安息日の礼拝  創世記の真相

■創世記4章■



創4:1
 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 ヘブライ語原典では「人は彼の妻エバを知った。すると彼女は妊娠し、カインを産んだ。彼女は『私は主と共に男を得た』と言った。
 そして更に(エバは)彼(カイン)の弟アベルを産んだ。アベルは羊の群れを飼う者となり、カインは土地を耕す者となった」です。

 既に見てきましたように、ヘブライ語の「知る」は、日本語が意味するのとは異なります。ヘブライ語の(ヤーダー)の意味は「知識」ではなく、「性交(セックス)」「交わる」「交合する」です。単に肉体的に性交するだけでなく、精神的にも相手と一つになり、相手の本質と一つになることによって、本当の意味で相手を知ることになるという意味で用いられるのが「知る(ヤーダー)」です。
 ですから「人は彼の妻エバを知った」は、アダムがエバと性交したという意味なのです。そしてエバは妊娠しました。エバはカインを産みました。カインという名の意味は「鍛冶(かじ)屋、鋳造者」です。カインは土地を耕す者になったので、土地を耕すための鍬(くわ)や鋤(すき)を鋳造し鍛冶して作る者になったので、カインという名なのです。更にこの名は、後にカインの子孫が偶像を鋳造し、人を殺すための武器を鍛冶することになることも示唆しています。
 エバはを産んだ時、『私は主と共に男子を得た』と言いました。もちろん、これは事実ではありません。エバは主と共に男子を得たのではなく、主に背いて蛇と性交して蛇の性質を受け継いだ後に、アダムとも性交して男子を産んだのです。
 エバは本来、主と共に男子を得るべきでした。エバは、そうすべきであることを知っていたことが、この言葉から分かります。この言葉にはエバの願いと期待が込められていますが、それを適わないものとしてしまったのはエバ自身でした。エバは『私は主と共に男子を得た』と思いたかったし、自分に言い聞かせたかったでしょうが、それは事実とはなりませんでした。
 更にエバは、カインの弟アベルを産みました。アベルという名は「はかないもの、虚しさ」という意味です。アベルが産まれた時、エバは「主によって男子を得た」とは言っていません。それには様々な理由が考えられますが、長男カインが育っていく過程を見て、エバはカインに蛇から受け継いだものの影響を見たかも知れません。そうするとアベルが産まれたときには『私は主と共に男子を得た』とは言えなかったでしょう。あるいは、カインを育てていたエバは、時を経るごとに心が主から離れていったとも考えられます。

 さて、長男カインは父アダムの後継ぎとなって、父と同じ「土を耕す者」となりました。弟アベルは、父アダムから受け継ぐ嗣業(しぎょう)がなかったので、羊を飼う者となりました。後の時代に登場するダビデ王も、羊飼いでした。そしてイエス様も、羊飼いに譬えられました。神様もご自身のことを羊飼いに譬えておられます。聖書では、民を導く者を羊飼いに譬えている箇所が、数多くあります。
 アベルが羊飼いになったことは、このアベルが子孫を正しく神の元へと導く者になる使命を帯びていることが示唆されています。
 アダムとエバはもともと神様の手によって創造され、神様から息を吹き込まれた存在でした。ところが、エバは自分の意思で神に背き、蛇に従い、蛇と性交して罪を犯しました。そして蛇の性質を受け継いだ身でアダムとも性交し、そのため、アダムとエバから産まれる子も、神様から受け継いだ性質を根本的には持ちながらも、蛇の性質を受け継ぎ、アダムとエバの罪を受け継ぐことになります。
 アダムとエバの子供たちが両親と異なっている点は、産まれてきた時点で自分の意思では罪を犯しておらず、神に背いておらず、蛇に従っていないという点です。ただ、罪を犯す前のアダムとエバのようには彼らは無垢ではなく、生まれながら罪とサタンの遺伝子を受け継いでしまっています。そのため、カインとアベルは2人とも自分の内に、神の子としての性質と、蛇の子としての性質との、両方を持っており、そのどちらに従うかを選択しながら生きることになります。つまり、アダムとエバの子孫は、生まれながらにして、自分の内なる神の性質に従うか、蛇の性質に従うか、その選択を自分が自分に迫ることになるわけです。このことは、私たち自身にも言えることですので、よく分かるかと思います。



4:3
 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

 ヘブライ語原典では「そして日々の終わりがあった(=多くの日々を経たある日)。カインは土地の実から主に献げ物を持って来た。そしてアベルは、彼自身の羊の群れの初子から、しかもその(最上の部分である)脂肪の部分から、彼自身が(献げものとして)持って来た。主はアベルと彼の献げ物に向かって目を留められた。しかしカインと彼の献げ物には目を留めなかった。それでカインは非常に憤り、彼の顔が落ちた(顔を伏せた)。」です。

 カインとアベルは成長して、主のもとに献げ物を持ってきます。ということは、父アダムと母エバもそうしていて、成長した彼らが父母に倣って、もしくは父母に勧められて、そうしたのでしょう。
 神様がアベルと彼の献げ物に目を留められ、カインと彼の献げ物に目を留められなかったことは、一見、理不尽なことのように思われるかも知れません。しかし、よく読むと、見えて来るのです。
 カインは『土地の実』を神様に献げ、アベルは自分自身で育ててきた羊の中から初子を選りすぐって、さらに初子の最上の脂肪の部分を主に献げました。
 日本語訳では分かりませんが、ヘブライ語原典でアベルがアベル自身の羊の群れの中から献げたと、わざわざ書かれているのは、カインは自分自身の土地の自分自身で育てた実を持って来たのではない、ということなのです。つまりカインは、自分が育てたのではない、土地が自然に実らせた実を持ってきて、神様に献げたのです。それに対してアベルは、自分自身の羊の群れの群れの中から最上のものを選りすぐって神様のもとに献げたのです。
 このことから分かるのは、カインは自分が汗して土を耕して得たものは自分のものであって、自分が手をかけないで勝手に実ったものが神様のものだと考えていたのに対し、アベルは自分の収穫はすべて神様によって得られたものなのだから、その中から最上のものをこそ神様に献げたいと思ったということです。
 それは、神様への愛の違いとも言えます。アベルは、神様への感謝の気持ちから、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、自分が成し得る最高の献げ物を献げたのです。神様がアベルと彼の献げ物に目を留められ、カインと彼の献げ物には目を留めなかったのは、極めて当然のことだったわけです。神様は公平でした。
 しかし、カインは激しく憤って顔を落としました。カインが、土地が自然に実らせた実を神様に持って来て献げたのは、それで十分だと思っていたからでしょう。ところがアベルが持ってきた献げ物に神様が目を留められ、自分が持って来た献げ物には目を留められなかったとき、カインは自分が持って来た献げ物が正当ではないということを突き付けられたのです。なぜならば、カインが自分で耕して得た収穫ではあっても、その土地を与えられたのは神様であり、耕すための農機具を鋳造・鍛造する知恵を与えられたのも神様であり、作物を育てる雨を降らせるのも神様なのですから、神様なくしては自分で収穫できるものなど何もないのです。そのことは後にカイン自身が気付いています。
 カインの激しい憤りは、アベルに向けられたものでした。弟の奴が、兄を出し抜いて、そのような献げ物を持って来なければ、神様はきっと自分の献げ物にも目を留められたはずだと。自分のことを棚に上げて、何も悪くない弟に対して激しく憤ったのです。
 もちろん本当は、悪いのはアベルではなく、カインなのです。カインには、アベルのようには神様を愛する愛がなく、心も魂も力も尽くしていませんでした。それは神様に感謝せず、収穫を得たのは自分だと思いあがっていたからです。カインは、自分が間違っていたと素直に認め、悔い、改めればよかったのです。神様がアベルの献げ物にだけ目を留められたからといって、怒ることはないのです。自分が間違っていたことを認め、悔い改めて、自分自身が耕した土地から最上の実りを神様に持ってくればよかったのです。
 しかしカインは激しく怒り、顔を伏せました。
 


4:6
 主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」


 ヘブライ語原典では「主はカインに向かって言われた。『なぜお前が憤ったのか。またなぜお前の顔は落ちたのか。もしお前が善をするなら(顔を)上げるべきではないか。もしお前が善をしないなら、戸口に罪が伏せている。そして彼の慕うものがお前に。しかしお前はそれを支配する』」です。

 日本語訳とヘブライ語原典ではニュアンスがかなり異なっています。日本語訳では、カインがしたことが正しいか否かという観点で神様が語られていることになっていますが、ヘブライ語原典では、カインがこの後に善いことをするか、善くないことをするかという視点で神様は語られていることがわかります。正しいのは、ヘブライ語原典です。
 神様は、カインの献げものについて問いただしているのではありません。神様は、なぜ憤ったのか、なぜ顔を落としたのかを、問いただしているのです。つまり、カインが献げものについて目を留められることを望んでいるのなら、これから善なる献げ物を持って来ればいいではないか、ということです。ところがカインは、そうしようとするのではなく、激しく怒って顔を落としました。善なることをしようとするなら、どうして憤るのか、顔を落とすのか、ということです。
 それはつまり、カインが悔い改めて善なることをしようとしているのではなく、それをしないことを意味していました。そして、それをしないのであれば、罪がカインの心の戸口から入ろうとして待ち伏せている、ということなのです。罪がカインを慕って、やってくるといことで、それは蛇がカインを慕ってやって来るという意味でもあります。
 神様はカインに、「しかしお前はそれを支配する」と言われました。神様がそう言われたのは、絶対にそれを支配しなければならないという、神様のカインに対する強烈な願いから出ている言葉なのです。神様は「お前はそれを支配する」と断言することで、カインの心に強く、罪を支配するという決意を植え付けたかったのです。
 肉体は勝手に行動するのではありません。肉体は心に従って行動します。神様に従って善を行うのも、神様に背いて悪を行うのも、サタンに従うのも、サタンを退けるのも、罪を犯すのも、罪を退けるのも、それは「心」なのです。
 もし、このときカインが自分の過ちを心から認め、悔い改めて、罪を支配し、善い献げ物を持ってきたとしたら、どうなったでしょうか。神様はきっと、アベルの献げ物以上に、カインが罪を支配して善をなしたことを大いに喜ばれ、カインを誉め讃えられたことでしょう。イエス様は、このような譬えを語られています。

 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に。有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。[お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください]と。」 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。(ルカ15:11-24)

 もしカインが悔い改めて、罪を支配し、善い献げ物を持って来たとしたら、カインは両親から受け継いだ罪を支配したのですから、罪に勝利し、罪を克服できていたのです。そのカインとアベルは、共に協力して、罪を犯した両親をも神様に立ち帰らせることができたかも知れません。そして、カインとアベルは、エデンの東のケルビムと回っている炎の剣にも勝利して、エデンの園に立ち帰り、命の木に到達し、神様が創造された本来の人間になることができたかも知れません。そうすれば、彼らの子孫はエデンの園に生まれ育ち、やがては園を出て、神様から与えられた白い衣を身につけて、全地を支配し、全地に産み増えていったことでしょう。
 しかし、その願いも空しく、カインは罪を支配できませんでした。
  


4:8
 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
 カインは答えた。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

 ヘブライ語原典は「カインは彼の弟アベルに向かって言った。そして彼らが野にいた時に、カインは立ちあがって彼の弟アベルに向かって行き、そして彼を殺した。主はカインに向かって言った。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」すると彼は言った。「私は知らない。私が弟の番人か。」

 カインは弟アベルを野に誘い、殺してしまいました。日本語訳では「襲って殺した」となっていますが、ヘブライ語原典では「襲った」という言葉はありません。「野」も、本当は野原という意味ではなく、神様から息を吹き入れられていない人間たちが住んだのが「野」です。後にカインが恐れたように、「野」では人殺しもあったようです。カインはそれを知っていました。カインはそれを知っていたから、アベルを「野」に誘い出したのです。それは、もしかしたら両親に、アベルが「野の人」に殺されたと言い訳するためだったかも知れません。しかし神様の目を欺くことはできません。
 神様はカインに言われました。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と。ヘブライ語原典では、何度も何度も「弟」という語句がしつこいほどに出てきます。それは、愛し合うべき兄弟であることを神様が強調されているからです。
 カインは神様に対して「知らない」と偽証した上に、「私が弟の番人か」と言います。神様が兄弟愛を強調しているのに対して、カインは「番人」という言葉を使いました。このことから、カインの中から弟に対する「愛」が消え去っていたことが分かります。カインは弟を殺しただけでなく、兄弟愛も殺したのです。このことは後の子孫たちの間で、兄弟の憎悪として残っていきます。

 それにしても、アダムとエバは何をしていたのでしょうか。母エバは、カインがアベルに対して抱いた激しい憤りに気付かなかったのでしょうか。
 もし母であるエバが気づいていたら、何もかもが違っていたかも知れません。カインが抱いた激しい怒りに気付いたら、アベルを一時的に逃がすこともできたはずです。
 これは単なる想像ではありません。実は、後に同じような場面が創世記に出て来るのです。それはアブラハムの子イサクと妻リベカの双子の息子たち、エサウとヤコブに起こりました。母リベカは双子誕生の際に神様から「兄が弟に仕えるようになる」と言われていました。兄エサウはある時、食べ物と交換に弟に長子権を譲ることを約束しました。しかし父イサクは兄エサウに長子権を譲ろうとしたため、母リベカは知恵をめぐらして長子権を兄エサウではなく弟ヤコブに与えさせることに成功します。しかし、激しく憤った兄エサウは弟ヤコブを殺そうとしたので、母リベカは弟ヤコブを逃れさせたのです。
 ヤコブは何年もの間、苦労して財産を蓄え、兄エサウへの贈り物として携えて家に帰って来ます。ただし、兄エサウに殺されないようにヤコブは知恵をめぐらしました。そうまでして家に帰る必要はないのに、と普通なら思うところですが、そうまでしか帰らなければならない理由がありました。その理由の一つは家族への愛です。そして、もう一つは、母リベカに与えられた神様からの言葉を実現するためです。そして、それはカインとアベルができなかったことを、エサウとヤコブが成し遂げることになったのです。
 ヤコブは帰路の途中、知恵をめぐらしてエサウに殺されないで家に帰る計画を練り上げて完成させます。その時、ある人が現れてヤコブと格闘し、ヤコブは彼に勝ったので、彼から「あなたの名はもうヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。なぜなら、あなたは神と人々と共にやり抜き、そして出来たからだ」と言って祝福を与えられたのです。そして、神に承認されたその愛と知恵の計画どおりに実行し、兄エサウは、弟が兄に対して心を尽くし力を尽くす姿勢を見て、弟を家に迎え入れ、遂に和解を果たすのです。
 このことから、エバとカインとアベルが成すべきだったことが浮かび上がって来るのです。エバがアベルを逃がしていたら、その間にカインが自分で罪を支配できなくても、エバがカインに罪を支配できるように導くこともできたかも知れません。愛があれば、知恵も出て来るのです。しかし、エバにはそれはありませんでした。それが罪のなせる業でしょう。罪は、愛を壊しました。罪を犯したエバは、自分のことで精一杯だったかも知れません。
 いずれにしましても、カインは罪を支配できず、弟を殺しました。アダムとエバが犯した罪を元がえしするどころか、殺人という新たな罪を増し加えたのです。それはまた子々孫々に受け継がれていきます。
 殺された弟アベルは確かにかわいそうです。しかし、アダムとエバにはカインに弟を殺させない、罪を犯させないように守る『愛』と『知恵』がなかったとも言えます。イエス様は弟子たちに「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)と言われました。知恵がなければ世に勝って善いことを成すことできず、神様に対する素直さがなければ正しい知恵は出てこないのです。人間は本来、「蛇の知恵」をも超える正しい知恵を発揮することができるはずなのです。
 


4:10
 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の地を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」


 ヘブライ語原典は「主は言われた。『お前は何をした。お前の弟の血の声が土からわたしに向かって叫んでいる。今、お前の手から弟の血を受けるために、その口を開いた土よりも、お前は呪われている。お前は土を耕す時、土はその力をお前に与えることをしない。お前は地上をさすらう者、またさまよう者となる。』」

 「お前の弟の血の声が土わたし(神様)に向かって叫んでいる」とはどういうことでしょうか。血について神様は後にこう言われています。
 
「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(創9:4)

 神様は命は血の中にある、と言われています。その命が神様に向かって叫ぶのです。人の血は、本来は、土に流されるようなことがないはずでした。それなのに、命である血が、土に流され、土はそれによって、いわれなく呪われた土になりましたが、カインはその土よりも呪われた者になりました。カインがアベルに対して成したことは、今度はカインに戻ってきます。カインは土を耕す者であったのに、土を耕しても土はその力をカインに与えることはしません。カインには生きるすべがなくなりました。それはカインがアベルにしたことの報いです。
 実際、戦争で多くの血が流された土や、独裁者や共産主義者によって多くの血が流された土は、作物を実らせなくなり、それによって支配者も滅んだことは歴史が証明しています。戦争によって平和が訪れることなどない、ということも、このことから知ることができます。血の中にある命が、土から神様に向かって叫ぶからです。
 カインは弟を殺すまで地を耕して食物を得ていましたが、弟の血を大地に流したため、土はカインに力を与えなくなりました。その結果、カインは収穫を求めて地上をさすらい、さ迷うしかなくなったのです。



4:13
 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」


 ヘブライ語原典は「カインは主に向かって言った。『私の不義は負うよりも大きい(私の不義は大きすぎて負うことができません)。見よ、あなたは今日、私をこの土地の面から追放し、あなたの顔から私は隠され、私はさすらう者となり、また地上でさ迷う者となる。私を見つける者はすべて、私を殺すだろう。」

 激しく憤り、罪を支配できず、それに支配されていたカインは、自分がすることの結果を考えもしなかったでしょう。これはカインばかりではなく、感情や欲情に支配されている人は皆、同じと言えます。なぜなら、エバの感情や欲情の隙に蛇が付け入ったように、サタンはそこにつけ入るからです。罪に付け入らせるのは、罪を支配できない、その人自身なのです。
 カインは、自分が野に追われ、神様の顔からも隠されてしまうと、自分は野の人に殺されると思いました。そう思ったとき、カインは自分が殺されるという、自分がしたことの当然の結果を、負うことができませんでした。責任を負うことが出来ないことを、カインはしてしまったのです。カインは恐れ、おののきました。
 カインの両親であるアダムとエバは罪を犯してエデンから追放され、神様は彼らに土を耕させることにされましたが、神様の御顔は彼らに向けられていました。ところが、カインはそこにもいられなくなりました。さらに神様の顔からも隠されると、野の人に殺されてしまうとカインは思ったのです。 つまりカインは、これまで弱肉強食の野の人たちから守られていたのは、神様から与えられた土地にいて、さらに神様の顔が自分たちに向けられていたからこそ、守られて、土地を耕して生活できていたことを、あらためて思い知ったのです。カインは土を耕す者として、これまで当たり前のように土から収穫を得てきた、その当たり前だと思っていたことが、神様があってこそだということに気付いたのです。それは、野の人々もアダム一家とその土地に手を出すことがなかったのは、野の人々がアダム一家とその土地とが神様から守られていることを理解していたということです。カインが農機具を鋳造・鍛造できる技術を持っていたことも、野の人たちが手を出さなかった理由の一つだったかもしれません。その技術は、いつでも武器にも転用できる技術だからです。
 しかし、やってしまってから気付いても手遅れでした。それを悟ったカインは、耕して収穫できる土地もなく、さ迷う者となり、しかも神様の顔から隠されてしまうと、弱肉強食の野の人たちに殺されると思い、恐れて、「私を見つける者はすべて、私を殺すだろう」と言いました。なぜならカインは、自分は野の人たちとは異質なので、神様から与えられた土地と神様の守りを失ったら、見つけられたら殺されると思ったからです。
 それから、当然のことですが、自分たちとは異質の野の人たちがいることを前提として語られている、この神様とカインとの会話から、アダムとエバ以外にも人間がいたことが証明されます。それはアダムが創られて神様の息が服こまれる以前に、神様がその似姿としてかたどって創造されていた人たちのことです。彼らには全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木が、食べ物として与えられていました。



4:15
 主はカインに言われた。
「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

 ヘブライ語原典は「主は彼について言われた。『それゆえに、だれでもカインを殺す者は、7倍、復讐される。』 そして主はカインにしるしを付けた。だれでも彼を見つける者が、彼を撃たないために。カインは主の面前から出て行った。そしてエデンの東にあるノドの地に住んだ」です。

 神様から与えられた土地で、神様に守られて収穫を得てきたカインが、それを失って、弱肉強食の獣のような野の人たちの中にさすらう者となって、彼らに見つけられた時、神様の守りと土地を失ったことを知った彼らに殺されないよう、神様は手だてを用意していました。
 野の人々が、神様に守られていた土地と家族を離れてさ迷っているカインを見つけて、そのことを理由に、だれでもカインを殺すなら7倍の復讐を受ける、とはどういう意味でしょう。どうして7倍なのでしょう。
 この「7倍」の謎を解明するために聖書をよく見ると、この7に関係することが起きているを見つけ出すことができます。それは、カインから始まる家系が、カイン→エノク→イラデ→メホヤエル→メトサエル→レメク→その子供たち、と、7代で絶えていることです。
 ということは、カインの子孫が7代まで続いて絶えることを、神様はご存じだったということです。神様はそれを御存じだったから、カインを殺す者は彼に続くはずの7代の子孫をも殺すことと同じになるので、7倍の復讐をされることが公平な報いということになります。
 それを考えると、殺人と言うのは実に恐ろしい罪であり、到底、負いきれない罪であることが、あらためて分かります。人を1人殺すことは、その子孫すべてを殺すことになるのであり、さらには殺される子孫が成すはずだった、ありとあらゆる可能性を殺すことでもあるからです。
 そして、弟を殺したカイン自身、その家系は7代までで絶えるという報いでした。彼がしたことからすれば、カイン自身が殺されても当然でしたが、神様はそうされませんでした。そして、カインが殺されないよう「しるし」を付けられました。7代で絶えるということは、7代までは続く必要があるということでもあるので、カインが殺されては、それが成就しないからです。
 そして、もう一つ、大きな理由としてあったのは、カインが生まれながらにアダムとエバを通してサタンの性質を継承して産まれなければならなかったことです。カインは自分が犯した罪ではない罪を負って産まれて来なければならず、罪を支配しなければならない宿命を負っていました。そのことに対する、神様の憐れみであり、両親の罪を背負ったカインへの神様の公平さでもあります。
 では、『しるし』とはいったい何でしょう。
 『しるし』について、ヨハネの黙示録7:2-3に次のようにあります。

「わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。『我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。』」

 新共同訳の聖書では「しるし」のことを「刻印」に変えてしまったため分かり難くなりましたが、ここで出て来る「神の僕たちの額に刻印を押し」の刻印が、しるしのことです。この「しるし」は、神様の御使いが神様から命じられて付けるもので、このしるしを付けられた者は、大地と海とを損なうような大災害からも守られるのです。
 カインは神様に忠実な僕とは言えませんので、カインが付けられた「しるし」はこれとまったく同じものではないでしょうが、カインが野の人々に見つけられて殺されないように付けられた「しるし」であることは間違いありません。
 この「しるし」は、神様の御使いが付けるものですから、肉眼で見えるようなものでは、もちろん、ありません。そして、この「しるし」がある者は、損なうことが許されていないのです。聖書全体を読むと分かりますが、人間は自分たちで国を起こしていると思い込んでおり、災害なども自然が起こしていると思い込んでいますが、それぞれの国には御使いたちがいて、自然を誘導している御使いも居るのです。
 そして、御使いの中には、神様に従っている御使いと、サタンに従っている御使いがいます。その御使いたちが様々な物事を誘導しているのです。ただし、サタンでさえ神様の許しがなければ、何もすることが出来ません。そして、神様がサタンに何かを許すとすれば、それは人間たちが、神様がサタンに何かを許さざるを得ないことをしているときです。
 つまりは、人間の行いが善いならば、神様と御使いはそれを助けるのであり、人間の行いが悪いときは、サタンとサタンに従う御使いはその人間を自分たちの支配下にある者として誘導することが出来る、ということです。ただ、堕落した人間は何が本当の善で、何が悪かを知りません。それを知らなければ、本当の善は行うことが出来ないのです。人間の目に善と見えるものであっても、それが本当に善とはかぎらないのです。
 人間は、家族を守るための善と思って戦争さえ、します。善と思って相手の家族を殺すのです。同じように、善いことをしているつもりで、あらゆる悪を行っています。そして、それが「世」を形成しています。さらには、自分たちが作った「世」に従い、苦労し、あらゆる不幸を甘受しているのです。その「世」が人間を苦しめているのです。
 その「世」に勝利すること、それによって人は、神様が創造された本来の自分を知ることができ、神様の愛を知ることができ、世の幸・不幸を遥かに超えた平安に立ち帰ることが出来るのです。


 創4:17
 
カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

 ヘブライ語原典では「カインは彼の妻を知った。そして彼女は妊娠し、エノクを産んだ。彼は町を建てる者になった。彼はその町の名を、彼の息子の名のように、エノクと呼んだ」です。

 エデンの東の地を出て、さ迷う者となったカインは、神様の創造の第6日にアダム以前に創造されていた人間たちの娘の一人を妻とし、彼女を知って(性交して)、彼女は妊娠してエノク(という男児)を産みました。このエノクは「エノク書」のエノクとは別人です(エノク書のエノクはセトの子孫で、アダムから7代目に産まれ、神と共に歩み、神が取られていなくなりました)。
 カインが自分たちの家族ではなく野にいた人間の娘を妻にした事実からも、神様の創造の第6日に創造された人間は、アダム以前に創造された人間であることが証明されます。
 カインは町を建設しました。なぜカインは町を建てたのでしょう。カインは神様から与えられた土地を耕して生きることが出来なくなり、野に出ることになりました。そこで生きるために、町を建設して、そこに人を住まわせ、住まわせた人間たちから食べ物を得ることを考えついたのです。町を建設するということの意味は、その町の支配者になるということです。カインは、自分が建設した町の、言わば「王」のような者になりました。
 アダム以前に創造された人間たちと違って、神様の息を吹き込まれたアダムの子孫として産まれたカインは、堕落したとはいえ神様から受け継いでいる息の痕跡と、蛇から受け継いだ悪知恵を持っていますから、野の人間たちを支配することができたのです。また逆に、そうすることが、野の人間たちから自分を護るための知恵でもありました。
 権力者というのは、自分が弱いからこそ権力を望み、支配を望むという図式が、カインを通してよく分かります。神様と共にある人は、権力を持つ必要がありませんし、自分の手で自分を守る必要がありません。神様が守ってくださるからです。ですからカインがしたような理由と方法で町を建設するということは、本来は必要なかったと言えます。
 カインは、持っていた鋳造・鍛造の知識と経験を町づくりに投入したことでしょう。そして、そのことによって
 カインは作り上げたその町を自分の成果、自分の分身として誇り、息子と同じ名前「エノク」と名付けました。これは子供の名前に“Jr.(ジュニア)”を付けたり、自分が発見したり構築したものに自分や子の名前を付けたり、名前の一部をとって命名するのに似ています。しかし、それは自分が神のようになったつもりで、神様の真似ごとをしているのです。そこにカインの傲慢さが表われています。
 カインの血統は7代で滅びますが、町の建設という行為はハムの孫ニムロドに受け継がれます。このニムロドこそ、悪名高き「塔のある町バベル(バビロン)」を建設した人物です。この物語は、よく「バベルの塔」と誤解されるのですが、実際はバベルの塔ではなく「塔のある町バベル」です。塔はニムロドの男根を模した「オベリスク」で、エジプトにあるものが有名ですが、現代では世界の30箇所にあり、アメリカのワシントンD.C.や、パリのコンコルド広場、キリスト教カトリックの総本山であるバチカンのサン・ピエトロ広場にもあります。それらはいずれも「塔のある町」と言えるでしょう。



4:18
 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。
 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を造るものとなった。トバル・カインの妹はナアマと言った。

 ヘブライ語原典では「エノクにイラドが生まれた。そしてイラドはメフヤエルを生んだ。そしてメフヤエルはメトシャエルを、そしてメトシャエルはレメクを生んだ。レメクは二人の妻を娶(めと)った。その一人はアダ、そして二人目の名はツィラといった。アダはヤバルを生んだ。彼は天幕に住む者、また家畜を持つ者の先祖であった。そして彼の兄弟の名はユバルで琴とウガブ(笛の一種で、現代のパイプオルガンにあたる)を執る者すべての先祖となった。ツィラもまたトバル・カインを生んだ。彼は青銅と鉄を研(と)ぐ者、すべての彫る者の(先祖となった)。そしてトバル・カインの姉妹はナアマといった」です。

 カインの息子エノクにはイラドが生まれ、イラドにはメフヤエルが生まれました。メフヤエルはメトシェルを、メトシャエルにはレメクが生まれました。このレメクもセトの子孫レメクと同名ですが別人です。レメクはカインから6代目の子孫で、彼の子らは7代目の子孫にあたります。
 レメクは2人の妻を娶り、一夫多妻をした最初の人です。レメクが2人の妻を娶ったことは、特に強調された書かれ方になっており、そのことから2人の妻を娶ることは特異なことと言えます。レメクは、カインから7代目に当たる自分の子らの代で血が途絶えることに、何とか抵抗したかったので2人の妻を娶るという、それまでにはなかったことをしてでも、子をたくさん残し、そのうちの一人でも子を造って、血をつなげたかったのかも知れません。
 レメクの息子ヤバルは天幕に住み、家畜を飼う者の先祖であった、と聖書には記されていますが、ここで先祖と訳されているヘブライ語は、そこから派生したという意味合いで、必ずしも血統を表すものではありません。ヤバルが家畜を飼う者となったのは、おそらくはカインが殺したアベルの真似をしたのでしょう。アベルの真似をすることで、何とか子孫ができることを目論んだのかも知れません。
 ヤバルの弟ユバルは「琴とウガブを執る者」で、「執る者」とは、材料から道具に作り、それらを使いこなす者という意味合いがあります。ユバルは音楽を生業(なりわい)にした最初の人として記されています。ただ音楽も様々です。神様を賛美する音楽、人の善なる行いを讃える音楽もありますが、人を快楽にいざなうような魔性の音楽もあります。
 もう1人のレメクの妻ツィラはトバル・カインを産みます。彼は鉄や青銅を研いで武器を作ったり、また鉄と青銅の彫り物を作ったりしました。カインは鋳造・鍛造の人でしたが、その技術をさらに発展させ、より多くの人を殺害する武器にしたのがトバル・カインだとも言えます。もっとも、彼は鉄や青銅の彫り物をして装飾品も造りました。それは偶像を造る技術でもあります。
 トバル・カインの妹ナアマは、堕落した御使い(堕天使)と交わったという言い伝えがユダヤに伝承されています。



4:23
 さて、レメクは妻に言った。
「アダとツィラよ、わが声を聞け。
 レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。
 わたしは傷の報いに男を殺し
 打ち傷の報いに若者を殺す。
 カインのための復讐が七倍なら
 レメクのためには七十七倍。」

 
ヘブライ語原典では「レメクは彼の妻たちに言った。『アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は、私の傷に対して、男を殺した。また私の打ち傷に対して子供を(殺した)。なぜならカインは七倍復讐される。レメクは七十七倍だ」です。

 この言葉にレメクの恐ろしいまでの傲慢な自己顕示欲が現れていると言えます。日本語訳聖書では「私は傷の報いに男を殺し 打ち傷の報いに若者を殺す」とあり、それは彼の考えのように思われますが、ヘブライ語訳では異なります。レメクは、自分に傷を負わせた報いに男を殺し、自分に打ち傷を負わせた報いに子供を殺した、と記されています。
 自分が相手にされたことの何倍も報いる、ということです。しかも、それは殺すことなので、それ以上はありません。最大限の報いである殺害をもって報いるという、残虐さの表明です。自分に傷を負わせた男に対して、殺害するのがその報いだというのです。さらには、子供が自分を打った報いも、殺害がその報いだというのです。子供が打つ傷など大した傷であろうはずがありません。それでも殺害したというのです。
 しかも、その理由は、カインの7倍の復讐、つまり7代で絶えるという定めに対する恨みなのです。自分の子供の代で終わる。そのことに対する復讐だというのです。カインは弟アベルを殺害したのですから、カインが殺されても仕方ないところを7代も子孫を続けてくださり、そのお陰で自分が産まれることもできたのに、レメクは激しく逆恨みしました。そして男を殺し、子供を殺したのです。大量殺人の最初と言っていいでしょう。

 後に神様は律法で、体の損傷について次のように言われています。
「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」(出エジプト21:23-25) 
 これは損傷を受けた側に、それ以上の賠償、報いを要求してはならない、それ以上の報復をしてはならない、と命じておられるのです。「目には目を、歯には歯を」という言葉は、報復のことのように誤解されていますが、本当はその逆で、それ以上の報復をしてはならないという意味なのです。 
 レメクは、傷の報いに男の命を奪い、打ち傷の報いに子供を殺したという過剰な報復を、当たり前だと主張しているのです。カインへの報いが7倍だと神様が言われるのなら、自分への報いは77倍にして報復する、自分はそれほどの者だと言っているのです。これはレメク自身が自分の口で言ったことで、自分は神様以上の存在だと宣言し、それを子供たちに教えさせるために妻たちに言っているのです。そうすることで、7代で終わるはずの自分の血統を77代まで続かせるという宣言です。
 それは、もし子供たちを打とうとする者がいたら自分がその相手を殺して報復する、そうすることで子供が子孫を作って77代まで続かせてみせる、神様の思い通りにはさせない、という宣言でもあります。しかし神様が定められたとおり、カインの血統はレメクの子らの7代で途絶えます。

 レメクが言った「77倍」には重要な意味が隠されています。実は、アダムからちょうど77代目が、イエス様なのです(ルカ6:23-38)。レメクは、それを知っていたのでしょう。その77代目に、自分の子孫がイエス様を殺すという恨みがあったかも知れません。あるいは、イエス様が世に来られる77代まで誰一人として神に立ち帰らせはしない、という「呪いの言葉」とも言えます。



4:25
 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。セトにも男の子が産まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

 ヘブライ語原典では「再びアダムは彼の妻を知り(性交し)、彼女は息子を生んだ。そして彼の名をセトと呼んだ。なぜなら神が私に、カインが殺したアベルの代わりに別の種を置いたからだ。そしてセトにもまた息子が産まれた。そして彼は、彼の名をエノシュと呼んだ。その時、主の名で呼ぶことが始められた」です。

 アダムは再びエバと性交し、エバは男の子を産みます。エバは、カインが殺したアベルの代わりに神様が与えてくださった子だからと、セト(シャト)と名付けます。セトにもまた息子エノシュが生まれます。その時、主の御名で呼ぶことが始められました。
 この「主の名で呼ぶ」とは、はたしてどういうことなのでしょう。
 ユダヤ教では、その名をみだりに唱えてはならないものとして「Y・H・V・H」と記号化しました。これを「ヤハウェ」とか「エホバ」という神様の名前だと勘違いしている人もいますが、そうではありません。また教会では「イエス・キリスト」というのが、その御名だとして、祈りの後などに「イエス・キリストの御名を通して」と唱えます。これも違います。そもそもイエス様は「キリスト」という名前ではありませんし、イエスという名でさえ、ありません。キリストというのはギリシャ語の「クリストス」(救世主)で、名前ではありません。イエスというのは、ヘブライ語の「ヨシュア」、アラム語の「イェーシューア」です。ただ、それもイエス様の肉の名にすぎず、本当の名ではありません。
 一般にヤハウェとかエホバと読まれる「Y・H・V・H」は、ヘブライ語の「エー(ヘ)イェ・アシェル・エー(ヘ)イェ」の頭文字を並べた記号です。神様が律法で、その名をみだりに唱えてはならないと命じておられるので、その名を記さず、みだりに唱えられないようにするために、そのように記載したのです。
 では、「エー(ヘ)イェ・アシェル・エー(ヘ)イェ」とは何でしょうか。それは出エジプト記に登場します。モーセはあるとき、神の山ホレブの柴の中に、燃え上がる炎のようなものをみます。ところが柴は燃えているのに、燃え尽きません。やがて、その炎の中から声がします。モーセが、その声の主に名を尋ねると、その声は「エー(ヘ)イェ・アシェル・エー(ヘ)イェ」と言ったのです。その意味は、「わたしはある ところの わたしはある」です(出エジプト3:14)。
 その声は、神様の言葉でした。神様の言葉の名は「わたしはある ところの わたしはある」だと言われたのです。
 そして、実はこの名こそ、イエス様の本当の名なのです。イエス様は言われました。

(イエスは言われた。)「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか。」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。(ヨハネ福音書8・56〜59)

 イエス様は、ご自身のことを、モーセの燃える柴からその名を告げた「エー(ヘ)イェ・アシェル・エー(ヘ)イェ」、その本人だと言われたのです。だからこそ、ユダヤ人たちは石を投げつけようとしました。
 ただ、イエス様はご自身のことを神だと言ったのではありません。モーセの燃える柴に現れた声も、神様ではありません。
 創世記1章の最初を思い出してください。神様が最初に創造されたのが「光」でした。光は、神様の言葉と同時に生まれました。神様の言葉=光です。そして、この光は「いのち」でした。神様の言葉=光=いのち、それが世に来られる前のイエス様なのです。その秘密を解明する鍵が、ヨハネ福音書1章に記されているのです。ヨハネは、見ることができる者、聞くことができる者に、その秘密を解明する鍵を記したのです。
 「わたしはある ところの わたしはある」とは、「わたしは神様から、『(光)あれ』と言われて、ある者。だから、わたしの名は、わたしはある、である」という意味です。
 モーセの燃える柴の声(言葉=光)は、イエス様だったのです。ということは、旧約聖書に記されている神様の言葉は、イエス様ご自身です。そのことが分かると、新約聖書に記されているイエス様の言葉の意味が解明できるのです。旧約聖書の神様の言葉を知らないで、新約聖書のイエス様の言葉は理解できません。それがキリスト教会がイエス様の言葉を真に理解できない原因です。パウロがそれを解明できなかったのですから、パウロに従うかぎり、イエス様を理解することが出来ないのです。
 では、この主の御名「わたしはある ところの わたしはある」を唱えるとは、どういうことでしょう。神様から「あれ」と言われて、ある者ではない自分が、「わたしはある」と唱えるのは、主の御名を唱えたことになりません。「わたしはある」という名は、「わたし」本人であるイエス様しか、唱えても意味をなさない名なのです。
 それなのに、主の御名を唱えるというのは、「わたしはある」という方に本当に声を掛けることになるわけです。その方に声を掛けるからには、声を掛けたなりの理由があるはずです。理由もないのに呼ぶことは、不敬極まりない行為です。声を掛けたからには、それなりの理由を述べるのが当然で、しかも主と顔を合わせることになるわけですから、死を覚悟していなければなりません。そして、自分が呼んだからには、主から何らかの言葉や命令を発せられたなら、それに従わなければなりません。主の御名を唱えるというのは、そういう命がけの覚悟が必要な行為なのです。だからこそ、みだりに唱えてはならないのです。
 
 さて、エノシュが生まれた時、主の名で呼ぶことが始められたということですが、アダムとエバや,その子カインとアベルの時には、主の名を呼ぶ必要はありませんでした。堕落してエデンを追われたとはいえ、神様の言葉は当たり前のように彼らと会話していました。主の名で呼ぶ必要があるほどには、まだ神と人との間に大きな壁はなかったと言えます。
 ですから、エノシュが生まれた時、主の名で呼ぶことが始められたということは、セトの子エノシュの時には、主の名を呼ぶ必要があるほど、主と人との間に距離ができたということでもあります。
 エノシュは、主が「ある」ことを当然、父セトや祖父母のアダム・エバから聞いて知っていたでしょう。でも、神様がセトや彼の子エノシュに言葉をかけた記録はありません。ただ、エノシュの時、主の名で呼ぶことが始められたとあります。実に、アダムから7代目のエノクの時まで、神様と人との関わりは記載されていません。エノクは神様と共に歩み、神様が取られたので、いなくなったと書かれています。つまり、セトの子孫の中で、神様と歩みを共にした人だけが、神様と関わることができるようになったわけです。
 エノクの次に、神様が関わられるのは、アダムから10代目のノアです。エノシュやその家族たち、子孫たちは、主の御名を呼び、主を求め続けたのです。しかし、主が現れるのは、神様と歩みを共にする人だけでした。
 アダムから10代目のノアは、「神に従う無垢な人」(創6:9)でした。このノアのとき、神様は大いなる御業(みわざ)を成されます。
 
 さて、もしレメクの子供たち、その子孫たちが生き残ったならば、どうなったでしょう。セトの子孫たちは、彼らに殺されていたことでしょう。そうなったら、ノアも生まれませんし、ダビデも、イエス様も、生まれないことになってしまいます。このことからも、神様の愛と知恵がいかに完全であるかを知ることができます。
 アダムから7代目(カインから6代目)にレメクがいた一方、アダムからセトに受け継がれた血統の7代目にエノクがいます。エノクはレメクとは正反対の人物でした。創世記5:21-24に次のように記されています。

「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」

 この記載を見ても、エノクが記した「エノク書」は、目を通さずにはおけない書であることは確かです。実際、エノク書には、聖書のあらゆる謎や秘密を解く鍵が、散りばめられています。エノク書には、神様の創造の頃の天界の様子や、エデンの様子、御使いたちのことや、アダムとエバのことが詳しく記されています。ただ、天界のことを書いているので、極めて難解です。
 また、エノクは自分の時代から地に起こるすべてのことを知っていました。もちろん、イエス様が地に来られるまでのことも書かれています。

 人は、アダムとエバから神の息と蛇の性質との両方を受け継いでいますが、そのどちらを発揮するかで、カインの血統、セトの血統は、大きく分かれていきました。もちろん単純に、それを「神様の血統」と「サタンの血統」と呼ぶことはできませんが、神様が後にイエス様を誕生させようとする血統と、それを阻止しようとする蛇(まむし)の血統は、聖書に明らかに記されています。
 
 イエス様(77代)以降について、どうなるかは、イエス様ご自身が教えてくださっています。イエス様というブドウの木に接ぎ木された者たちが、その子孫となるのです。接ぎ木の最初は12使徒です。イエス様と正反対の教えを唱えたパウロは、イエス様に接ぎ木されていません。パウロは12使徒ではありませんし、12使徒とは袂を分かった人です。このパウロに接ぎ木された教会は、イエス様の接ぎ木ではありません。
 イエス様と12使徒を受け継いでいる木を見分けなければなりません。


 ※主の御名によって祈ることについて

 
教会では祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって」と付け加えます。その根拠は新約聖書のヨハネ福音書14章13〜14節だと言います。

「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 たしかに、この部分だけを抜き取ると、クリスチャンがイエス様の名によって何かを願うならば、何でもかなえてもらえるかのように思えます。ところが、14章〜16章を読んでみますと、それはとんでもないことだと分かるのです。
 イエス様がこの言葉を語られたのは十字架に着かれる直前の「最後の晩餐(過越の食事)」の席においてでした。イエス様は、ユダが出て行った直後に、残りの11使徒に対して話されます。
 イエス様は、11人の使徒たちが自分と同じく世で苦難を受けることになることを告げます。そのことを彼らに告げる前に、自分が先に父のもとに行くので、11使徒が自分と同じ道を行くからには、何でも願いを叶えてあげようと言われたのです。
 つまり、イエス様と同じ苦難を世で受ける者たちだけに、イエス様は、それを背負うからには何でも願いを叶えてあげようと言われたのです。ということは、イエス様と同じ苦難を世から受けるのでなければ、関係がない言葉なのです。その覚悟もなくて、簡単に「イエス・キリストの御名によって」と祈るようなことではないのです。
 さらに、この部分でイエス様は、自分の名によって祈れなどとは、ひとことも言っておられないのです。この部分は、祈りとは何の関係もありません。
 しかも、イエス様の名は「イエス・キリスト」ではないのです。ですから、祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって」と付け加えることには何の意味も根拠もないのです。
 



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