安息日の礼拝  創世記の真相

創世記6章



6:1
 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

 ヘブライ語原典では「そして、土地の面の上に人が増え始めた時、娘たちが彼らに生まれた。神の息子たちは人の娘たちを見て、彼女たちが良い(=美しい)ことを見た。そして彼らが誰からでも、自分たちのために妻たちを自分たちのために娶った。そして主は言われた。【わたしの霊が、肉でしかない人の中に、いつまでも留まらないように、彼の日々は100と20であろう】」です。

 地上には、アダムとエバよりも以前に創造された野の人々の子孫たち、アダムとエバの長子カインの子孫たち、カインに殺された後に産まれたセトの子孫たちが増え始めました。「神の息子たち」というのは後に出て来る「ネフィリム」(天から堕ちた者)から分かるように、堕落して天から落とされた御使いたちのことです。この御使いたちは、蛇に追随した天使たちです。
 御使いたちは、人のような肉を帯びることもできましたし、動物の中に霊として入ることができました。聖書には、御使いが人の姿をしてアブラハムの前に現れたり、イエス様の時代にも悪霊たちが豚に入ったことが記されています。
 堕落した御使いたちは、霊として悪人の中に入ったり、人の姿を帯びたりして人の娘を娶っていたのかも知れませんし、あるいはエバが蛇と交わったように、蛇や動物の姿を帯びて人の娘を娶った可能性も否めません。彼らが人の娘を美しいと見えたのは、必ずしも外見のことではなく、人の中には神様の霊が入っていたので美しく見えたのです。神様の霊は、人を内側から輝かせるからです。
 そもそも人の娘たちが、堕落した御使いたちに応じて妻になることが異常なのですが、人の娘たちはそうなりました。それを見て神様は、神様の霊が人の中にいつまでも留まる事がないようにされるのです。新共同訳聖書の日本語訳では、この時点で神様が人の年齢を120年にされたかのような訳になっていますが、ヘブライ語原典ではそうではありません。人の年齢が100年、あるいは長生きしても、せいぜい120年となるのは、地球環境が激変した後、すなわち大洪水の後でしょう。日本語訳の120年というのも、ヘブライ語原典では「100と20」です。これは、人の年齢は100年、あるいは長生きしても、せいぜい120年と訳すべきです。



6:4
 当時もその後も地上にはネフィリムがいた。
これは、神の子らが人の娘たちのところに入って生ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

 ヘブライ語原典では「それらの日々に、その後にもまた、その地にネフィリムがいた。神の息子たちが人の娘たちのところに来て、彼女たちが彼らに産んだ。彼らは昔から名声を博した英雄・豪傑たちであった。」

 ネフィリムについて、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』には「暴力にきわめてたけた、横柄で、いっさいの徳を軽蔑する子供たちを生んでいった」とあります。
 ネフィリムのことは、民数記に「巨人」と書かれているため、よく誤解されるのですが、聖書を読むときに、明確にしておくべきことがあります。聖書に収められている文書は、どれもこれもが必ずしも神の啓示によって書かれたものではありません。創世記や預言者の書は、明らかに啓示によって書かれた書ですが、民数記や歴代誌や列王記などはユダヤ人の手による歴史書というのが正確です。歴史書というのは、必ずしも信仰の対象となるような書ではなく、盲目的に信じていいものでもありません。実際、聖書の中でもそうした書には、実際の歴史と矛盾している点も少なくないのです。
 実際、ネフィリムのことは創世記にも預言書にも、巨人であるとはまったく書かれていませんし、ユダヤ人ヨセフスもそのことを認識しています。
 ネフィリムというのは、その傲慢な尊大さにおいて、心が巨大なのです。そして、そういう人間は、確かに霊的には巨人とも言えるのです。ネフィリムのことを「巨人」というのは、実際にはそういう意味なのです。ヨセフスの説明は、的を得ていると思います。
 ただ、御使いと人から産まれた子が、通常の人間よりも巨大だった可能性は大いにあります。実際、聖書にはネフィリムの子孫として、通常の人間よりも少し巨大な部族が登場します。雄ライオンと雌トラを異種交尾させると、ライガーという非常に巨大な混血の子が産まれます。ライガーは、ライオンやトラの1.5倍ほどの大きさなのです。このことから、御使いと人の娘から産まれた子が通常の人よりも大きかったとしても、何の裏付けもない話ではないと言えるでしょう。



6:5
 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかしノアは主の好意を得た。

 
 ヘブライ語原典は「主は、地に人の悪が多いことを、そして一日中、悪いだけの彼の心の考えのすべての衝動を、見た。そして、主は地に人を造ったことを悔やまれ、心に悲しんだ。主は言われた。『わたしは、土地の面から、わたしが創造した人を消そう。人から家畜まで、また空の鳥から這うものまで。わたしは彼らを造ったことを悔やむ。』 しかし、ノアは主の目に恵みを見出した(=特別な好意を得る。寵愛を受ける)」です。

 主は、人が神様に立ち帰っていって善を増していくのではなく、その逆にますます悪を増していって、その衝動が常に悪に傾き、心に悪を思いめぐらしているのを御覧になられました。そして、神様は人を創造されたことを悔やまれ、その心痛は深いものでした。エノクの息子メトシェラの誕生の際に、人が神様に立ち帰らなければ大洪水が来ることを預言され、969年の間、待っておられたのに、エノクとノアの他には誰一人も神様に立ち帰る者はいなかったのです。それどころか、神様が創造された世界は、すっかり悪で満たされていました。
 人だけではありません。堕落していない家畜や鳥などの生き物たちでさえ、悪に満ちていたのです。それは人が、堕落した御使いたちに倣って悪をなし、動物たちも同様になっていたことを示しています。動物を飼った経験がある人は分かると思いますが、たとえば飼い主が犬に、人を殺すように躾をすると、犬はそのようになります。実際、戦争中には犬はそのような使われ方もしました。地上に悪が満ちれば、動物たちも悪に倣い、悪に染まるのは当然です。
 家畜も鳥も這うものたちも、すべて人しだいなのです。御使いたちでさえ、そうなのです。御使いたちが人の娘たちのところに来たとしても、人の娘たちが彼らを退ければ問題ないのです。ところが人の娘たちは、堕落した御使いたちに従いました。御使いというのは、そもそもは神の子たる人に仕えるために創造されました。ところが現代でも、天使を人よりも高位の存在として、あがめている人は少なくありません。彼らは、そこにつけ込むのです。
 このとき、エノクはすでに神様が取られていたので、地上で神様の目にかなったのは、ノアただ1人でした。



6:9
 これはノアの物語りである。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム・ハム・ヤフェトが生まれた。
 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。
「すべての肉なるものを終わらせるときがわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。

 
ヘブライ語原典では「これらがノアの系図である。ノアは彼の世代の中で完全な義(ただ)しい人であった。ノアは神と共に歩き回った。そしてノアは3人の息子たちを産ませた。セムを。ヤフェトとハムを。地は神の面前に堕落し、地は暴虐で満たされた。神は地を見た。見よ、(地は)堕落していた。なぜなら、すべての肉が、地の上で彼の道を堕落させたからだ。そして神はノアに言った。『わたしの面前に、すべての肉の終わりが来る。なぜなら彼らのゆえに地が暴虐で満ちている。見よ、わたしは彼らを地と共に滅ぼす。」です。

 
日本語訳では「ノアは神に従う無垢な人であった」と訳されていますが、ヘブライ語原典では「ノアは彼の世代の中で完全な義(ただ)しい人であった」です。「完全な義しい人」を「無垢な人」と訳しては、かえって分かりにくいのではないでしょうか。「ノアは完全な義しい人であった」のです。ただ、ヘブライ語の「完全」はパーフェクトという意味ではありません。「ありのまま、自然の」という意味で、「神様が創造されたように義なる人」と訳すのが正しいでしょう。「ノアは神と共に歩き回った」とありますから、常に神と共にいたのです。神様が彼と共に居てくださったのではなく、ノアが自らの意思で神様と共に居たのです。
 『ユダヤ古代誌』には、ノアについて次のように記されています。「彼ら(ノア以外の人間たち)の行為に立腹し、彼らの意図を不快な気持で見ていたノアは、彼らに精神を改め行動を慎むよう説いたが、彼らはそれに耳を傾けるどころか、完全に悪徳の悦びの奴隷になった。それを知ったノアは、彼らに殺されることを恐れ、妻たちや息子たち、そして彼らの妻たちを連れてその土地を離れた。」


 
日本語訳ではノアの息子たちはセム、ハム、ヤフェトの順で書かれていますが、ヘブライ語原典ではそうではありません。セムが3人の中では特別視された書かれ方で、ハムとヤフェトの順は逆のようにも読める書き方がされています。実は、ここは重要なのです。どのように重要なのかは後に分かりますが、ヘブライ語原典ではハムが「末の息子」であるように書かれています。このことは、後に出て来る、洪水の後にノアがぶどう酒で酔って「末の息子」がしたことを知り、ハムの息子であるカナンが呪われるという箇所の謎を解明する鍵なのです。新共同訳では、その謎が解明できないばかりか、さらに謎を深めてしまっているのです。
 さて、義(ただ)しいのはノアだけで、それ以外はすべて「肉なるもの」と神様は言われています。人間も動物も、ただ肉欲に従って快楽と暴虐に明け暮れていたのです。あるいは、そういう人々に迎合して生活していたのです。肉に従って生きる人や、そういう人たちに迎合している人は、肉にすぎないということです。



6:14
 あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟は小部屋をいくつも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
 次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それをし上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。


 ヘブライ語原典には次のように記されています。「お前のために、ゴフェルの木の箱舟を造れ。小部屋を造り、内側からと外側からタールでそれを覆え。箱舟の長さを三百アンマとし、その幅を五十アンマとし、そしてその高さを三十アンマで、お前がそれを造る。お前は箱舟に天窓を造れ。上から一アンマのところに造り、また箱舟の入り口、その側面にお前は付けて、それを完成せよ。下の階、二階と三階をお前が造れ。」です。

 神様がノアに命じている箱舟の長さ・幅・高さの比率は、後にモーセによって出エジプトして創られる「主の幕屋」の比率と同じです。この長さ・幅・高さ=30:5:3という比率は、黄金律と呼ばれる全宇宙共通の安定比率であることが科学で判明していますが、いまだにその理由はわかっていません。また「箱舟」と訳されているヘブライ語は、赤子だったモーセが籠に入れられてナイル川に流された際の「籠」と同じ言葉です。

 近代の科学者たちによって実際にここに書かれている大きさで箱舟が造られたことがあり、この比率でないと水に浮かぶことがないと考えられる絶妙なバランスだということが判明したそうです。現代のタンカーなどの大型船を建造する際にも、この比率が最も安定するそうです。
 この比率はあらゆるものに共通しているもので、神様の創造された世界の奥義の一つを示すものでもあります。
 「主の幕屋」は、その周囲に「庭」があります。また、それは後に神殿の中に納められることになります。ノアの箱舟は人だけでなく、動物たちも「つがい」で入るため、下の階、2階、3階という大きな造りでしたが、預言者エゼキエルが幻に見た神殿も、同様に階層のある造りです。つまり、ノアの箱舟は「主の幕屋」および「主の神殿」の原型でもあるのです。そして、その比率は永遠に変わることのない絶対比率で造られています。それは神様に属するもの、ということであり、宇宙創造の絶対比率でもあります。
 ということは、神様の指示に従って箱舟の建造を主催したノアは、「主の幕屋」の主催者である大祭司の雛型でもあるのです。




6:17
 見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべての肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。

 
ヘブライ語原典は「そしてわたしは、見よ、わたしは地の上に水の洪水をもって来る。命の霊がその中にあるすべての肉を滅ぼすために。地のすべてのものは天の下から息絶える。」です。
 
 神様は『命の霊(神様の息ではありません)をもつ、肉なる存在』を滅ぼすために洪水を起こすと言われました。命の霊をもつ肉なる存在とはどういう存在のことでしょうか?
 「命の霊」をもつ(ルアハ・ハイーム)は、創世記2章で神様がアダムの鼻に「命の息吹」(ニシュマット・ハイーム)とは異なります。エバが蛇と交わり、そのエバとアダムが交わって生まれた子孫たちは、アダムが神様から吹き入れられた「命の息吹」そのままではなくなりました。そのことはエバが、本来はすべての「命の息吹」を吹き込まれた人の母となるべきだったのに、蛇と交わったために、すべての生き物の母となってしまったことからもわかります。
 さらに、アダムとエバから産まれた子孫たちは、神様に立ち帰って本来の「命の息吹」をもつ人となるべきだったのに、ますます悪を増していきました。それによって人は動物と同じ、いえ動物以下の「命の霊」をもつ者となってしまったのです。堕落した御使いたちと交わった人の娘たちも、そこから産まれた者たちも「命の霊をもつ、すべて肉なるもの」ですし、天地創造の第5の日に創造された「生ける魂」である生物たちも、堕落した御使いや人間に倣って悪をなすものとなったので、同じく「命の霊をもつ、すべて肉なるもの」だと言えます。神様はそれらを天の下から滅ぼす、と言われたのです。
 ただしヘブライ語の「すべて」(コル)は、日本語の「全て」と必ずしもまったく同じ意味ではありません。日本語の「あらゆる」の方が近い意味をもつ場合があります。ここで神様が「すべての肉を滅ぼす」と言われているのも、ノアやその家族は含まれていませんし、箱舟に乗せる生き物たちも含まれていません。



6:18-22
 わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべての命あるもの、すべての肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられるものはすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。

 
ヘブライ語原典では「わたしは、わたしの契約をお前と共に立てよう。そしてお前は、お前の息子たちとお前の妻、お前の息子たちの妻たちと共に箱舟に入れ。そしてすべての生き物から、すべての肉から、すべてのものから2つ、お前は箱舟に連れて入る。お前と共に生かしておくために。それらは雄と雌であれ。鳥からその種類に従って、また家畜からその種類に従って、すべての地の這うものの種類に従って、すべてのものから2つ、お前に向かって来させよ。生かすために。そしてお前は、食べられるあらゆる食物から、お前のために取れ。そしてお前はお前のところに集めよ。それらはお前と彼らに食物になるだろう。』ノアは神が彼に命じたことをすべて行った。彼はそのように行った。」です。

 ここで初めて神様は人との間に「契約」を立てよう、と言われます。人が堕落しなければ、そもそも神様と人との間に「契約」は必要ありませんでした。契約がなくても人は当たり前のこととして神様に従って生きたからです。ところが人が堕落したことによりその中から神様に立ち帰ったノアとの間に、神様は初めて「契約」を立てようと言われたのです。
 ここで言われている契約は、正式には洪水が終わってから交わされることになるのですが、広義にはすでにこの段階から契約がスタートしているとも言えます。なぜならば、後に正式な契約を交わすための前提条件として、ノアが神様が命じるとおりに箱舟に入るべきものを入れなければ、後の契約も成立しないからです。
 神様はノアと契約を立てるために、まずノアに、妻と、息子たちと、息子の妻たちと共に箱舟に入れと命じられます。彼らはノアのようには義しくはなかったわけですから、彼らと共にに箱舟に入ることも簡単なことではなかったでしょう。自分の身に照らさないで何気なく読んでしまうと、そうしたことも見逃してしまいがちです。神様からそう命じられたからには、ノアは妻と息子たちと息子の妻たち全員を、箱舟に入れる必要がありました。それはノアほど義しくはない彼らに、洪水が来ることを信じさせることを意味しています。そのことだけでも大変な苦労だったに違いありません。
 また、あらゆる生き物の雄と雌を箱舟に入れることも、並大抵のことではできません。そしてノアは、自分と家族と家畜や動物たちの「つがい」のために、あらゆる食物を集めて箱舟に入れました。食物も単に集めただけでは腐ってしまいますから、洪水の間と、地に食物が実るまでの期間、自分と家族と家畜や動物たちが食べられるだけのものを用意することも並大抵のことではありません。
 箱舟を造る作業もそうですが、膨大な年数をかけてノアはそれらを実現させたのです。ノアは、神様が彼に命じたことをすべて行った、と記されています。さらに「彼はそのように行った。」と重ねて記されています。これは、ノアが神様から命じられたことをすべて行ったことが、いかに並外れた大事業であったかを物語っています。
  




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