安息日の礼拝  創世記の真相

■創世記5章■



 
 4章で、神様がカインに「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた時、カインは神様の前に幼な子のように素直に正直に罪を告白することなく、「知りません。私は弟の番人でしょうか」と偽証し、神様を欺き、事実を隠しました。
 エバが蛇と交わり、そのエバとアダムが交わって子孫を得たことにより、その子孫は「偽りの善と悪の知識(不完全な善と悪の知識)」を蛇から受け継ぎました。
 「偽りの善と悪の知識」とは、神様の目から見て悪い事であるのに「こういう理由があるから正しい」と言い張ったり、言い逃れをしたり、責任を転嫁したり、自分自身を納得させて自己正当化に用いるような、狡猾な知恵や知識の用い方です。そのような狡猾な知恵や知識の用い方は、賢さとは真逆の、愚かで見苦しいものです。
 紀元66年のローマ帝国によるユダヤ壊滅の際に生き残った、イエス様や使徒たちと同時代の生き証人でもあるフラウィウス・ヨセフスが著した「古代ユダヤ誌」には、カインのアベル殺しについて次のように記されています。

 「こうして神がアベルの供え物をよしとされたことに激怒したカインは、弟を殺し、しかも発覚をまぬがれるためにその死体を隠した。」

 カインは自分が悪いのに、善いことをした弟に憎悪を向け、アベルを殺しました。さらに、その罪に加え、アベルの死体を隠して、自分の罪を「隠しおおせる」と考えたのです。神様の前に何ひとつ隠すことなどできません。それなのに、畏れを知らない傲慢な心で、自らの狡猾さ、悪賢さを増幅する行為をしました。
 その後、カインは、その偽りの善悪の知識や知恵を「町づくり」に用いました。自分で町を造り、自分が神のようになって、人々を自分の町に住まわせ、武器を作り、様々な道具を作り、偽りの善悪の知恵・知識と武力で町を支配したのです。「ユダヤ古代誌」には、カインが町と人をいかに支配するに至ったか、次のように記されています。

 「長い旅の末、カインは妻とともにノドと呼ばれる土地に落ち着いた。そしてそこに住居をを定めると、子供たちも生まれた。
 ところで、神の処罰は、彼にとっては警告になるどころか、彼の悪とくを増したに過ぎなかった。
 彼はあらゆる種類の肉の快楽にふけり、そのために傍らにいる人たちを凌辱することすら辞さなかった。彼は略奪と暴力でかき集めた富で財産を増やしていった。また彼は、人に会えば先導して凌辱や強奪を行わせ、その者たちの不道徳な行為の親玉となった。さらに、彼は度量衡(計測器)の器具を考え出して、それまで人間たちが送っていた素朴な生活に終止符を打ってしまった。つまり、そのような道具をもたずに過ごしていた率直で寛宏な生活を、ぺてん師どもの生活に変えてしまったのである。
 さらに、彼は土地に境界を定め、町をつくり、それに城壁をめぐらして要塞化し、その一族一門を強制的に一か所に集めた最初の人間でもある。彼はこの町を長男のエノクにちなんでアノーカと呼んだ。」

 カインの「町づくり」は、それ以降の人類の国づくり、思想づくり、法律づくり、武器づくりの最初であり、カインの権力と支配の構造は現代社会でも同じです。
 カインの偽りの善と悪の知識は、主義思想・法律・武力となり、人々を支配する権力となりました。これもカイン以降、現代にまで続く世における『権力者による支配の構図』です。そして、そのトップに君臨しているのが蛇なのです。つまり、これが「世」の正体であり、世の支配者は蛇なのです。
 人は、生まれて来ると両親や近隣社会の影響を受けて育ちます。その両親や近隣社会が、世に従順で何の疑問もなく世に従っている環境のもとでは、人は当たり前のように自分を世の価値観に合わせようと育っていきます。たとえ世の理不尽さや不条理に気付いたとしても、世に刃向かうことは許されません。世に刃向かうと、世からはじき出されることになり、両親や近隣社会がそれを許さないからです。
 しかし人は本来、神様の息が吹き込まれていますから、世の偽りの善悪に気付くのです。気付いても、見て見ないふり、聞いて聞かないふり…、そうやって本心と目は閉ざされていき、耳はふさがれていきます。そのような状態の中で、いくら時間を費やして聖書を読んだとしても、聖書に記されている真実に気付くことはできません。なぜなら、自分の本心(神様の息)が「世(蛇)の善悪の知識」でふさがれてしまっていて、目が開いていないからです。これをイエス様は「見ても見ない人、聞いても聞こえない人」、あるいは「目が開いていない人、耳がない人」と言ったのです。教会に属しても、目や耳が開くことはありません。教会そのものが世に属しているからです。
 さて、カインの血統とは別に、神様がアベルに代わる子として授けられたセトから繋がる、アダムの家系について見てみましょう。



創5:1-5:32
 これはアダムの系図の書である。
 神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
 アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。アダムは、セトが産まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ。
 セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。セトは九百十二年生き、そして死んだ。
 エノシュは九十歳になったとき、ケナンをもうけた。エノシュは、ケナンが生まれた後は八百十五年生きて、息子や娘をもうけた。
 エノシュは九百五年生き、そして死んだ。
 ケナンは七十歳になったとき、マハラルエルをもうけた。ケナンは、マハラルエルが生まれた後、八百四十年生きて、息子や娘をもうけた。
 ケナンは九百十年生き、そして死んだ。
 マハラエルは六十五歳になったとき、イエレドをもうけた。マハラエルは、イエレドが生まれた後八百三十年生きて、息子や娘をもうけた。マハラエルは八百九十五年生き、そして死んだ。
 イエレドは百六十二歳になったとき、エノクをもうけた。イエレドはエノクが生まれた後、八百年生きて、息子や娘をもうけた。イエレドは九百六十二年生き、そして死んだ。
 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
 メトシェラは百八十七歳になったとき、レメクをもうけた。メトシェラは、レメクが生まれた後七百八十二年生きて、息子や娘をもうけた。メトシェラは九百六十九年生き、そして死んだ。
 レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。レメクは、ノアが生まれた後五百九十五年生きて、息子や娘をもうけた。レメクは七百七十七年生き、そして死んだ。
 ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。」


 
この5章は一見、ただの系図の羅列のように見えます。
ところが、実は重要なこと(預言)が、ここに秘められているのです。
 この系図から分かることは、アダムから7代目にあたるエノクが際立って重要な人物であることです。 
 エノクは65歳になったとき、メトシェラをもうけ、メトシェラが生まれた後、300年「神と共に歩み」と記されています。エノクは、息子メトシェラの誕生を機に、その後の人生を「神と共に歩む」人生へと大転換しているのです。それはつまり息子メトシェラの誕生を前にして、重大なる神様との関わりがエノクにあったことを示唆しているのです。
 「神と共に歩む」という表現は、一見すると聖書的な表現のようですが、実は聖書の中でも特殊な表現なのです。聖書には、神様が人にかかわったり、神様が人と共にあった、という、そういう人は何人か登場します。人類歴史上でも、わずかな人ですが、神様が共にあった人は何人か、います。
 ところが、エノクの場合は、エノク自身が自発的に神様と歩みを共にしたというのです。これは堕落した人間の中で極めて特異なことで、エノクという人はそれほどの人なのです。
 エノクが「神と共に歩む」ようになった契機となったのが、息子メトシェラの誕生なのですが、メトシェラの「メト」は「死」という意味で、「シェラ(シャーラハ)」は「送る」という意味です。つまり、メトシェラとは「彼の死後、送られる」という意味です。

 メトシェラは187歳になったときレメクをもうけ、その後782年生きた、と記されています。969年の生涯は、人類の中で最長です。しかし単に長命なだけでなく、実はこの年齢に重大な意味が隠されているのです。
 メトシェラの子レメクが182歳の時にノアが生まれます。このノアが600歳のときに、全人類が一掃される規模の大洪水が起こったのです。
 メトシェラ187歳+レメク182歳+ノア600歳=969歳、つまりエノクの息子メトシェラが969年の生涯を閉じて死んだ直後に、大洪水が送られたのです。
 エノクが息子にメトシェラ(彼の死後、送られる)と名付けたのは、生まれたメトシェラが死んだ後に、大洪水が送られることを知っていたからなのです。だからこそ、メトシェラが生まれた後、エノクは神様と共に生きることにしたのです。なぜならば、息子メトシェラの死後に大洪水によって人類がどうなるかを知ったからです。それを知った以上、世と共に生きることに何の意味もありません。エノクは神様と共に生きることを選んだのです。
 エノクが知ったのは、それだけではありませんでした。エノクが記した「エノク書」を読むと、そのことが分かります。「エノク書」は聖書には含まれていませんが、「エノク書」を読まないでは聖書を理解することは困難です。「エノク書」には、天界の様子やエデンの様子、「命の木」と「善と悪を知るための木」のこと、堕落天使と人との交わりのこと、ノアの時代に起きる大洪水のこと、それ以降の人類が歩む歴史とセトの子孫たちが歩む歴史、そして「救い主」がいつ、どのようにして来られるかまで預言されているのです。エノクの子メトシェラの969年の生涯、その「969年」という記載が預言でもあるのです。聖書をただ漫然と読んだだけでは、気付くことが出来ません。
 さて、だとすると、神様はエノクにこのことを知らせた後、969年間、大洪水までに人類が神様のもとへと立ち帰るチャンス、猶予を与えたことになります。神様は、人類で最長の年齢であるメトシェラの生涯969年の間、人々が神様に立ち帰ることを忍耐して待たれた、ということです。
 この系図から、アダムもセトもその子孫たちも、9代目のレメクの時代まで同時に生きていたことが分かります。彼らは皆、エノクの預言を聞いたことでしょう。エノクは、エノク書に記されている内容を彼らに伝えたに違いありません。
 セトの子孫たちは、ここに記される長子ばかりではなく膨大な数の息子や娘たちが生まれていたでしょうから、数多くの人がエノクの預言を聞いたはずです。それなのに、神様と共に歩んだのは、エノク、そして5章の系図の最後に登場するノアだけなのです。
 次の6章を読むと分かるのですが、神様が969年の間、忍耐して待っていたにもかかわらず、人類のほとんどすべてが悪に染まり、神様は心を痛めます。セトの子孫たちも、ほとんどすべて悪に染まったということは、おそらくはカインの子孫たちの権力・武力による支配に迎合し、影響されたのでしょう。セトの子孫の娘たちの多くは、カインの子孫たちと婚姻し、善い影響を与えるよりは悪に迎合し、その影響を受けたのでしょう。
 また、6章では蛇と共に堕落した御使いたちが、蛇を真似て人間の娘たちを妻にしたと書かれています。堕落した天使たちがそうしただけでなく、人間の娘たちも、それを求め、受け入れたということです。エバと蛇との淫行が蔓延したのです。
 そのような世にあってエノクとノアは、時代や環境に影響を受けることなく、彼らから孤立しても、自ら「神と共に歩むこと」を選択した人です。エノクもノアも世を恐れず、ただ神様だけを畏れ敬ったのです。エノクもノアも、世の人々が讃えるような目に見える大事業を成したわけではありません。むしろ彼らは、世の人々が神様から離れていく時代の中で、神様と共に生きるという、真の大事業を成したのです。世のいかなる大事業も、そのカケラ一つとして残ることはありませんが、エノクやノアが成した大事業は永遠に讃えられ続けます。

 5章の系図を見て、人間の年齢の長さに疑問を持つ人も少なくないと思います。ノアの大洪水よりも以前の地球環境は、大洪水よりも後のものとは全く違っていたのです。
 創世記には、ノアの洪水の時まで、雨が降ったという記述がありません。創世記2章に、当時の地球は「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した」(創2:6)状態にあったと書かれています。つまり、当時の地球の地上は、水蒸気のようなもので満たされていたのです。そのため雨は不要でした。雨がなくても、熱帯雨林よりも見事な植物が豊かに地上を覆っていたのです。もちろん、果実の実りも豊富でした。堕落後に、人は額に汗しないと地から実りを得られなくなりましたが、それでも現代からは考えられないほどに豊かだったのです。もし人が堕落しなかったら、地球はとんでもなく豊かだったはずです。アダムからノアの大洪水までの地上は、光と湿度と温度が保たれた温室のような状態でした。
 化石の発掘などにより、古代の地球には多くの巨大な恐竜や翼竜がいて、その時代の植物も現代とは異なって大きく成育していたことが知られていますが、当時の地球環境について興味深い話があります。
 古代の大空を飛んでいた全幅8メートルの翼竜が、現代の地球の空を飛ぶためには、体重は18s以下でなければ飛ぶことができないそうです。ところが発掘された翼竜の化石からは、遥かに大きな重量の体を持っていたことが分かっています。このような巨大な翼竜が古代の空を飛んでいた事実は、当時の気圧の高さが、現代とは全く違っていたことを証明しています。
 気圧の高さ、水蒸気の状態が、人間を含む生物、植物の成育を早め、寿命を長くし、植物の生育は現代とは異なる大型に成育することが可能で、人間も動物も植物も、調和と循環、バランスが取れた状態で、それがノア以前の地球環境だったことがわかります(もちろん、それでも堕落前のように最上級の環境ではなかったはずです)。
 しかしノアの洪水以降、人類の年齢は120年となり、さらに短くなりました。それは環境が激変したことを示しています。そうなった原因は、人間が堕落し、その後も不法に満ちる人生を歩んで、悪が増し加わっていったからです。6章では、大洪水の際に40日40夜にわたって雨が降り続け、40日間の間、洪水が地上を覆ったと書かれています。これにより空気中の水蒸気は、ほとんど海の水となりました。そして、それ以後の地球では、海の水蒸気が蒸発して雲となり、雨が降るという、現在のような自然環境に変化したのです。植物の実りも激減し、人間や動物の生存する環境もますます厳しいものとなりました。
 問題は、人間自身の、間違った善悪の知識なのです。人間が神様に立ち帰らないかぎり,人間や人類や地球や宇宙のあらゆる問題は、本当は何も解決しないのです。間違った善悪の知識が生み出すものは、次の大いなる災禍につながるだけです。

 人間は、自ら神様を離れて、間違った善と悪の知識で自我にとらわれ、私腹を肥やすために必要以上の食物を乱獲し、一方で食べることが出来ない子供たちを放置しています。自分たちの国や社会を正当だとして、他の国や社会を敵と見なして戦争します。カインのような支配者・権力者のもとで、食べるために労苦し、生存競争の組織でもがき、心を病み、子供たちを競争に追い立て、カインの町のような「世」の一員として認められるようになるために、心血を注いで争います。
 しかし、理不尽・不条理な世を作り出しているのは人間自身であり、人間がそこで労苦している本当の理由は、人間が神様から離れて生きていることなのです。蛇と世の支配者たちは、人々の労苦など気にも留めず、私腹を肥やすために人々にローンという名の借金を背負わせ、税金を高くし、さらには女性たちをも働かせて税収を増そうと企て、景気を上げるための特需として戦争を企て、武器を売り、戦争を恐れる国には武器から身を守るための防衛設備を売って、儲けます。衣食住に汲々としながら生きている人々は、知らない間に自分たちが世界を滅亡させる最終戦争に巻き込まれていることに気付くでしょう。いいえ、もう既に世界中の人々が巻き込まれているのです。
 イエス様は、2000年も前に、そのような世が終わることを告げられました。そして、世を恐れて世に属する「生きているとは名ばかりの死人」になるのではなく、神様に属して「生きる者」となりなさい、と教えられました。以来、神様は最終最後の2000年間、猶予されたのです。人々が神様に立ち帰るための猶予です。
 その2000年は、もう間もなく終わろうとしています。ノアの洪水のときと同じく、世に属している人たちは、世と共に滅びます。
 
 
 創世記5章の最後に「ノアは500歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた」と書かれています。大洪水の100年前のことです。




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