤコブがエサウに立ち向かうための『戦法』と理解する人がいるかもしれません。しかし、そうではありません。『万軍の主』という言葉もそうですが、神様は、武力や暴力によって相手を屈服させるために御使いの軍勢を率いているのではないのです。神様の軍勢は、愛と知恵の軍勢なのです。このことを正しく理解しないユダヤ教やキリスト教では、神の名の元に多くの戦争をしました。しかし、そのような戦争は愛と知恵がない証拠でしか、ありません。

 ヤコブはまず、使者を兄エサウの所に遣わします。ヤコブは使者たちに、あなた方は私の主人エサウにこのように言え、と命じて「あなたの僕ヤコブが、ラバンと共に逗留していましたので、今まで遅くなりました。ヤコブは雄牛とロバ、羊の群れ、僕や下女を所有するまでになりました。そして、主人に告げるために、またあなたの目に恵みを見出すために、使者を遣わしました』と言いました。
 ヤコブがあえて「あなた方は私の主人エサウにこのように言え」と命じたのは、誰もエサウがヤコブの主人だとは思っていなかったので、ヤコブはあえてそう言い聞かせたのです。
 実は、ヤコブ自身も兄エサウのことを本当の主人だとは思っていません。ヤコブの主人は神様だけだからです。そのことは同行の皆が知っていました。つまりヤコブは、まったくエサウのことを主人とし、自分をエサウの僕として生活していはいないのです。だからこそ、ヤコブは使者に、念を押して言って聞かせる必要があったのです。

 ヤコブが兄エサウのことを「主人」と言ったからといって、ヤコブがエサウに仕えていることになるわけではありません。実際、ヤコブは過去にも一度たりともエサウに仕えたことはありませんし、今もエサウを主人として生活しているわけではりません。重要なのは、その「事実」です。
 ここで忘れてならないことは、「主人」=神の祝福の相続者ではない、ということです。ヤコブにとって重要なことは、自分が「神の祝福の相続者」であるならば、エサウを「主人」と呼ぶことなど、何の意味もないと言うことです。
 しかし、神様にとってもヤコブにとっても何の意味もない「主人」という称号は、エサウにとっては大事なものだということを、ヤコブは知っていました。富に仕えるものにとって、その称号は、この上もなく嬉しい称号なのです。エサウは神に仕えるものではなく富に仕える者でした。だからこそ、一杯のスープと引き換えに「神の祝福の相続権」を売ったのです。

 神のみに仕えて生活している者が、世の権力者に「ご主人様」と言ったからといって、世の権力者に仕えたことにはなりません。世の権力者に仕えて生活していて、罪を犯すことこそが問題なのです。口で「ご主人様」と言っていないから、といって、行いで仕えて罪を犯したら、それこそが問題なのです。神のみに仕えて生活している者は、口を慎んで生活していますから、言わなくてもいいことは言いません。ヤコブは、それをわきまえています。



32:7-13
 使いの者はヤコブのところに帰って来て、「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告した。ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組みは助かると思ったのである。
 ヤコブは祈った。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」

 
ヘブライ語原典では「その使者たちはヤコブの所に帰って来て、言った。『私たちは、あなたのお兄さんの所に行ってきました。彼もまた、400人の男と共に、あなたに向かって歩いています」と。ヤコブは彼のために大変恐れた。そして悩んだ。そしてヤコブは、彼と共にいる人々を2分し、羊の群れと牛とラクダたちを2つの陣営に2分した。そして彼は言った。『もしエサウが一つの陣営の所へ来たら、それを撃つ。しかし、逃れのために残されている陣営がある。ヤコブは言った。『私の父(祖父)アブラハムの神よ、そして私に【あなたの国へ、あなたの故郷に帰れ。私はあなたと共に居て慈しみを施そう】と言われた、私の父イサクの主なる神よ。私は、その恵みのどれよりも、あなたがあなたの僕に行なった、その真実(約束に基づいて与えられる神の行い)のどれよりも、小さかった(値しない者です)。なぜなら私はかつて、私の杖(=杖ひとつ)でこのヨルダン川を渡りましたが、今や私は2つの陣営になりました。どうぞ私を、私の兄エサウの手からお救いください。なぜなら私は、彼が来ないかと、そして私を、息子たちの上に母を、撃たないかと、彼を恐れているのです。そして息子たちの上に(息子たちばかりか、その)母を撃たないかと恐れているからです。あなたは、かつて言われました。【わたしはあなたと共に居て、必ず慈しみを施そう。そしてあなたの子孫を、その多さのゆえに数えられない海の砂のようにする】と。」です。

 ヤコブが遣わした使者たちは、ヤコブの所に戻って来て、エサウが400人の男たちと共にあなたに向かって来ている、と報告しました。
 ヤコブはそれを聞いて恐れました。そして悩みました。そしてヤコブは、彼と共にいる人々を2分し、羊の群れと牛とラクダたちを2つの陣営に2分しました。
 そうです。ヤコブは、御使いの2組の軍勢を見て、自分も同じようにしたのです。その上で、ヤコブは主なる神を頼りとし、呼ばわります。
 ヤコブに「あなたの国へ、あなたの故郷に帰れ。私はあなたと共に居て慈しみを施そう」と言われたのは神様です。神様の言葉に従ってヤコブは行動を起こしました。しかし、エサウが400人の共を引き連れて向かってきています。
 ここで信仰が試されるのです。恐れて引き返してしまうのか、あるいは恐れてエサウに仕えてしまうのか、そうではなくて神様がせよと言われたことを成すのか。
 ヤコブは、神様がせよと言われたことを成そうとし、だからこそ神様に呼ばわったのです。自分は何もしないで神頼みしているのでもありません。神様がせよと言われたことを成すために、主の御使いの陣営のように自分の陣営を2つに分けて、自分が知恵によって悟った、できるかぎりのことをした上で、神様に呼ばわったのです。
 このヤコブの「恐れて」は、神様に言われたことを成すために恐れているのであって、恐れて引き返すのでも、恐れてエサウに仕えようとするのでもないのです。なぜなら、ヤコブと息子たちとその母には、神様から託されている使命があります。ヤコブは、それが成せなくなってしまうことを恐れたのです。

 かつてヤコブは、エサウの殺意を知った母リベカの勧めによって、イサク家から逃れ、伯父ラバンの家を目指しました。その時、ヤコブはたった1本の杖でヨルダン川を渡りました。このヤコブの歩みを支えた「一本の杖」は、何を示しているでしょうか。
 一本の杖を持ってヨルダン川を渡ったヤコブは、たった1人であっても、何も持っていなくても、神の全権を地上で担う資格を持つ「王」なのです。つまり、ヤコブが持つこの杖は後の「王笏(おうしゃく)」にほかなりません。
 後にヤコブの息子ユダが「王笏」を持っているのですが、その王笏はどこから突然あらわれたのでしょう。誰がユダにそれを譲り渡したのでしょう。ユダにそれを譲り渡すことができる人物はヤコブの他にはおらず、王笏となる杖といえば、このヤコブの「一本の杖」を置いてほかに聖書に登場しないのです。
 ヤコブは遺言の際にヨセフの子マナセとエフライムを祝福するのですが、そのずっと前に、王権はユダに継承しているのです。このことは聖書の隠された奥義であり、この「ユダ」からダビデが生まれ、イエス様が生まれるのです。
 このことを知るか否かで、「ユダ」の子を宿す「タマル」の行動を正しく知ることができるか否かを左右します。タマルの信仰については、タマル登場の章で解明します。

 1本の杖=王笏のみを持ってヨルダン川を渡ったヤコブが、2組の陣営を率いて再びヨルダン川を渡ってカナンの地に入ることは、後に出エジプトの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に帰ってくることを象徴しています。出エジプトの民を率いたモーセは、祭司であるレビの氏族ですが、民を統率する王権も担います。その象徴が「杖」です。
 ヤコブは、祖父アブラハムや父イサクに比べれば自分は小さい者に過ぎないと思っています。小さい、というのは財産の規模のことではなく、信仰において小さいと言っているのです。しかし神様はヤコブを、アブラハムよりもイサクよりも大いなる者とされます。



32:14-22
 その夜、ヤコブはそこに野宿して、自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選んだ。それは、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雌ろば十頭であった。
 それを群れごとに分け、召使いたちの手に渡して言った。「群れと群れとの間に距離を置き、わたしの先に立って行きなさい。」 また、先頭を行く者には次のように命じた。 「兄のエサウがお前に出会って、『お前の主人は誰だ。どこへ行くのか。ここにいる家畜は誰のものだ』と尋ねたら、こう言いなさい。『これは、あなたの僕ヤコブのもので、ご主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります』と。」 ヤコブは二番目の者にも、三番目の者にも、群れの後について行くすべての者に命じて行った。「エサウに出会ったら、これと同じことを延べ、『あなたさまの僕ヤコブも後から参ります』と言いなさい。」
 ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。こうして、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。


 ヘブライ語原典では「その夜に、ヤコブはそこに泊った。そして彼の手の中に入って来たもの(彼自身の所有物となった物)の中から、彼の兄エサウのために贈り物を取った(選び出した)。200頭の雌山羊たちと20頭の雄山羊、200頭の雌羊たちと20頭の雄羊、乳を飲ませているラクダたち30頭とその子たち、40頭の雌牛と雄牛10頭、20頭の雌ロバたちと雄ロバ10頭。彼は、群れをそれぞれに分け、それぞれの群れを僕たちの手の中に与えた。そして彼の僕たちに言った。『私の顔の前に追い越せ、そしてあなた方は群れと群れの間に、間を置け』。そして彼は、先頭の者に命じて言った。『私の兄エサウがあなたに出会う時、あなたに【あなたは誰のものか。そしてあなたはどこへ行くのか。そして、あなたの前のこれらは誰のか】と尋ねる。あなたは言いなさい。『あなたの僕のヤコブのものです。これは私のご主人エサウ様に送られた贈り物です。ご覧ください、私たちの後に彼(ヤコブ)自身も来ます』と。
 そして彼は第2の者にも、また第3の者にも、またすべての群れの後に歩いて行く者たちに『あなた方がエサウを見つける時に、あなた方はこの言葉のように言い、【私たちの後ろに来るあなたの僕ヤコブをご覧ください】とと言いなさい』と言った。なぜなら彼は言った。私は彼(エサウ)の顔を、私の顔の前を行くところの、この贈り物で覆おう。そしてその後で、私は彼の顔を見よう。もしかしたら、私の顔を上げる(私を許す)かもしれない。そして、その贈り物がヤコブの顔の前を通り過ぎた。その夜、ヤコブはその宿営の中で泊った。」です。

 そのより、ヤコブは野宿し、新たな行動に出ます。神様に祈ったヤコブは、夜のうちに気付いたのです。それはまた、神様が気付かせた、と言い換えることもできます。神様の御前に義しくあれば、神様は気付かせてくださいます。悪しき心を抱けば、悪しき者がその心に誘い、罪が戸口に待ち伏せます。
 ヤコブは家畜たちの中から、エサウへの贈り物を選び取ります。雌の方が雄よりも数が多いのは、雄は何頭の雌にでも種付けできるからです。そして群れを分けて僕たちに率いさせ、彼らと贈り物の群れを自分(ヤコブ)よりも前に行かせ、群れと群れの間に、間をあけさせます。
 そして先頭の者に、エサウがあなたに出会って「あなたは誰のものか。あなたどこへ行くのか。そして、あなたの前のこれらは誰のか」と尋ねられたら、「あなたの僕ヤコブのものです。これは私のご主人エサウ様に送られた贈り物です。ご覧ください、私たちの後にヤコブも来ます」と言わせます。
 ヤコブはさらに、それぞれの組の先頭の者に、同じように言うよう命じました。
 さらにまた用意周到に、すべての群れの後ろを歩く者たちに、エサウと出会った時に「私たちの後ろに、やがてヤコブ自身も参ります」と言うよう命じました。ヤコブの指示には、まったくスキも漏れもありません。曖昧ではありません。どこからも、ほころびが出ないように徹底しています。「完全」を目指したのです。ほころび、スキがあれば、悪しき者はそこにつけ込むからです。

 新共同訳では分かりにくいですが、ヘブライ語原典ではヤコブがなぜこのようにしたのかが、よく分かります。「私はエサウの顔を、私の顔の前を行くところの、この贈り物で覆おう。そしてその後で、私は彼の顔を見よう。」とヤコブが言ったのは、エサウは自分をまず探すだろう、そして自分を見つけたら、怒りがこみ上げるだろう、と思ったのです。だから、それを避けるために、エサウが自分の顔を見るよりもの前に、次々に贈り物を見せることにしたのです。
 エサウは、スープと引き換えに祝福を売った兄です。富に弱いのです。富に心を動かされるのです。だから富を利用(活用)して、怒りをなだめようとしたのです。ヤコブにとって財産とは、そのようなものに過ぎません。財産は、大切なことを果たすための材料に過ぎないのです。
 
 ヤコブの使者たちへの指示も、確信に満ちています。エサウは必ずそのように言うだろうと、読み切っているのです。20年以上もエサウに会っていないのに、その本質は変わっていないと確信しているからです。
 実際、人は神様によって生まれ変わらければ、その本質は何年たとうとも変わりません。ヤコブのこうした能力は、イサクの家にいた頃から、いえ生まれる前から母リベカの胎内で持ち合わせていたものです。
 こうしてヤコブは、贈り物と使者たちを先に行かせた後、その宿営の中で泊りました。



32:23-33
 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が空けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは話しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をベヌエル(神の顔)と名付けた。

 ヤコブがベヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

 
ヘブライ語原典では「ヤコブはその夜に起き、2人の彼の妻たちと2人の侍女たち、そして11人の子供たちを連れて、ヤボク(ヨルダン川の支流)の渡し場を渡った。彼らを取って、彼らにその川を渡らせ、彼に属するものも渡らせた。そしてヤコブは、彼1人で残った。そして『人(イーシュ)』が、彼と共に夜明けが上るまで組打ちした。そして、彼はヤコブにできない(勝てない)ことが分かった。そして彼は、彼の股のつがいに触った。すると、彼と共に彼が組み打ちした時に、ヤコブの股のつがいが外れた。彼は言った。『私を去らせよ。なぜなら夜明けが上った(夜が明ける)。』 ヤコブは言った。『あなたが私を祝福するのでないなら、私はあなたを去らせない』と言った。
 彼はヤコブに言った。『あなたの名は何か』。彼は『ヤコブだ』と言った。すると彼は言った。『あなたの名は、もうヤコブ(かかとを掴む者)と言われない。あなたの名はそうではなく、イスラエル(エルと闘う、の意)。なぜなら、神と共にやり抜いた。そして人々と共に、あなたは出来た』。そしてヤコブは尋ねて『どうか、あなたの名を告げてください』と言った。すると彼は『あなたが私の名を尋ねるのは、なぜか』と言って、ヤコブをそこで祝福した。そしてヤコブは『私はエルを、顔と顔に向かい合って見た。そして私の魂は救われた』と言って、その場所の名をベヌエルと呼んだ。そして、ヤコブがベヌエルを渡った時、彼のために太陽が昇った。ヤコブは彼の股のゆえに、びっこを引いていた。それだから、イスラエルの子たちは今日まで、股のつがいの上にある腰の筋を食べない。なぜなら、彼がヤコブの股のつがい、つまり腰の筋に触ったからである。」です。

 ヤコブはその夜、起きて2人の妻と侍女たち、そして11人の子供たち、彼に属する者たちを、ヤボクの渡し場から先に渡らせ、ヤコブは1人残りました。ヤコブが群れの最後に位置するためです。そして『人(イーシュ)』が、ヤコブと共に夜が明けるまで組打ちしたのです。
 新共同訳聖書では、ヤコブと組打ちした人のことを「何者かが」と訳しています。この「何者か」が何ものであるのかについて、さまざまな解釈がなされてきましたが、明確な答えは出ていません。
 ヘブライ語原典には「何者か」ではなく、「イーシュ」と記されています。イーシュとは、神様が塵(アダマ)で造られたアダムの脇の肉から取ってイシャー(女)が造られた際に、男をイシュと呼んだのが最初です。このイシュは、罪を犯して堕落して、塵にすぎない者=アダムとなり、エデンの園を追われました。
 このことから、イーシュとは、堕落前の人のことで、また天と地の両方が分離していない、霊と肉が分離していない人のことだと解明できます。だとしたら、堕落前のアダムがヤコブと組み打ちしたのか、ということになりますが、そうであっても不思議はありません。
 堕落した地上人は、時間という概念に縛られているため、ここに堕落前のアダムが現れるなどということは理解できません。しかし神様は時間を超越されておられ、神様が創造された本来の世界は時間という概念に束縛されない世界です。つまり、時間を超越している神様側からみれば、ここに堕落前のアダム=イーシュを送ったとしても何ら不思議はないのです。

 この「何者か」は「神」だという解釈もありますが、人が神に勝つということはあり得ません(神が人に故意に負けないかぎりは)。
 あるいはまた「御使い」であるという解釈もあります。御使いは神様の道具として使命を徹底する時、いちいち自分のことを「御使いだ」などとは説明せず、神様の代理として、あるいは神様の道具として、神様の道具になりきって神様の言葉をそのまま伝えることがあります。そのことは、これまでも聖書の中に何度か見てきました。そうであれば、神様の代理として徹底して役目を務めた御使いとも考えられなくもありません。「イスラエル」の「エル」は「神」と訳されますが、ミカエル、ガブリエルなどのように御使いにも「エル」が付きます。新共同訳で「神」と訳されているこの部分は、ヘブライ語原典では「エロヒーム」で、エロヒームは「エル」の複数形です。
 もし「何者か」が御使いなのだとしたら、「イーシュ」(=人もしくは男)と記されていることに疑問が残ります。
 イエス様だとする解釈もあります。しかし、イエス様がヤコブに負けるというのも、ないように思われます。

 だとすれば、イーシュはそのままイーシュ、すなわち堕落前の男であり、ヤコブはその者に勝ったという解釈が、自然なことのように思われます。
 また、このイーシュは夜明けまで地にいてはいけない存在であることを告白しています。それは霊的な存在だということを示しています。御使いならば昼間にも現れていることが聖書に何度も記されています。イエス様も復活の姿を昼間に見せていますし、神様ならなおさら夜明けまでに帰らなければならないなどという制約はないでしょう。
 つまり、このイーシュは霊的存在であり、神でもイエス様でも御使いでもない、霊としての人だと解釈するのが妥当ではないでしょうか。堕落する前のイーシュならば、ヤコブを祝福する権利もあるでしょう。

 ヤコブは夜が明けるまでイーシュと組打ちし、やがて夜が明けようとする時、イーシュはヤコブをどうこうできない、勝てないことが分かり、戻れなくなってしまうためヤコブの腿のつがいを撃ち、ヤコブの股のつがいがはずれてしまいます。それでもなお、ヤコブは祝福を求めてイーシュを離しませんでした。そしてついに、イーシュはヤコブに勝てないとを祝福し、ヤコブは名をもはやヤコブ(かかとをつかむ者)とは呼ばれず、「エルと闘う」という意味の「イスラエル」という名を与えます。
 その理由についてイーシュは、「なぜなら、あなたは神と共にやり抜いた。そして人々と共に、あなたは出来た」と言っています。逆に言えば、イーシュにはそれが出来なかったのだけれども、ヤコブには出来たという意味だと解釈できます。
 つまり、イーシュは神と共にやり抜けず、イシャー(女)と共に出来なくて、御使い(エル)の長に敗れて堕落してしまったけれども、イーシュに勝ったヤコブは御使い(エル)に勝利した者と言えるわけです。なぜならヤコブは、神と共にやり抜き、人々と共に出来たからです。だから「イスラエル」(エルに勝利した者)。

 そして、この「何者か」を解明するための、もう一つの重要なキーワードは「名」です。ヤコブはイーシュに名を尋ねましたが、彼は答えませんでした。神様はモーセに名を尋ねられて答えていますので、自らを「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と任じておられる神様が、ヤコブに名を教えない理由が見当たりません。
 御使いも、聖書のあちこちで自らの名を証していますから、「何者か」が御使いであったとしたら、自分に勝利したヤコブに名を告げない理由が見当たりません。
 そして、よく読んでみると、この「何者か」はヤコブに「イスラエル」という名を与えた後、自分に名を尋ねるヤコブに「あなたが私の名を尋ねるのは、なぜか」と言って、ヤコブを祝福しています。つまり「何者か」は、名を名乗る資格があるのはあなた(ヤコブ)であるのに、どうして自分の名を尋ねる必要があるのか、という意味でヤコブを祝福していると考えられます。
 それに「名を付ける」という行為について、思い出してください。それは堕落前のアダムであるイーシュがしたことなのです。
 イーシュが神様からヤコブに遣わされたという意味では「御使い」と言ってもいい訳ですが、それは「天使」という意味での御使いではありません。
 
 この箇所で気付くべき、もう一つ重要なことがあります。ヤコブはまだエサウと会ってもいないのに、イーシュは「あなたは神と共にやり抜いた。そして人々と共に、あなたは出来た」と言っているのです。つまり、ヤコブが気付いたこと(神様に気付かされたこと)を計画し、実行するに至った段階で、すでに勝利が決定したということです。

 さてヤコブは、その場所を「エルと顔と顔を見合わせた場所」という意味の「ベヌエル(顔+エル)」と名付けました。「エル」というのは、神様の事を指す場合もありますし、御使いのことを指す場合もあります。つまり、天的な存在のことを「エル」と呼びます。だからヤコブは「私はエルを、顔と顔に向かい合って見た」と言ったのです。
 そしてヤコブは「私の魂は救われた」と言っています。新共同訳では「なお生きている」と訳されていますので、神様と顔と顔を合わせたのに、なお生きている、という訳し方になっています。
 しかし、ヘブライ語原典では「私はエルを、顔と顔に向かい合って見た。そして私の魂は救われた」で、魂とは「いのち」のことですから、エルと顔と顔を向かいあって見た(対等以上にやりあった)、そしていのちが救われたという意味に解釈できます。それは、エルと顔と顔を向かいあって見たのに、いのちを失うことはなかったので、エサウにいのちを奪われることはない、という意味に解釈できます。
 この解釈の方が、続けて書かれていることと意味が通じるのです。ヤコブがベヌエルを渡った時、彼のために太陽が昇ります。「彼のために太陽が昇った」というのは、既に勝利が決定している計画が実行される時が来て、勝利する時が来たということです。

 その勝利とは何か。それは、エサウが自らヤコブに屈服し、カインとアベルの元がえしが成功することです。元がえしを成功させるヤコブは、堕落前のイーシュを超え、新しいイーシュとしての資格を持ったと言えます。ただ、ヤコブは生まれながらの新しいイーシュではありません。

 ヤコブは、股のつがいがはずれたために、びっこを引いていました。そのため、イスラエルの子孫たちは股のつがいの上にある腰の筋を食べません。

 




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