安息日の礼拝  創世記の真相
■創3:1-3:24■



 
創3:1
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
 『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』」

 
ヘブライ語原典は次のとおりです。「蛇は、主なる神が造られた野のすべての生き物より、ずる賢かった。彼(蛇)は女に言った。『本当に神が言ったか。お前たちはどの園の木からも食べるなと。』」

 ヘブライ語の「蛇」は、「魔術を使う。推測する」という単語の語呂合わせになっています。また「蛇」のヘブライ語には「輝いている」「輝くもの」という意味もあります。蛇が「這うもの」となるのは堕落した後のことですので、この段階の「蛇」は這うものではありません。
 この「蛇」の正体については、聖書の最後に収められている「ヨハネ黙示録」に記されています。

「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。」(黙12・9)

 神様は「初め(アルファ)であり終わり(オメガ)である方」ですが、聖書も初めから終わりまでを読まないと、初めの1行も理解できように書かれています。堕落して投げ落とされる前の蛇は、どんな存在だったでしょうか。それは預言者エゼキエルの書に記されています。

「お前はあるべき姿を印章としたものであり、知恵に満ち、美しさの極みである。お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉(こうぎょく)、紫水晶、かんらん石、縞めのう、碧玉(へきぎょく)、サファイア、ざくろ石、エメラルド。それらは金で作られた留め金で、お前に着けられていた。それらはお前が創造された日に整えられた。
 わたしはお前を、翼を広げて覆うケルブ(高位の御使い)として造った。お前は神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた。お前が創造された日から、お前の歩みは無垢(むく)であったが、ついに不正がお前の中に見出されるようになった。お前の取り引きが盛んになると、お前の中に不正が満ち、罪を犯すようになった。
 そこで、わたしはお前を神の山から追い出し、翼で覆うケルブであるお前を、火の石の間から滅ぼした。お前の心は美しさのゆえに高慢となり、栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし、王たちの前で、見せ物とした。」
(エゼキエル28・12〜17)

 エデンの園にいた蛇は、ケルブ(高位の御使い)であり、知恵に満ち、美しさの極みでした。「あるべき姿を印章としたもの」という「あるべき姿」とは「輝いている」姿のことで、その印章は「明けの明星(金星)」です。そのことは預言者イザヤの書に記されています。

「ああ、お前は天から落ちた、明けの明星、曙(あけぼの)の子よ。お前は地に投げ落とされた、もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。『わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂(いただき)に上って、いと高き者のようになろう。』と。しかし、お前は陰府(よみ)に落とされた。墓穴の底に。」(イザヤ14・12〜15)」

 そして、「蛇」が「魔術を使う。推測する」という単語の語呂合わせになっているのは、後に出エジプトの民が神様から与えられる律法の第9戒「隣人に関して偽証してはならない。」と関係があります。
「魔術」の意味はもともと「偽証」のことで、偽証とは、善を悪であるかのように、もしくは悪を善であるかのように、説くことです。言い換えれば、誤謬(ごびゅう)のことで、善を悪と偽り、悪を善と偽って、誤りを人に信じ込ませるのです。これが「魔術」の起源です。魔術とは、文字通り「悪魔の術(すべ)」のことなのです。
 言葉は本来、光であり命でありイエス様でした。その言葉を偽ることは、光に反する闇であり、命に反する死であり、イエス様に反する反キリストです。
 そうしてみると、ヘブライ語聖書に蛇のことを「主なる神が創られた野のすべての生き物よりも、ずる賢い存在」と記されている意味が、よく見えてくると思います。日本語訳がどうして「ずる賢い」を「賢い」としたかは不明ですが、「賢い」と「ずる賢い」は大きな違いです。

 蛇は女に言いました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と。まさしく、ずる賢い魔術です。神様は「園のどの木からも食べてはいけない。」などとは言われていません。蛇は、それを知った上で、あえて女に、こう言ったのです。それは、わざと偽りの言葉を投げかけることで、女が蛇に対して「付け入るスキがある言葉」を返してくることを、もくろんだのです。もし、女が少しでも神様の言葉とは異なる言葉を返してきたなら、それは神様に対して完全には忠実ではない女の心に付け入るスキがあるということだからです。
 蛇が、この言葉を女に投げかけたということは、この言葉を投げかける前に蛇はあらかじめ何かを企んでいたことになります。その企みは、「いと高き者のようになる」ことでした。しかし神様は、人の男(イシュ)と女(イシャー)がそれぞれに完成して一体になることで、神の子、つまり神様の後継ぎとするご計画でした。蛇は、その座に取って代わろうとし、さらには神のようになろうとしたのです。
 そのためには、蛇はすべてのものの父になる必要がありました。後に女が堕落して、人の母ではなく「すべてのものの母」=エバになるのですが、蛇は女と一体になることで、自分が「すべてのものの父」になることを、もくろんだのです。そうすることによって、蛇は人類すべての父となると同時に、人間だけではなくあらゆるすべての父になることができると思ったのです。



創3:2-3:3
「女は蛇に答えた。
『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』」

 
ヘブライ語原典では「すると女は蛇に言った。わたしたちは園の木の実から食べる。しかし神は言った。園の中央にある、その木の実から、お前たちはそれから食べるな。また、それに触れるな。お前たちが死なないために。』と」。

 神様は『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』(創2:16-17)と命じられまていましたが、女はこう答えたのです。

 園の中央には、命の木と善悪の知識の木の2本があります。神様が食べてはいけないと言われたのは「園の中央に生えている木の果実」ではなく、「善悪の知識の木」からだけです。また神様は「触れてもいけない」などとは言っておられません。
 この女の返答から、彼女自身が内心「食べたい、触れたい」と思っていたことがわかります。蛇は女の心にある隠された「食べたい」「触れたい」という欲求、また「本当に死ぬだろうか」という一抹の不信、疑惑、禁じられているものへの好奇心などに乗じたのです。そして、この女の「欲求」こそは、蛇が持っていた「いと高き者のようになろう」という欲求と同じものでした。
 この欲求は、神様への欲求ではなく、神様に歓ばれる欲求でもなく、神様に反する欲求という点で一致していました。
 
 蛇になぜ女の心の隙を知ることができたのでしょう。それは彼が創造の御業に関わっていた存在であることが考えられます。詳しくは後述します。

 ケルブは御使いであり、女は男と一体になって神様の跡取りとなるべき存在です。女がケルブに答える必要さえありませんでしたし、女の答え方はまるで彼女が本来、支配すべき蛇と対等か、それ以下の立場になることを望んでいるかのような答え方でした。女は、神様の言葉に異議を唱えるかのような蛇の言葉を退けもしませんでした。つまり女は、神様に異議を唱える蛇に気に入られようとし、支配すべき立場を離れて蛇に支配される姿勢を示したということでもあります。その欲求が彼女の返答に現れたのです。
 女は、単に神様の言葉に自分の判断や考えを混ぜただけではありません。神様がいかにも無理難題なことを強要しているかのような言い方で、あいまいな言葉を使い、蛇に媚びたのでもあります。
 その瞬間、蛇はつけ込みました。では女は蛇に、どのように答えるべきだったでしょうか。それはイエス様が教えて下さっています。

 「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。次に悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。さらに、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。するとイエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイ4:1-8)

 女は、イエス様のように神様の言葉を正確に答えて、神様に異議を唱える蛇を退けるべきでした。そうすれは蛇がつけ入る隙はなかったのです。
 多くのキリスト教徒たちは「蛇」の存在がなければ人は堕落しなかった、と解釈します。しかし、そのような解釈だと神様の創造に誤りがあったことになります。日本語聖書に太字の小見出しで『蛇の誘惑』と挿入されていることも原因のひとつと考えられますが、本来、聖書には小見出しはありません。蛇の誘惑よりも大きな問題は、神様に異議を唱える蛇を退けようとせず、女が自分の欲求で神様に背いて蛇に従い、蛇に愛され支配されることを願ったことです。蛇がどのように誘惑しようとも、それを支配する責任が人にはありました。女は支配すべき蛇に支配され、自ら蛇の奴隷となったのです。女は自らその道を選択したのです。



創3:4-3:5
「蛇は女に言った。
『決して死ぬことはない。
 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」

 
ヘブライ語原典では「蛇は女に言った。『あなた方は決して死なない。なぜなら神は知っている。神はあなた方が食べる日にあなた方の目が開かれ、あなた方が神のように善と悪を知っているものになることを」です。

 ここで、また重要な聖書の誤訳を指摘しておく必要があります。日本語で「善悪の知識の木」と訳されているヘブライ語の本来の正しい記述は「善と悪を知るための木」です。これだけを見ると大した違いは感じられないかも知れません。問題は、ヘブライ語の「知る(ヤーダー)」の意味なのです。
 ヘブライ語の「知る(ヤーダー)」の意味は「知識」ではありません。本当の意味は「性交(セックス)」「交わる」「交合する」です。単に肉体的に性交するだけでなく、精神的にも相手と一つになり、相手の本質と一つになることによって、本当の意味ではじめて相手を本当に知ることになるので、「性交」や「交合」を意味するヤーダーを「知る」という意味で用いるのです。
 このことは4章の最初に記されている言葉からも分かります。

「さて、アダムはエバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た。」(創4・1)

「知る」とは明らかに「性交」のことなのです。「知る」は人間の男と女にだけ使われるのではありません。後に2人の御使いがソドムを尋ねた時、ソドムの住人はこう言います。

「彼ら(2人の御使い)を私たちに出せ。わたしたちは彼らを知ろう。」(創19・5)

 この部分の「知ろう」は日本語訳では「なぶりものにしてやるから」と訳されています。しかしヘブライ語聖書に書かれているのは「知ろう」です。これも性交のことを意味しています。人と御使いが性交することができるかどうかについても聖書は記しています。ノアの洪水の前、創世記6章には、御使いたちが人間の女たちと交わり、その子孫たちによって地上に悪が満ちたことが書かれています。聖書には、御使いが人の姿で地上に現れることが各所に記されています。

 さて、「善と悪を知るための木」の「知る」も「性交」を意味する「ヤーダー」です。もちろん、その性交は単に肉体だけの性交ではなく、相手の本質と一つになることによって、本当の意味で相手を知ることです。
 では、「善と悪を知るための木」は何を意味しているのでしょうか。「善と悪を知るための木」から取って食べるということは、人間が神様のようになって善悪の判断をするようになるということです。それは人間が完成して、完成した男と女が一つになって神の似姿となることを意味します。完成した男と女が一つになって神の似姿となることは、何ら間違った事ではありません。問題となるのは、未完成の未熟な男と女が性交してしまったら、間違った未熟な善悪の判断をするようになってしまい、それは自らを不幸にするだけでなく、子孫たちすべてが不幸になり、そんな人間に支配される自然や生き物すべてが不幸になるということです。
 さらには、もし男と女が性交するのでなく、人ではない存在と女が性交したら、どうなってしまうでしょうか。もし蛇と女が性交してしまったら、蛇の善(本当は悪)、蛇の悪(本当は善)が全地に展開してしまうことになり、その子孫は善と悪が転倒した、倒錯の世界を生きなければならなくなるのです。
 それは恐ろしいことでした。だからこそ、神様は男と女が完成するまでは「善と悪を知るための木」から取って食べるなと命じられていたのです。男と女に与えられていた戒めは、たったこれ一つだけでした。他のことはすべて許されていたのです。

 こうして「善と悪を知るための木」の真の意味を知ると、女の欲求が蛇に対する性交の欲求を含んでいたことが分かるのです。女の欲求を見てとった蛇は、すかさず言いました。「あなた方は決して死なない。なぜなら神は知っている。神はあなた方が食べる日にあなた方の目が開かれ、あなた方が神のように善と悪を知っているものになることを」と。
 神様は、食べると必ず死んでしまう、と言われたのです。蛇は大胆にも、神様を否定してみせました。死ぬどころか、それを食べることによって目が開かれ、神のように善と悪を知っている者になる、と言ったのです。
 それはつまり、未熟な成長途上にある女が、蛇と性交すれば、一足飛びに神のようになれると、蛇は言ったのです。 
 蛇が言った、「それを食べると目が開ける」とは、どういうことでしょうか。それは、このすぐ後に書かれています。



創3:6-3:7
「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」

 ヘブライ語原典では「女は見た。その木が食べる善いことを。またそれが女の目を欲望させ、その木が賢くなるために好ましく映った。そして女はその実から取って食べた。そして彼女の(将来の)夫にもまた与えた。そして彼は彼女と共に食べた。」です。

 女の、蛇に対する性的な欲求が、如実に描かれています。また女は、性的欲求のみならず、蛇との交合によって知的な欲求をも満たすことが出来ると考えました。ここで注目すべきは、女が神の命令に背いて「自分の目」を信じ、「自分の目」が欲望するままに、見た目が「いかにもおいしそう」なことに引きつけられ、神様ではなく自分の目の欲求に従って食べたということです。
 女は蛇と性交しました。蛇と交わり、蛇の本質と一つになり、蛇と一体になりました。女は蛇の性質と一体になり、それを受け継ぎました。そうして蛇のようにずる賢くなった女は、将来の夫となるべき存在であったアダムとも性交しました。アダムを神様に背かせたのです。もちろんアダムは女の誘いを拒否して神様に従うべきでした。しかしアダムも罪を犯してしまいました。これによって蛇の性質は、アダムにも受け継がれました。
 2人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしました。
 かつては男と女は2人とも裸でも恥ずかしがってはいませんでした(創2・25)。幼い男の子、女の子は、裸でいても恥ずかしがったりはしません。それは、恥ずかしいということを知らないということでもあります。
 実は、この箇所は、よくよく見てみると、おかしなことに気付きます。2人が目が開いて、裸であることを恥ずかしいと思ったのであれば、裸を隠すはずです。ところが2人は、裸のまま、腰(ヘブライ語では局部の隠語)だけを隠しました。それは、局部を露わにしていることが恥ずかしいと思ったからだということです。
 2人は、目が開けて、局部を露わにしていることが恥ずかしい、と知ったのです。2人の局部は、神様に背いて罪を犯した部位でした。ということは、蛇が言った「目が開けた」というのは、悪の自覚のことなのです。2人は、神様に背いて罪を犯すこと=悪を知りました。もちろん、2人がお互いに完成してから一体となって神様のように善と悪を知ることは何の問題もないことでした。しかし、女は交わってはならない蛇と交わり、その上で今度は男とも交わったのです。これは姦淫でもありました。

 いちじくは日本語で「無花果」と書きます。いちじくは花が咲く前に実がなるように見えますが、実際には花があります。「いちじく」の葉で局部を隠したことで示唆されているのは、十分に成長する前に(花が咲く前に)実を結実させることで、それは十分に成長する前の未熟な性交を示唆しています。
 また、この罪は神と人との間を阻害することになりました。幼子は、親の前に裸であることを恥ずかしいとも思いません。それは幼子の意識の中に、自分と外部との間に何ら阻害するものがないからです。アダムと女の行為は、罪を犯した箇所を隠したのみならず、神様と人とのスムーズで円満な関係を、自分たちの自由意思によって神様に背いたことで断絶させたことでもあります。このことが、まさに「死」でした。
 女が神様に背いて蛇と交わった瞬間に女は死に、男が神様に背いて女(蛇と交わった女)と交わった瞬間に男は死んだのです。未完成の女が蛇と交わり、蛇と交わった女とアダムが交わって、2人が悪(罪)に対して目が開けるという、まさにそのことこそが、「死」でした。死んだのは肉体ではありません。肉はもともと塵にすぎませんから、そこに本来の「生」はないからです。肉体は「生」のための道具のようなものにすぎません。死んだのは、神様から吹き込まれていた息による「いのち」です。女と男は、神様に背いた瞬間に、神様との「いのち」のつながりを自ら断ち切り、それによって神様から吹き込まれていた息による「いのち」が死んだのです。

 こうして人は、善と悪の区別がつかなくなり、本当の愛が分からなくなり、神様が分からなくなり、自分が何ために生まれて何の為に生きるのかも分からなくなり、自分勝手な欲望、偽善の同情、自分勝手な正義感が入り混じった感情を、愛や義であるかのように錯誤して生きる存在となりました。
 神様から与えられていた「いのち」の息を失った人間は、生きているというのは名ばかりの死人となり、自分の目が善いと思うものに目を惹きつけられ、外見を飾る衣や、持ち物や、権力や財産を求め、肉欲を満たす食に惹かれ、それらを得るために金銭を欲求し、金銭を得るために人生を費やして富を求め、年老いて塵に帰るだけの空しい存在となったのです。
 また、「死」を知った人は、「死」を恐れるようになり、死への恐怖心から、やられる前にやる、といった敵対心が生まれ、人同士が殺し合うようになります。
 さらに恐ろしいことには、神様に背いて蛇に従った人間は、動物以下の野蛮な獣となりました。これが堕落の本質です。人は悪(罪)に目が開けてずる賢くなっただけでなく、蛇に支配される存在となりました。そのため人は、世と人を支配している蛇(サタン)から自力だけで逃れることはできません。自力だけでは神様とつながることもできません。
 

 さて、一方の「命の木」とは、どういうものなのでしょう。命というのは、神様が最初に創造された光=言葉=イエス様です。ですから、「命の木」から取って食べるということは、イエス様である本当の言葉=命から、それを得るということです。主の言葉こそ、命であり、人が自らを照らし他を照らす光なのです。「命の木」から取って食べるとは、命=真の言葉=光を得ることなのです。そして「命の木」は人が完成した姿でもあります。そして「命の木」には、「善と悪を知る木」と違って「知る」という言葉が含まれていません。命は知るものではないからです。
 完成した男と女が一体になれば、「善と悪を知るための木」から取って食べ、神様のように善と悪を知る者になったはずでした。そういう意味では、「命の木」と「善と悪を知るための木」は、完成した男と女を示しているとも言えます。
 ただし、罪を犯した人間がそのままで「命の木」の実を得ることはできなくなりました。罪を犯した人間は、自ら神様・イエス様との間を罪によって隔てました。罪を犯した人間は、「命の木」に至る道さえ分からなくなりました。また、罪を犯した人間がそのままで「命の木」の実を得ようとしても、それは許されません。命は永遠のものであり、罪の中にいるまま命を得てしまっては、罪が永遠のものとなってしまうからです。



創3:8-9
「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
 主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」
 
 
ヘブライ語原典では「そして彼らは、日中の風に従って園の中で歩き回っている主なる神の声を聞いた。人と彼の妻は、園の木の中央に、主なる神の顔から身を隠した。主なる神は人に向かって呼んだ。そして彼に言った。『お前はどこか』」です。

 日本語聖書では「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」とあり、人(アダムと訳されるイシュ)は神様の気配を感じて身を隠した、と理解しがちですが、そうではありません。主なる神は、人の姿が園中に見えないので、声を発しながら彼を呼んで園の中を歩き回られ、神様の呼び声を人とその妻は聞いて、隠れたのです。
 神様に背いて罪を犯した彼らは、神様の顔を避けて園の木の中央に隠れました。日本語訳聖書ではまったく分かりませんが、彼らは「園の木の中央」に身を隠しました。園の木の中央にあるのは、「命の木」と「善と悪を知るための木」です。
 2人が隠れたのはおそらく、神様から禁じられていた、まさにその「善と悪を知るための木」に隠れたのでしょう。それは、2人が身を隠せる場所が、そこしかなかったことを示しています。罪を犯した2人は、「命の木」には近寄り難かったでしょうし、他の木も神様が彼らのために生えさせられた、いわば神様の木ですから、近寄り難かったことが伺われます。罪を犯した人間は、神様や神様に関係があるものに近寄り難くなってしまい、隠れ、自ら遠ざかろうとすることがわかります。
 主なる神と人との関係は、かつてはスムーズで、円満で、何ら阻害するものがなく、彼らは裸でいても恥ずかしがりはしませんでした。しかし、神様に背いて罪を犯したことで、神様と人の間に阻害が生じたのです。人が、神様と自分との間に罪=悪という、「隔てるもの」を築いたからです。神様と人との間を隔てたのは、神様ではなく、人なのです。
 そして、人が作った障壁が、神様から人を見えなくしました。神様から見えなくなったのは、神様が人に吹き込んだ「命」です。2人は神様から吹き込まれていた「命」を失い、死んだので、神様からその「命」が見えなくなったのです。
  


創3:10-11
「彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』
 神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』」

 
ヘブライ語原典では次のとおりです。「すると彼は言った。『あなたの声を私は園の中で聞きました。そして恐れました。なぜなら私は裸だから、それで隠れたのです。』 すると主は言った。『誰がお前に、お前が裸であることを告げたのか。わたしがお前に食べないように命じた木から、お前は食べたのか。』」です。

 人は、ここでまず早速、自分が蛇から「ずる賢さ」を受け継いだことを証明してしまっています。人は、神様に対して、自分が隠れた理由を「わたしは裸ですから」と言い訳しました。
 裸でいても恥ずかしがらなかった人が、神様から隠れたのを「裸だから」と言い訳したのです。もっとはっきり言うならば、人は自分が隠れた理由を、神様に責任転嫁しました。人は、神様が自分を裸でいさせたからだ、と言っているのと同じです。
 人が罪を犯してから、神様に対して発した第一声が、自分の罪を隠して神様に責任転嫁したものでした。この責任転嫁こそ、人が蛇と女から受け継いだ悪しき性質で、神様はその人の第一声で、何があったかを理解したのです。そして人に、「誰がお前に、お前が裸であることを告げたのか。わたしがお前に食べないように命じた木から、お前は食べたのか。」と言われたのです。
 

 
創3:12-3:13
「アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』
 主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか。』
 女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』」
 
 ヘブライ語原典では「すると人は言った。『あなたが私と共にいるようにと(私に)与えたあの女が、彼女がその木から私に与えたから、それで私は食べたのです。』
 主なる神は女に言った。『お前がした、これは何か。』 すると女は言った。『蛇が私を欺いたのです。そして私は食べました。』」です。

 神様はアダムに、「誰がお前にお前が裸であることを告げたか。お前はわたしが食べないように命じたところのその木から、お前は食べたのか」と言われましたが、それに対して人は再び、こんどは神様と女のせいにし、責任転嫁しました。「あなたが私と共にいるように与えて下さったあの女が」と。まるで自分は悪くないと言わんばかりです。人のこの言葉には、悔い改める気持ちも見られません。もし、ここでアダムが神様に「私は罪を犯してしまいました」と、誰にも責任転嫁せず、隠さずにその罪を告白し、赦しと立ち帰る方法を神様に願い出ていたならば、その道があったかも知れません。ところが人は、自らの言葉でその道をも断ったのです。
 責任転嫁がいかに恐ろしいことであるかは、それが自らの責任ある立場を自ら放棄する行為であることから分かります。人は自分で、自分が神の後継ぎとして相応しくない存在であることを証明してしまいました。さらに、人は女の責任にしたことで、自分よりも女の方が責任ある立場だとしてしまい、自分を、蛇と交わった女以下の存在にしてしまったのです。「言葉」というのは、そういうものなのです。言っただけ、などと簡単に済ませることができないのが「言葉」なのです。「言葉」がすべてを表していました。
 神様は、女に「お前がした、これは何か。」と言いました。女は、自分が自分の目の欲望や、賢くなりたいという欲求から、蛇と「善と悪を知るための木」に欲情を抱き、自らの意思で神に背いて蛇と性交したにもかかわらず、「蛇が私を欺いたので、私は食べました。」と蛇に責任転嫁しました。それは女が、自分よりも蛇の方が責任ある立場であることを表明したということです。
 こうして、女は蛇に従う者となり、蛇に従う女に従う男となり、神様が創造された秩序は崩壊し、蛇が女を支配し、その女に男は従うという、サタン支配の世が展開されることになりました。



創3:14
「主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
 お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。』」
 
 
ヘブライ語原典では「そして主なる神は蛇に向かって言った。『お前はすべての家畜よりも、野のすべての生き物よりも呪われている。なぜならお前がした、このことのためだ。お前は、お前の生涯の日々、お前の腹の上で歩き(這いまわり)、そしてすべての塵をお前は食べる。

 主なる神が蛇に向かって言われた『このこと』こそ、蛇の本性を現わしています。ヘブライ語で「魔術を使う。推測する」という単語と語呂合わせになっている「蛇」の意味が。そして、蛇のその「偽証」の性質は、人と女に受け継がれました。人は神様に対して偽証し、女も神様に対して偽証したのです。
 蛇がだましたから女が食べたのではありません。女が蛇に対して欲情して、神様に背いて自ら食べたのです。神様は、蛇=知恵と光のケルブを悪なるものとして創造されたのでもありません。
 悪=罪は、蛇と女の「間」に生じたのです。そして、蛇と性交した女と、男との「間」に、悪=罪が生まれました。悪=罪を創ったのは神様ではなく、人だったのです。日本的な言い方で言うと「間」というのは「縁」です。 蛇がした「このようなこと」のゆえに、蛇は「呪われているもの」となり、知恵と光のケルブであった蛇は、腹の上で這いまわり、すべての塵を食べるものとなりました。
 しかし、ここでよく考えて頂きたいのです。蛇は塵を食べません。にもかかわらず、神様は蛇に「すべての塵をお前は食べる」と言われました。塵とは、アダムのことでした。アダムと訳されているのは「塵」という言葉です。塵とは、「命」を失って肉にすぎなくなった人のことなのです。そうです、蛇が塵を食べるというのは、サタンが地に堕とされて人を食いものにするようになる、ということなのです。
 それは、人は悔い改めて神様に立ち帰り「命」を得ないかぎり、塵にすぎない肉体を自分として暮らすならば必ずサタンの餌食となることを意味しています。人は、神様に立ち帰らないかぎり、塵にすぎない人間として肉体がある間はサタンに支配され、死後も陰府(よみ)で苦しみ続けることになるのです。



創3:15
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」

 ヘブライ語原典では次のとおりです。「わたしは、お前と女との間に、またお前の子孫と彼女の子孫との間に、敵意を置く。彼はお前の頭を砕く。そしてお前は彼のかかとを砕く。」です。

 神様の裁きは公平です。神様が蛇と女の間に敵意を置かれる理由は、蛇と女との間に本来あるはずのない結びつき(ありえない性的、知的な好意)があったためです。神様が創造された世界は、男と女が愛によって結ばれて、その子孫たちが愛によって育まれるという、秩序によって保たれるはずでした。しかし、蛇と女が、愛ではなく欲情によって交わり、男も姦淫に加わり、神様が創造された愛の秩序を破壊しました。
 神様が、蛇と女との間に敵意を置かれたのは、神様が怒りによってされたことではありません。蛇と女の欲情から生じた好意(言い換えれば、打算による好意)を維持したまま、そこから生まれる子孫たちは、悪と欲情、打算にまみれた者ばかりとなり、主なる神が創造された世界は破壊の一途をたどることになり、誰一人神様に立ち帰る人がいなくなってしまいます。
 また、神様は、蛇と人と女とを滅ぼして、あらたに創り直すことも、おできになりました。しかし神様は、そうされませんでした。それは神様が愛であることの証拠です。神様は、彼らを見捨てるのではなく、彼らが本来の姿に立ち帰る道を用意されたのです。
 神様は、蛇と女との間に置かれた『敵意』によって、女が神様に立ち帰る道を創られると同時に、女がその敵意によって自ら蛇を憎むようにされたのです。
 神様は、蛇と女との間だけでなく、蛇の子孫と女の子孫との間にも敵意を置かれました。「蛇の子孫」という表現は、御使いは子孫を持つことが出来ないので、女の子孫に蛇の性質が遺伝されることを意味します。女の子孫は、女が蛇と交わり、その後に人とも交わったことによって、その双方の遺伝子を継承します。
 そして神様は「彼はお前の頭を砕く。そしてお前は彼のかかとを砕く。」と言われます。実は、人と女の子孫に「かかと」という名の人物が生まれるのです。「かかと」はヘブライ語で「ヤコブ」と言います。
 この「ヤコブ」は、何があっても神様に忠実に、ありとあらゆる艱難辛苦を乗り越えて、神様の愛と知恵によって人にも御使いにも勝利して、遂にサタンの頭を砕き、神様から「イスラエル(勝利者)」という名を与えられる人です。ただ、ヤコブが蛇に勝利した要因で大きなものは、彼の母リベカの存在です。リベカの蛇に対する敵意です。リベカについて詳しくは、後に述べることにします。
 ヤコブはやがて12人の子をもうけます。この12人がイスラエル12部族の長となり、彼らから「主の民」が生まれていくのです。ヤコブに頭を砕かれたサタンは、「主の民」以外の世のあらゆる諸国民を支配し、その力によって「主の民」を砕こうとします。そしてサタンは、主の民を砕くのです。
 主の民もサタンの頭を砕こうとしますが、主の民が蛇の頭を砕くことは多くはありません。ヤコブの子孫にダビデが出て、その子孫にイエス様が来られるのですが、実は女の蛇に対する敵意が重要なのです。蛇の頭を砕くには、ヤコブの母リベカ、ヤコブの子ユダの子を産むタマル、捕囚されたイスラエルの民を帰還させることになるエステルたちに見られるように、女の蛇に対する敵意こそが、人がサタンに勝利するための大きな鍵を握るのです。
 「蛇の子孫」と「女の子孫」は、その敵意によって人類歴史をつむいでいきます。イエス様は「蛇の子孫」のことを「まむしの子ら」と言っています。そして、それは現代にも続いているのです。

創3:16
 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め 彼はお前を支配する。


 ヘブライ語原典では「主は女に向かって言われた『わたしはお前の妊娠(つわり)の苦痛を増しに増そう。お前は苦しみの中で息子たちを産む。そしてお前の強い欲求(熱望)がお前の夫に(向けられ)、彼はお前を支配する」です。

 このことから、本来は女の産みの苦しみは、大きなものではなかったことが分かります。しかし、罪=悪を犯したことにより、女の「はらみの苦しみ」が増されたのです。そして、その後に一見すると前後が関係していない別のことであるかのような言葉が続きます。「お前は男を求め 彼はお前を支配する。」と。
 神様がこう言われているのは、実はこの2つのことが同じことを示しているからなのです。
 「はらみの苦しみ」は、表面的には「つわり」や出産時の肉体的苦しみのことです。しかし、神様が言われているのは、単に肉体的な苦しみのことだけではないのです。
 本来、人はそれぞれに男として女として成長して完成し、父である神様に祝福され、御使いたちにも、大自然からも喜ばれて、何の思い煩いもない平安と、新しい生命の誕生を待ち望む幸福感に溢れた中で、妊娠し、出産するはずだったわけです。特に女にとっては、対等な関係を円満に築いている男から切望され、強く熱望されて妊娠し、父なる神様に祝福された中での妊娠と出産は、幸福の極みと言っていいでしょう。
 ところが女は、蛇と性交した罪を、できればなかったことにしたいかのように、未熟なまま男を求め、性交したのです。そこに愛はありません。神様の祝福も、御使いたちや大自然の喜びもありません。そんな中で女は、不安に満ちた妊娠をし、生まれてくるこの将来を喜びと不安とが入り混じった状態で、出産することになるわけです。
 未熟な男も、どうしていいか分からないでしょう。男も自分と家族の将来に、喜びと不安が入り混じった状態です。
 そのような精神状態が、つわりに影響し、出産に影響しないはずがありません。

 そして、「はらみの苦しみ」には、もう一つ別の意味があります。それは人を再び、創造本来の男と女とに立ち帰らせ、罪のゆえに損なわれた天地創造の本来の秩序を、取り戻させるという意味の「はらみの苦しみ」です。つまり、それは神様のご計画を表しています。イザヤ書66:7-9に次のとおり記されています。

 「産みの苦しみが望む前に彼女は子を産み 陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。誰がこのようなことを聞き 誰がこのようなことを見たであろうか。一つの国が一日で生まれ 一つの民が一度に生まれえようか。 だが、シオンは産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ。
 わたしが、胎を開かせてなお 産ませずにおくことがあろうか、と主は言われる。子を産ませるわたしが 胎を閉ざすことがあろうかと あなたの神は言われる。」
 
 本来、人は成長して完成し、産み増えて、神様が創造されたありとあらゆるものを愛と知恵によって正しく治め、創造物すべてが豊かさと幸福に満たされるはずでした。ところが、女は御使いの長(蛇)と罪を犯し、女と男も罪を犯したことにより、天も地も本来の在るべき状態を失い、大きく揺さぶられ、あらゆる不幸が展開することになりました。
 しかしながら神様が、罪を犯した蛇と女と男に語られたこの言葉から、神様がこの瞬間から彼らを立ち帰らせて創造本来の世界を取り戻すという、強い決意が分かるのです。
 神様は、罪を犯した蛇と女と男を滅びにまかせて、あらためて創り直すことも、もちろん、おできになるのです。しかし神様は、そうしようとはされません。なぜなら、それは神様が愛の神様であり、完全なお方だからです。神様は愛ゆえに、蛇と女と男を滅びにまかされませんでした。そして愛ゆえに、彼らを立ち帰らせるのです。
 ただ、神様がいかに彼らを立ち帰らせようとされても、蛇には立ち帰るつもりは毛頭なく、罪を犯した男と女が創造本来の姿に立ち帰ることは容易なことではありません。実際、罪を犯した張本人であるアダムとエバは、たとえ罪を償ったとしても、元のまっさらなアダムとエバになることは不可能です。
 では、彼らの子供たちなら、どうでしょうか。罪を犯した2人から、残念ながら罪のない子は産まれません。罪を犯した父と母の遺伝子を受け継ぐからです。いいえ、父と母の罪だけではありません。蛇の罪と、その性質をも子供たちは遺伝子に受け継ぐことになったのです。
 では、罪の遺伝子の中から、どうしたら元のまっさらな創造本来の人間が産まれて来る余地があるでしょうか。
 それは、ただ一つ。アダムとエバと蛇の、逆をすることです。遺伝子の中に罪を受け継いだ子が、何の罪も犯さず、それどころか父アダムと母エバの罪を負わされて、何の罪もないその子が両親の罪を償い、さらには蛇を支配することによって、創造本来の世界を取り戻す余地があるのです。
 もちろん、その子がそれを成し遂げることは並大抵のことではありません。それに、もし、アダムとエバの子がそれを成し遂げられなかったら、さらにその子がそれを成すことになり、その場合は祖父母にあたるアダムとエバの罪だけでなく、両親が成し遂げられなかったことや、両親がさらに罪を重ねてしまったら、その罪さえも背負うことになるのです。それが何代も続いて成し遂げられなかったら、どうなるでしょう。人がそれを何遂げることは奇跡と言っていいでしょう。それは、まさに産みの苦しみであり、孕(はら)みの苦しみです。
 そして神様は、このことを女に語られたのです。女の役目は重要です。自分たちが犯した罪の償いを、わが子に負わせる上に、わが子にとてつもない苦労を強いることになるのです。しかし、それは自分が罪を犯したからです。それができる女がいるでしょうか。いたら、それも奇跡と言っていいかも知れません(しかし、それを成し遂げる女は現れるのです)。
 ユダヤ教やキリスト教の男尊女卑的な思考のせいで、聖書に登場する女たちの奇跡的な功績は、見落とされがちです。しかし、その女たちがいなかったら、人が神様に立ち帰ることはできません。
 
 「お前は男を求め 彼はお前を支配する。」について考えてみましょう。
 男が「助け手」としての女を求めた時のことを思い出してみましょう。
男はあらゆる生き物の中で助け手を見出すことができませんでした。しかし、ついに自分の骨の骨、肉の肉である女をして初めて、助け手として求めるべき相手だと分かります。もともと最初、男が女を求めたのであり、女が男を求めたのではありませんでした。それが神様の御意向でもありました。男に求められる女は幸せです。なぜなら、男はその女を「唯一の助け手」として必要とし、2人で一体の存在であることを認識しているからです。その男は女を愛しても、支配しようなどと考えもしないでしょう。そこには争いもなく、女たちは子々孫々に平安の中で家族の幸せを謳歌するはずでした。
 しかし、女は、その約束された幸せを自ら放棄しました。その後の女たちの苦しみはソドム・ゴモラや他の町々の様子から理解できます。女たちは男たちに蹂躙され続け、男たちは争って殺し合い、女を奪い、そこに家族の平安などありません。そのような中、女はより強い男を求め依存して生きるようになり、女は保護や保証を男に求め、依存すればするほど、男は女を支配するようになりました。この図式は現代も何ら変わることがありません。

 後に聖書には、女が男に依存し保護を求めるようにして、イスラエル国がが強国に助けを求めて支配されるという歴史が展開します。「女」は主の民全体の象徴でもあります。イスラエルの民は、神様を信頼せず、女が男を求めるように強国アッシリアに助けを求めようとし、その結果アッシリアに支配されて捕囚されてしまいます。アッシリアの次に登場するバビロニアに助けを求めるとバビロニアに支配され、エレミヤの時代にはエジプトに助けを求めたりします。その姿は、まさに「姦淫の女」です。バビロニアはやがてメディア・ペルシャに滅ぼされます。そのとき、ペルシャの王に目を付けられて王女となった主の民の女が、エステルです。エステルは蛇の頭を砕きます。それによってペルシャはイスラエルの民を解放し、帰還させることになるのです。このエステルの功績も、ユダヤ教やキリスト教では軽視されてきました。エステルの他にも、人が神様に立ち帰る道を開いた女たちがいるのです。



創3:17
 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。


 ヘブライ語原典では「主はアダムに言われた。『お前はお前の妻の声に聞き従った。そして、わたしがお前に、お前はその木から取って食べるなと言って命じたその木から、お前は食べた。お前のゆえに土地は呪われている。お前はお前の生涯のすべての日々、お前は苦痛の中でそれを食べる。」

 日本語訳とヘブライ語原典では、少しニュアンスが違っているのがお分かりになると思います。日本語訳では、男が女の声に従って、取って食べるなと神様から命じられていた木から食べたので、土が呪われることになり、そのために男は生涯、食べ物を得ようと苦しむ、という内容になっています。
 しかしヘブライ語原典では、男は食べ物を得ようとして苦しむのではなくて、男は苦痛の中で「それ」を食べる、という内容なのです。問題は「それ」が何を指しているか、です。「それ」が食べ物のことを指しているのなら、日本語訳のようになります。しかし「それ」が「善と悪を知るための木の実」のことを指しているとしたら、男は苦痛の中で「善と悪を知るための木の実」を食べる、という意味になるのです。
 どちらが正しいのでしょうか。「善と悪を知るための木の実」を食べたために、土地が呪われて、食べ物を得るために苦しみのでしょうか。「善と悪を知るための木の実」を食べたために、苦痛の中で「善と悪を知るための木の実」を食べることになるのでしょうか。
 ヘブライ語原典は、明らかに後者だとしているのです。
 もちろん、本来は完成した正しい人間に正しい愛と知恵で支配されるはずだった土地が、愛も知恵もない正しくない人間に対して、本来の実りを提供しなくなるということは事実でしょう。その意味でも、間違っているとは言えません。
 しかし、それは「食べる」という肉欲を満足させるのに苦労するという、物質的な面だけのことでしかありません。それも一面の事実であるでしょうが、もっと本質的なことを神様は言われているのです。
 男は苦痛の中で「善と悪を知るための木の実」を食べる、という意味は、それを食べることが苦痛だということです。本来、人は成長して完成してから、その木の実を取って食べることは喜びであったはずです。ところが、完成された判断力も持ち合わせない未熟な男が、神様に背いて、蛇と女を経由して食べた「それ」は、歓びどころか混乱と苦痛をもたらしました。
 「それ」を食べた男は、何が本当の善で、何が本当の悪か、分からなくなってしまいました。そのため、彼の子孫となる男たちは皆、生涯の日々、何が本当の善で、何が本当の悪か、分からないまま、ものごとを判断していかなければならず、誤った判断もしてしまい、その結果として苦痛を味わうことになります。生涯の日々、死ぬまで、何が本当の善で、何が本当の悪か、分からないまま、ほとんどの男が生涯を費やすのです。
 呪われている土地は、物質の土地であると同時に、物質だけでなく霊的・精神的なあらゆる実りをもたらす土壌のことも意味しています。神様に背いて女の声に従い、その木から取って食べたことにより、祝福されていた土壌が呪われている土壌となったのです。
 男は、何が本当の善で、何が本当の悪か、求めても求めても、その土壌はそれを提供してはくれません。そして、自分が食べた、誤った善と誤った悪の実を食べて苦痛を味わいます。何が本当の善で、何が本当の悪かを知らないでは、子供を正しく導くこともできません。さらには、そういう自分を妻や子供の前で認めなければならないことも苦痛でしょう。

 さて、「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。」という言葉から、本当は男は女に従ってはいけないのだ、という誤解が生まれ、ユダヤ教やキリスト教の男尊女卑の原因の一つとなりました。しかし、神様は男に、何でもかんでも女の声に従ってはならないと言っているのではないことは明白です。女が正しいことを言っているなら、正しい声に従うことは間違いではありません。
 神様は、男が神様が命じた声には従わず、蛇と罪を犯した女の声に従ったことを問題視されているのです。

 

創3:18-19
 お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。 お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」


 ヘブライ語原典は「そして、それはお前のために、棘のある花と棘のある多種の植物を芽生えさせる。そしてお前は野の草を食べる。お前は、お前が土に帰るまで、鼻の汗の中でパンを食べる。なぜなら、お前は土から取られたからだ。お前は塵。だからお前は塵に帰る」です。
 
 これも物資的な側面だけの意味だと、土が茨とあざみを男に対して生えいでさせるので、男は死ぬまで鼻の頭に汗しながら苦労してパン(食べ物)を得ることになった、という表面的な意味だけになってしまいます。
 神様が言っておられるのは、そういう表面的、物質的なことだけでなく、むしろもっと重要なことです。
 日本語訳で「茨」と記されている言葉のヘブライ語は、七十人訳聖書のギリシャ語「アカントス」、あざみは「トリボロス」です。それらは必ずしも、茨、アザミのことだけを意味するのではありません。アカントスは「棘のある花」という意味で、トリボロスは「棘のある多種の植物」という意味です。
 アカントス(棘のある花)には様々な種類があり、アカンサス、アラビアアカシア、ハリエニシダなどがあります。面白いことに、これらの花は、まるでブドウの房のような形をしているのです。そして棘(トゲ)があります。
 トリボロス(棘のある多種の植物)は、オニビシ、ハマビシ、セリ科の一種を指します。オニビシの実は、イチジクの実に似ていますが、棘があります。
 いずれも繁殖力が高く、すぐに地面を覆い隠すほどに成長する植物です。いずれも美しい花を咲かせ、人の目を引きよせ、好奇心をそそられる植物ではありますが、その花や実を取ろうとする人の手を棘によって深く傷つけることも少なくありません。

 蛇と女と男が罪を犯したことにより、この地上には誤謬(ごびゅう)、偽証が入りこみました。その地で人が、何が本当の善で、何が本当の悪かを判断できる正しい知恵や知識を求めることは、苦難の道です。多くの人は、肉体を養うための糧を得るために鼻に汗して働く毎日で、それどころではありません。しかし、何が本当の善で、何が本当の悪かを判断できる正しい知恵や知識を得ないことには、自分の肉体を養うことも、妻や子を養うことも、容易ではないはずです。
 苦労して、やっとブドウやイチジク(真の愛や知識・知恵)を見つけたと思っても、それが誤りであることも、しばしばです。偽りの教えを信じて振り回されてしまったり、大きな傷を負ってしまうことも少なくありません。
 つまり、茨とあざみと訳されている、棘のある花と棘のある多種の植物というのは、神様の真の愛や知恵・知識を容易には見つけ出すことができなくなる、繁殖した偽りの教え、誤った思想、誤謬などのことなのです。
 教会に通ったり、聖書を呼んだことがある人は、イエス様が言われた次の言葉をご存知かも知れません。

 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」(マタイ7:15-16)

 この言葉の本当の意味は、ぶどうに似た房のある花で人を引きつけるアカントスから本当のぶどうが採れるだろうか、イチジクに似た実をつけるトリボロスから本当のイチジクが採れるだろうか、という意味なのです。
 ブドウに似せてはいても本当のブドウではない偽物、イチジクに似せてはいても本当のイチジクではない偽物を、見分ける目が開いていなければ、本物か偽物かが分からないのです。ブドウだ、イチジクだと思って手を伸ばすと、その棘に傷つけられてしまいます。それは人の目を引き付け、好奇心や欲を満たしてくれるように思われ、サタンの罠ともいえます。
 問題は、本物と偽物を見分けることができる目や耳が自分にあるかどうか、なのです。
 この土(世)を覆うアカントスとトリボロスは、世にもたらされた誤謬(ごびゅう)、そして世に繁殖する誤謬のことなのです。その中から、本物(狭き門)を見つけるには、鼻に汗して苦労して苦労して、ようやく見つけ出すことができるものであって、多くの人はアカントスやトリボロスに騙されて傷つくのです。そして、傷つき苦難の果てに、ようやく食べることが出来るパン、それは神様の御言葉です。
 それを得ることができた人は「いのち」を得ることができますが、ほとんどの人がそれを得ることができないまま、あるいはそれを得ることをあきらめて、あるいはアカントスやトリボロスに騙されて傷つき、塵に帰っていきます。
 
 こうして人は神様の知識・知恵がもたらせる木を見つけること、真理に至る道を見つけることが困難となってしまいました。が、反面では罪を犯した人間が悔い改めることもなく、簡単に真理に至る道を見つけることがないように、アカントスやトリボロスを神様が生えさせられたのです。それは、鼻に汗して苦労して苦労して求める人こそが、その道を歩む過程で悔い改めて罪を浄化して、それによって目と耳が開かれ、本物のブドウやイチジクを見分けることが出来るようになり、その実を食べて、神様の元に立ち帰ることができるのだということを示しているのです。マタイ7:7-8に次のようにあります。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。」

 イエス様が言われた「求めなさい。」とは、教会が教えるような「祈り求めなさい。」という意味ではありません。それはイエス様が「探しなさい。」と続けておられることからも明らかです。
 イエス様が言われた「求めなさい。探しなさい。」とは、アカントスやトリボロスに覆われた世の中で、本物の神様の御言葉を見つけ出しなさい、ということです。そしてイエス様は、そのためには「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者(預言書のこと)である。」と言われ、そして続けて「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」と言われ、先に引用した「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」と続くのです。
 こうして、きちんと聖書を読み、イエス様の言葉を見ると、イエス様が「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」と言われているのは、祈りなさいということではなく、狭き門を求め探し出して、その門をたたきなさい、と言われていることが明らかになるのです。
 そして、偽預言者は誰にでも門戸を開いている広い門の中にいて、アカントスやトリボロスを実らせているのです。
 その実が、本物のブドウなのか、イチジクなのか、見分けることは容易ではありません。目と耳を開いていないと、見分けることはできないからです。

 罪を受け継いでいる私たちが、本当の神様の御言葉を見つけ出すことは容易なことではありません。
 堕落して以来、蛇は地上を這うものとなりました。私たちが住むこの世は、天から落とされた蛇(サタン)と、彼と取り引きした御使い(悪霊)たちがうごめく世界となり、サタンと悪霊たちが地上を支配し、人間が神様に立ち帰ることを妨げています。そして人間を、偽りの教え(偶像崇拝の宗教や、無宗教の共産主義、民主主義、金で支配する資本主義、あらゆる思想など)や、偽りの管理システム(金銭による取引システム)で支配しています。 人は本来、神様から天と地の支配権を与えられていたにも関わらず、サタンに従ったため、サタンがそれを横取りし、サタンは金銭(富)によって人を支配しています。人が富を求めるように仕向け、富を求める人間を支配するシステムを世に構築しているのは、蛇(サタン)にほかなりません。
 富を求める人は、塵にすぎません。塵にすぎない人は「いのち」を得ることができないまま、塵に帰るだけです。
 


創3:20
 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

 ヘブライ語原典は「人(アダム)は、彼の妻の名前をエバと呼んだ。なぜなら彼女は、すべての生き物の母であった。」です。

 アダムは最初、彼の妻の名前を「イシャー」と呼んでいました。イシュ((男)から取られたものだから、イシャーと呼ぼう、と、彼自身が名付けた名前でした。
 しかし彼は、妻が蛇と交わった後、妻をエバと名付けました。それは妻が、人間の母であるだけでなく、すべての生き物の母となったからです。それは何を意味しているでしょうか。
 女は本来は男と夫婦になって、子を産み、人間だけの母となるはずでした。ところが女は、人間以外のあらゆる生き物の頂点に君臨していたケルブ(蛇)と交わったことによって、人間の母であるだけでなく、人間以外のあらゆる生き物の母にもなったということです。
 聖書では、神様に立ち帰らない人間のことを「獣」と表現しています。それは、神様に立ち帰らないならば、人は動物にすぎない、という意味です。いいえ、蛇に支配された人間は動物以下です。エバは、獣の母にもなってしまいました。
 私たちは、神様に立ち帰らないかぎり、本来の生を全うすることはできません。誰が悪いのでもなく、自分自身の中にある神性と堕落性を認識する必要があります。そして、自身の堕落性を排除し、神性を磨き出さなければなりません。



創3:21
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

 
ヘブライ語原典は「主なる神はアダムのために、また彼の妻のために皮の衣を造られ、彼らに着せられた。」です。

 人は罪を犯す前、裸でいました。それは彼らが幼かったからであり、知識や知恵に未熟であり、無垢だったからでもあります。ただし、2人は成長し、完成してからも、ずっと裸で過ごすはずだったか、というと、そうとはかぎりません。
 というのは、聖書の後の記述を見ると、サタンに勝利して神様に立ち帰った人には神様から「晴れ着」や「白い衣」が与えられることが約束されているからです。

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」(黙示録2:5)

「見よ、わたしは盗人(ぬすびと)のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身につけている人は幸いである。」(黙示録16・15)

「御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。『彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。』また、御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」(ゼカリヤ3・4)

「イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9・2〜3、マタイ17・1〜9、ルカ9・28〜29)

「(天の国の)婚宴は客でいっぱいになった。王(イエス様)が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。(マタイ22・10〜14)

 
イエス様も裸で過ごしたわけではありませんでした。イエス様は衣の四隅に房のある着物を着ていました。あるとき12年もの間、医者も治せなかった出血を患う女が、イエス様の服の房に触れて直ちに出血が止まるという出来事がありましたが、この房がある衣は律法で規定されていた衣服のことです。そして、それはイエス様の肉の衣であって、イエス様の本当の衣は白く輝く衣でした。

 この他にも、衣の重要さはノアの場面やサムソンの場面でも登場します。

 こうしてみると、聖書の記述から、アダムと彼の妻が成長を遂げて天地と万物を神の子として支配統治できるようになったあかつきには、神様は彼らに皮の衣ではなく、別の衣(輝く白い衣、晴れ着)を着せてエデンの園を送り出そうとご計画されていたことでしょう。

 
神様がアダムとその妻に皮の衣を着せられたのは、なぜでしょうか。
 アダムと妻は罪を犯したために、白い衣・晴れ着は与えられません。そして、彼らは罪を犯したためにエデンにいることができなくなり、エデンから追い出されることになります。
 エデンの外には、アダムとエバ以前に創造された人間たち(神様の息吹がまだ吹きこまれる前の人間たち)がいます。科学が解明しているところによると、彼らは狩猟民族であり、獣の皮を着ていました。さらに後の聖書の記述では、アダムとエバの長男カインが親元から追放されることになったとき、その人間たちに殺されることを恐れる記述があります。
 これらの記述から、アダムとエバがエデンから追い出されて、神様の息吹をもたない人間たちの中に送り込まれることに当たり、彼らと同じ獣の皮を着せることで、彼らと見分けがつかない同じ人間として、殺されないで生きることが出来るようにとの配慮であることが、まず考えられます。
 もう一つは、彼ら自身が、罪を犯したために、神様から息吹を吹き込まれていない人間たちと変わらない、あるいはそれ以下の存在となったことも示しています。ただし、神様から息吹を吹き込まれていない人間たちとは異なる面もあります。アダムとエバは、もともとは神様から息吹を吹き込まれていたこと、そして善と悪を知る木の実を食べていることです。その点でアダムとエバは、神様から息吹を吹き込まれていない人間とは異なります。
 


創3:22-23
「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。』主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土地を耕させることにした。」

 
ヘブライ語原典では「そして主なる神は言われた。『見よ、人は(善と悪を知るための木の実を食べたことによって)善と悪を知って私たちの中の1人のようになった。今、人が命の木にその手を伸ばさないように、そして命の木からも取らないように、そして食べないように、そして永遠に生きないようにしなければ。
 主なる神は、彼がそこから取られたところの土地を耕すために、エデンの園から彼を送った。」です。

 まず「我々の一人のように」という「善悪を知る我々」というのは、創世記1章26節の「我々」と同じで、神様とイエス様です。あるいは聖霊も含んでいるかも知れません。ただ、アダムとエバが知った善悪は、神様やイエス様が知っているそれとは違います。我々と同じ、ではなく、我々の1人の「ように」なったのです。「ように」というのは同じではない、ということです。そのことは、ヘブライ語原典だと、よく分かります。日本語訳の「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。」というのと「人は善と悪を知って私たちの中の1人のようになった。」というのとでは、ニュアンスが異なるからです。
 
 
次に、神様は彼らが命の木からも取って食べないように、エデンから追い出します。命の木の実は、もともと食べてはいけないと命じられていませんでした。ですから取って食べてもいいはずですが、どうして取って食べてはいけないのでしょうか。命の木がイエス様を表しているのなら、罪を犯した2人はイエス様によって罪を贖われ、罪を赦され、神様に立ち帰るためには、むしろ食べるべきではないでしょうか。
 教会が教えているところに従えば、そうなるはずです。しかし実際には、神様は罪を犯したアダムとエバが命の木から取って食べないように、2人をエデンから追い出すのです。さらには、2人はその後いくら悔い改めても生涯、エデンに戻ることはできませんでした。

 未熟なまま蛇と交わった女と、その罪の女と未熟なまま交わったアダムは、そのままで命の木からとって食べ、永遠に生きる者となってしまったら、どうなるでしょうか。罪そのものが、命を得て永遠のものになってしまうのです。それだけは何としても阻止されなければなりません。
 罪が命を得て永遠のものとなってしまったら、神様が創造された世界から、罪が無くなる可能性はなくなってしまいます。罪は本来、神様が創造された世界にはなかったものです。ですから、無くならなければなりません。罪が無くならなければ、人が神様のもとに立ち帰ることもできないのです。
 ですから、罪を犯した人間がそのままで「命の木」の実を得ることはできません。ということは、罪ある人間が、自分では何もしないで罪をそのままにしたままでイエス様に贖われる、ということは、あり得ないのです。イエス様の贖いは、本人が罪を悔い改めて、自分を葬って新しく生まれ変わり、本人がサタンに勝利して礼服(白い服・晴れ着)を与えられないかぎり、ありません。 
 
教会では、神様は憐れみ深く、恵み深い方なので、人の罪を赦されると言われていますが、それならなぜ、アダムとエバはエデンの園を追い出され、その生涯、エデンの園に戻れなかったのでしょうか? この事実は、罪を犯した人が、罪あるまま神様の元に立ち帰ることができないことを表しています。罪を犯した人が聖なるものに触れて神様に打たれた例は、聖書に少なくありません。

 「主はベト・シェメシュの人々を打たれた。主の箱の中をのぞいたからである。」(サムエル上6:19)
 
 「アロンとその子らが、宿営の移動に当たって、聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後、ケハトの子らが来て運搬に取りかかる。彼らが聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない。」(民数4:15)

 「一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして(主の)箱をおさえようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。彼はその場で、神の御前で死んだ。」(歴代誌上13:9-10)

 「アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。
 モーセがアロンに、『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を表そう』と主が言われたとおりだ」と言うと、アロンは黙した。」(レビ記10:1-3)

 「彼は共同体に言った。『この神に逆らう者どもの天幕から離れなさい、彼らの持ち物には一切触れてはならない。さもないと、彼らの罪のために、あなたたちは滅びる。」(民数記16:26)

 「ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。
 ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香を焚こうとした。祭司アザルヤは主の勇敢な祭司八十人と共に後から入り、ウジヤ王の前に立ちはだかって言った。『ウジヤよ、あなたは主に香をたくことができない。香をたくのは聖別されたアロンの子孫、祭司である。この聖所から出て行きなさい。あなたは主に背いたのだ。主なる神からそのような栄誉を受ける資格はあなたにはない。』 香をたこうとして香炉を手にしていたウジヤは怒り始めたが、祭司たちに怒りをぶつけている間に重い皮膚病がその額に現れた。それは主の神殿の中にいた祭司たちの目の前、香の祭壇の前の出来事だった。祭司長アザルヤと祭司たちは皆彼の方を向いて、その額に重い皮膚病ができているのを認め、直ちに去らせた。彼自身も急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。」(歴代誌下26:15-20)

 アダムと女は、罪を赦されることなく、エデンから追い出されました。一見、神様は冷酷なように見えますが、神様が罪に寛容であったとしたら世界は罪で満ち溢れてしまいます。神様は冷酷なのではありません。神様がそうされたのは、罪を永遠のものにしないためであり、むしろ人が罪を克服してエデンに立ち帰ることができる道を備えられるためだったのです。
 
神様は罪を犯したアダムと女を滅ぼし、新たに別の人にその息吹を吹き込むこともおできにならなかったわけではありません。しかし神様は、そうされませんでした。神様は、人が、自分が犯した罪を、自分で贖い、エデンに戻ることが出来るように、そのためにエデンから追い出されたのです。彼らが獣の世で滅ぼされないように、皮の衣を着せて送り出したのです。人がいつの日にか罪を克服し、サタンに勝利して、神様の元に立ち帰ることができるように。
 それこそが本当の愛なのです。本当の憐れみなのです。もちろん、罪を犯した人が、自力だけで罪を克服することはできませんし、自力だけでサタンに勝利することもできません。だからといって、他力だけでも無理なのです。主よ、主よ、と言う者が救われるのでも、赦されるのでもありません。神様は、イエス様は、サタンに勝利する者を助けてくださるのです。そのことは聖書に一貫している事実です。
 
 さて、神様は、人に、彼がそこから取られたところの土地を耕すために、エデンの園から彼を送られました。これは、人が単なる肉(塵)なる人になったからでもあります。しかし、よく考えると、神様が人に、土地を耕すことができるようにされたということは、滅ぼされないということでもあります。人は罪を犯して死んだのに、神様が人に土地を耕して生きる余地を与えてくださっているのです。それは人が、いつかエデンに戻る日のために、滅ぼされないで生かされたのです。



創3:24
 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

 
ヘブライ語原典では「そして主は人を追放された。そしてエデンの園の東に住まわせた。命の木の道を守るために、ケルビムと回っている炎の剣を置かれた」です。
 
 神様はアダムとエバをエデンから追放されましたが、命の木に至る道を守られたということは、守らないと、そこに入って来てしまう可能性があるということです。もちろん、人が命の木がある道を目指して歩み、罪を克服し、サタンに勝利して、それを得ることは喜ぶべきことです。そして、そうやって人が道を来ることが分かっていたから、神様はそこに「ケルビム」と「回っている炎の剣」を置かれたのです。
 つまり人は「ケルビム」と「回っている炎の剣」を超えないかぎり、命の木に至ることはできないということです。では、「ケルビム」と「回っている炎の剣」とは何でしょうか。
 ケルビムはケルブ(高位の御使い)の複数形です。剣は、聖書では神様やイエス様の言葉、もしくは舌のことです。

「(天上のイエス様は)右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示録1:16)
 
「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国民の民をそれで打ち倒すのである。」(黙示録19:15)

 このケルビムと回っている炎の剣に接した預言者がいます。エゼキエルです。エゼキエルはバビロニアに捕囚されていたとき、川の河畔でその顕現に接しました。少し長くなりますが、その場面を引用します。

 
「わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
 脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。
 顔はそのようになっていた。翼は上に向かって広げられ、二つは互いに触れ合い、ほかの二つは体を覆っていた。それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせるところへ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。生き物の姿、彼らのあり様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き廻っていた。火は光輝き、火から稲妻が出ていた。そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。
 わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。
 それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目がつけられていた。 生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせるところにはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。
 生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。それは生き物の頭上に高く広がっていた。大空の下では、生き物の一対の翼がまっすぐに伸びて互いに触れ合い、他の一対の翼が体を覆っていた。すなわち、それぞれの一対の翼が彼らの体を覆っていた。それらが移動するとき、翼のはばたく音をわたしは聞いたが、それは大水の音のように、全能なる神の御声のように聞こえ、また、陣営のどよめきのようにも聞こえた。それらが止まっているとき、翼は垂れていた。生き物の頭上にある大空から音が響いた。それらが止まっているとき、翼は垂れていた。
 生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれらを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。
 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。主は言われた。(エゼキエル1:4-2:3)

 火の中の4つの生き物というのが、ケルブの複数形であるケルビムです。その傍らに車輪があって、車輪は回転するものです。そして、そこから発せられる言葉が剣です。言葉を発する舌も剣です。ケルビムの上に神様の玉座があり、イエス様はその右の座に座しておられるわけです。
 このケルビムと、主の言葉が、命の木(イエス様)に至る道を守っているわけです。ということは、ケルビムに勝利し、主の言葉に勝利しなければ、命の木(イエス様)に至ることはできないということです。
 それは、アダムとエバが、ケルブであった蛇に支配されてしまったため、ケルブに勝利しないでは命の木に至ることはできないということであり、同時に、神様の言葉に背いて罪を犯したアダムとエバは神様の言葉に勝利しなければ、命の木に至ることはできないということです。

 ケルブに勝利するとは、どういうことでしょうか。人は本来、ケルブ以上の者、神様の後継ぎとして創造されました。ケルビムは人に従うべき存在だったのです。ですから人は、ケルブを超えなければ本来のあるべき姿に立ち帰ることができません。神様の言葉も同じで、神様の言葉に背いた人は、神様の言葉に従わないでは本来の姿に立ち帰ることはできないのです。
 そして、最初の勝利者となったのが、後に神様からイスラエルと名付けられるヤコブです。ヤコブという名は「かかと」という意味の名です。

 神様の言葉は、預言者を通して語られます。神様の言葉に従うためには、預言者の言葉が正しくなければならず、人は正しい預言者を見分ける目を開き、聞き分ける耳をもたないと、神様の言葉を聞くことができません。
 預言者は、神様が語れと言われたことは必ず語らなければなりませんし、神様の言葉を正しく語らなければなりません。自分の心から出ることを語ってはならないのです。正しくない者に対しては、神様は預言者に命じて惑わす預言をすることもありますから、惑わす預言をするからといって預言者が間違っているとは言えません。
 真の預言者を見分けることは、容易ではありません。自分が正しくなければ、預言者が語る主の言葉が正しいかどうかなど判断できません。正しい預言者を見分けるには、自分が正しい者ではないことを自覚した上で、神様の言葉を聞き分ける耳をもつ必要があります。
 神様は、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫であるイスラエルの民を導くため、預言者を遣わしました。そして彼らが神の民になるための法(律法)を与えられました。しかし民は何度も神様に背き、間違いを犯しました。その度に神様は預言者を何度も何度も遣わしますが、彼らは自分たちに都合のいいことを語る偽りの預言者を受け入れ、耳に痛いことを語る正しい預言者を殺してきました。
 イエス様が来られたときのファリサイ派・サドカイ派・律法学者たちも同様でした。彼らはイエス様に聞き従わないばかりか、十字架につけました。 多くの人は、自分の善悪の判断を正しいとし、見えない目と聞こえない耳で預言者の正邪を勝手に判断してきたのです。罪ある私たちが、それを見分けることは容易なことではありません。ただ、聖書には多くのヒントが示されています。それを見分けることができない人は、傲慢な人、かたくなな人です。傲慢ゆえに、かたくなゆえに、自分の目を信じてしまうため正しく見ることが出来ないのです。
 見分けることができる人は、目が開かれた人(目覚めている人)です。それは、心が打ち砕かれた人、心が耕された人です。イエス様は「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)と言われました。実は「柔和な人」というのは正しい訳とは言えず、本当は「心が砕かれた人、心が耕された人」のことなのです。
 日本語訳の「柔和な人」だと、おとなしく穏やかな、物腰の柔らかい態度という意味ですが、この言葉の原語であるギリシャ語のプラウスはヘブライ語のアナウで、「打ち砕かれた心」という意味です。これだと旧約聖書に神様が多く語られていることですので、よくわかるのです。

 「わたし(神様)は、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ57:15)

 新約聖書研究家の塚本虎二(キリスト教無教会派)と、その弟子だった前田護郎はマタイ5:5を、それぞれ次のように訳しています。

 「ああ幸いだ、(踏みつけられて)じっと我慢している人たち、(約束の)地(なる御国)を相続するのはその人たちだから」(塚本虎二)

 「さいわいなのはくだかれた人々、彼らは地を継ごうから。」(前田護郎)

 マタイ5:5の「その人たちは地を受け継ぐ。」の意味についても、塚本虎二の「(約束の)地(なる御国)を相続するのはその人たちだから」の方が、よく分かります。この2人は新約聖書だけでなく、旧約聖書もよく研究していたことが分かります。新約聖書を理解するためには、旧約聖書の理解が欠かせないからです。

 心が砕かれ、耕されて、種(御言葉)を蒔かれて、それを育てて実らせる(行う)人でないと、目は開けないのです。傲慢な人は、自分の傲慢さに気がつきません。傲慢な人というのは、自分ほど謙虚で柔和な人はいないと思っていますから、自分が打ち砕かれる必要などないと思っているのです。だから傲慢な人は、自分が打ち砕かれるようなことが起きると、それを憎みます。イエス様の時代のファリサイ派や律法学者たちの多くがそうでした。
 傲慢な人は、傲慢さによって目も心も暗くなっているので、神様の愛も、神様の言葉の意味も分かりません。自分に都合のいい、心地よい言葉ばかり求めますから、聖書やイエス様の言葉につまづくのです。
 打ち砕かれた心の人になり、神様の言葉を受け入れ、神様の言葉を行うならば、サタンに勝利することができ、命の木(イエス様)に至るのです。そこに罪の贖いがあり、赦しがあり、生まれ変わりがあり、勝利することによって「命の書」に名が記され、白い衣を与えられるのです。

 聖書から言葉を一部分だけ引用して、それを行うということではありません。イエス様は律法を成就するために来られた方です。律法を成就するとは、どういうことかというと、イエス様ご自身が言っておられるように「真の律法と預言者(預言者)」を悟りなさい、ということです。
 律法には、神様が預言者エレミヤを通して「書記の偽る筆が書き、それを偽りとした」(エレミヤ8:8)と指摘しているように、偽りが含まれています。そして、律法の何が正しく、何が偽りなのかは、神様が預言者たちを通して教えています。ですから、律法と預言書を照らし合わせることによって、真の律法と預言者を見出すことができるのです、イエス様は、それを伝え、律法を成就されたのです。
 ただし、イエス様は、真の律法と預言者はこうです、などと、幼児に教えるように手取り足とり、その答えを教えてはいません。なぜならば、その答えを示してしまうと、サタンや世に従う人たちがそれを悪用したり、改ざんしたりして、神様に立ち帰る道を邪魔するからです。イエス様はこう言われています。

 「あなたがた(12弟子とイエス様の周りにいた人たち)には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、全てがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(マルコ4:11-12)

 イエス様の言葉も、旧約聖書に記されている主の預言も、真に求め探して門を叩く人にしか本当には理解できないようになっているのです。ですから、旧約聖書に記されている主の預言と、イエス様の言葉を解明しなければならないのです。それこそが神の国の秘密なのです。
 主の言葉は、人の言葉や蛇の言葉と違って、耳に甘く優しい言葉ではありません。人を癒す言葉でもありません。生易しい言葉ではありません。それは、蛇の性格を併せ持つ人間の悪を刺す剣であり、罪を焼き清める火であり、愛の鞭でもあり、また「それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(エゼキエル2:10)でもあります。それこそが本物の愛なのです。
 イエス様の言葉の中から、自分に都合のいい言葉を読んだり見たり聞いたりすることは心地よくても、耳に痛い言葉を受け入れることは容易ではありません。それは自分の中にある罪が抵抗するからです。
 また、律法やイエス様の言葉を行うことは容易なことではありません。アダムとエバのように言い訳して責任転嫁したり、蛇のように偽証して、御言葉を行おうとはしないのです。

 神様は沈黙されていません。主が沈黙されているのではなく、人が主の言葉を聞こうとしないのです。主は御手を伸ばされ、求め探し門を叩く人に与えてくださいます。
 打ち砕かれた心で、主の言葉を聞き分ける人は幸いです。




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