8:1-4 神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。また、深淵の源と天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って、第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。 ヘブライ語原典では「神は、ノアと、彼と共に箱舟の中にいたすべての生き物とすべての家畜を覚えておられた。神は地の上に風を通過させたので、水がひいた。そして、深淵の泉と、天の天窓がせき止められ、天からの雨がまた閉じ込められた。地の上から水は行ったり来たりしながら戻った。100と50の日の終わりから、水が少なくなった。そして第7の月の17日に、箱舟はアララトの山々の上に着地した」です。 第1の月の1日から数えて7日+40日、つまり第2の月の17日から始まった雨は、やがて地上に大洪水となり100と50の日(5ケ月)の間、地上で勢いを失いませんでしたが、その水は減り始めました。 そして、第7の月の17日、箱舟はアララト山脈のひとつに止まりました(日本語聖書ではアララト山と記されていますが、アララトは山脈の名称で、箱舟がとまったのは山脈の中の一つです)。 フラウィウス・ヨセフスは「ユダヤ古代誌」の中に「こうして箱舟は、アルメニアのある山の頂きに漂着した。」と記しています。 第7の月の17日は、ちょうど後に三大祭礼の1つとして祝われることになる仮庵祭にあたっています。それだけではありません。ルカ福音書の記載から算出されるイエス様の誕生日が、ちょうど第7の月の中旬なのです。 洗礼者ヨハネの父ザカリヤは、アビヤ組の祭司でした。祭司の組は24組が春分から始まる24週ごとの安息日を交替でシフトします。アビヤ組は第8組でした。AD.70年8月5日にエルサレム神殿がローマ軍に破壊された際、第1組の祭司が神殿奉仕の務めを終えたところだったことが、ヨセフスの証言とユダヤ教のタルムードから分かっています。そこからユダヤ暦(太陰暦)で逆算すると、ルカ1章でザカリヤが第3月の3週目の神殿奉仕を終えたのはBC.3年7月13日と算出されます。ザカリヤの妻エリサベツの懐妊はその後のことですから、妊娠期間280日を加算すると、洗礼者ヨハネの誕生がBC.2年4月19〜20日前後となり、ちょうど過越祭にあたっています。 エリサベツの妊娠6ケ月目に、イエスの母マリアが懐妊しました。BC.3年12月の4週目です。そこから280日後がイエス様の誕生日で、西暦(太陽暦)のBC.2年9月29日前後となります。ちょうどユダヤ暦の第7の月の中旬、17日前後です。そして仮庵祭とも一致するのです。 イエス様の誕生から500年程前のBC.538年に、ユダの民は70年に及ぶバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還しました。その際に、神様は預言者ゼカリヤ(ザカリヤと同名)を通して神殿再建を命じられました。そしてゼカリヤは、メシヤ到来についても預言したのです。 「私は言葉をついで御使いに尋ねた。『燭台の右と左にある、これら2本のオリーブの木は何ですか。』わたしは重ねて彼に尋ねた。『その2本のオリーブの木の枝先は何ですか。それは2本の金の管によって、そこから油を注ぎ出しています。』彼がわたしに、『これが何か分からないのか』と言ったので、わたしは『主よ、分かりません』と答えると、彼は『これは全地の主の御前に立つ、2人の油注がれた人たちである』と言った。」(ゼカリヤ書4:11-14) 2人の油注がれた人たちとは、2人のメシヤのことです。メシヤとは「油注がれた人」の意味で、イスラエルの民の中で油注がれるのは王と祭司だけです。預言者ゼカリヤは、王メシヤと祭司メシヤが揃って来ると預言したのです。預言者ゼカリヤは、さらにこう続けます。 「主の言葉がわたしに臨んだ。『帰還した捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤ、エダヤの家族から、贈り物を受け取りなさい。あなたはその日のうちに、ツェファンヤの子ヨシヤの家に入りなさい。彼らはバビロンから帰ったばかりである。銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、宣言しなさい。 万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。彼こそ主の神殿を建て直し 威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて 平和の計画が二人の間に生ずる。」(ゼカリヤ書6:9-13) この預言は一見すると、主が預言者ゼカリヤに対して、大祭司ヨシュアの頭に戴冠して宣言しなさいと言っているように見えます。しかし、よく注意して見ると、ヨシュア(イエスと同名)に戴冠して、『若枝』という名の人である、と言っています。『若枝』が、ダビデの若枝を意味する救世主たる「人の子」を意味することは、帰還したユダの人たちは知っていました。それが大祭司ヨシュアのことを指すのではなく、古来から預言者たちが預言していた「とき」に来られる方であることも知っていました。 つまり預言者ゼカリヤは、やがて来るダビデの若枝である方の名はイエス(ヨシュアは同名)であり、真の神殿を再建するのは、その方であると宣言したのです。ですから、大祭司ヨシュアらが再建する神殿は、その方を迎え入れるための「器としての神殿」にすぎません。その方が神殿に入られてこそ、神殿は真に再建されるのです。ですから大祭司ヨシュアたちは神殿を完成させていません。神殿の基を造っただけです(ところが血迷ったヘロデ王がイエス様が来られる前に神殿を無理やり作ってしまうのですが)。 イエス様の傍らにいる祭司とは、祭司メシヤである洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネの父ザカリヤ(ゼカリヤと同名)の妻エリサベツと、イエスの母マリアは血縁関係にありました。 預言者ゼカリヤは、さらに預言をこう続けます。 「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にある、オリーブ山の上に立たれる。」(ゼカリヤ14・4) 主イエス様は、第7の月に地上に誕生され、イエス(ヨシュア)と命名され、メシヤとして戴冠し(洗礼者ヨハネの水の洗礼の際に、聖霊がイエス様の上に降りて戴冠されました)、オリーブ山の上に立たれました。預言者ゼカリヤの預言は成就したのです。 8:5-12 水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂きが現れた。四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。 ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のもとに戻した。 更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から離した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブのはをくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。 ヘブライ語原典では「水は第10の月までに徐々に少なくなっていって、第10の月の1日に、山々の頂きが見えた。そして40日の終わりに、ノアは彼が造った箱舟の窓を開いた。そして彼はカラスを送った。するとそれは出て行ったが、地の上から水の乾くまで、出たり戻ったりした。ノアは、土地の面の上から水が軽くなったか見るために、彼のもとから鳩を送った。しかし、鳩はその足の裏のために休む所を見つけなかったので、箱舟に彼に向かって戻って来た。なぜなら、全地の面の上に水があったからで、ノアは彼の手を伸ばしてそれをつかまえ、それを箱舟に彼の方に入れた。そして彼は再び7日間待って、再び鳩を箱舟から送った。夕方頃、鳩は彼のところに来た。すると見よ、その口に摘みたてのオリーブの葉があった。それでノアは、地の上から水が軽くなったことを知った。さらに7日間、ノアは待たされた。そして彼は他の鳩を送った。しかしそれは再び彼のところに帰って来ることはなかった。」です。 第7月の17日に、箱舟がアララト山脈に着地してから約2ヶ月半後の第10月の1日には、山々の頂きが見えるほどに水は引いていました。ヨセフスは、洪水の水は地表の15ペークスの高さに達していたので、150日という数字と対句になっていることを記しています。 それから40日が過ぎた第11月の10日に、ノアは箱舟の窓からカラスを放ちました。このカラスが、箱舟から出て帰って来なかったのか、あるいは箱舟を出たり入ったりしていたのか、聖書によって訳が異なります。それが異なると、カラスと鳩の意味の解釈も違ってきますので、重大な問題です。ヨセフスは、「カラスは、すべての地がまだ水に浸ったままだったので、ノアのもとへ戻って来た。」としていますから、ヘブライ語の解釈はこれが正解とみていいでしょう。 たくさんいる鳥類の中で、ノアがカラスと鳩を選んで放したのには理由がありました。一つには、ノアはカラスと鳩の生態の特徴を知っており、それを生かす知恵があったのです。 カラスと鳩の生物学的特性について、日本女子大学理学部物質生物科学科教授・宮本武典氏は「箱舟から出てきた動物たち」をテーマにした講演の中で、水が完全に引くのを待っていたノアが最初にカラスを放ったことに言及しています。カラスは水を嫌わない鳥で、鳩は乾いた野原を好む特性から、先にカラスを放し、次に鳩を放したことは、ノアがその特性をよく知っていた証拠だと言うのです。また、鳩は視界が一方向しか見えないのに対し、カラスの視界は広角である上に人間には見ることが出来ない紫外線までを見ることからも、カラスは多角的な思考や本能をもつ鳥であることが分かっています。カラスは本物の肉と偽物の肉の違いを、すぐに判断できると言います。そのカラスが箱舟を出たり入ったりしている様子から、ノアは、地上に水が覆っているために箱舟に出たり入ったりしていることを悟ったのです。実際、古い時代の航海ではカラスが先導役として用いられていたそうです。 次に、ノアは鳩を放ちました。鳩は直進方向しか見えないため、目的地に向かって飛び、元の巣に戻るという習性があります。鳩がすぐに戻って来たのを見て、ノアは地がまだ乾いていないことを悟ったのです。 その7日後、2回目に鳩が口にオリーブの葉をくわえて夕方に戻ってきたことは、低地に生えるオリーブの新芽が芽吹いていることを示し、それによってノアは高地だけでなく低地も乾いたことを知ります。このことから、洪水の水は極めて急激に引いたことがわかります。 実際的な理由のほかに、もしこのカラスと鳩に秘められた意味があるとしたら、それはどういうものでしょうか。 カラスと鳩について、多くの人はカラスは不吉の象徴で、鳩は平和の象徴だと考えがちですが、そのきっかけとなった解釈の一端は、帝政ローマ末期のカトリック司教ヒラリウスらの教父たちによる解釈が影響していると言えます。その解釈は次のとおりです。 「カラスは罪人の象徴である。ノアのもとから送り出されたカラスからしてすでに、箱舟(すなわち教会)に戻る代わりに現世の虚栄のもとにとどまった罪人だと解釈している。悪徳が目に見える具体的イメージとして表現される場合、カラスは時折『貪欲』の象徴的付属物として使われる」 また、ルネッサンス期の画家ヒエロニムス・ボスの画では、民間信仰において絞首台の鳥として恐れられていたカラスは、「生」の暗黒面の象徴である「死」そのものの暗示として描かれています。 しかし、聖書ではカラスは必ずしも罪人を象徴する鳥ではなく、必ずしも悪い鳥ともかぎりません。神様は、預言者エリヤを養うためにカラスに、朝と夕にパンと肉を運ばせています。それに、一新された地でどうしてノアが悪い鳥を放つ必要があるでしょうか。事実、ノアが放ったカラスは何も悪いことをしていません。イエス様もカラスについて、こう言っています。 「カラスのことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も蔵も持たない。だが、神はカラスを養ってくださる。」(ルカ福音書12・24) ちなみにイエス様は、鳩については「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)と言っておられます。 鳩とカラスは、鳩は幼子のように素直なことの象徴であり、カラスは賢いことの象徴としてとらえるのが正解ではないでしょうか。 ノアが最初に放ったカラスと第1の鳩は、共に地上に降りなかったものとして記されています。箱舟は「主の聖所」の象徴でもありました。「主の聖所」は「神の家」でもあります。「神の家」から放たれるカラスと最初の鳩は、神様が地に遣わすけれども地上には足を降ろす場所がありませんでした。それは地にそれを受け入れる準備ができていなかったと見ることもできます。 このカラスと最初の鳩の意味を知るためには、第2の鳩と第3の鳩の意味が分かれば、自ずと第1の鳩の意味とカラスの意味が分かるように思います。 第2の鳩は、いったん地上に降りてオリーブの葉をくわえて、夕方に戻って来ました。オリーブは、預言者ゼカリヤの書でも見たように、聖なる油注ぐものを意味します。そうすると第2の鳩は、油注がれた者=メシヤを意味しているように思われます。結果論ですが、イエス様はメシヤとして地上に遣わされましたが、イスラエルの民によって十字架につけられ、夕方に神様のもとへ戻られ、神様の右の座につかれました。イエス様は十字架につかれる前に「終わりのとき」に「人の子」が来ることを預言されました。イエス様ご自身も、自らを「人の子」と称しています。 この「人の子」というのは、イスラエルの民がバビロニアに捕囚されていた時に、ダニエルという人が幻に見ました。幻の中で「人の子」は、神様の一部である方として登場します。エノクも、この「人の子」を幻に見ています。 つまり、第2の鳩も、第3の鳩も、「人の子」を表しているのです。だとすると、第1の鳩も「人の子」の象徴と言えます。ただ、第1の「人の子」は地上に降りませんでした。地上に「人の子」を迎える準備ができていなかったからです。 私たちは結果論として、「人の子」であるイエス様が来られたことと、「終わりのとき」に別の「人の子」が来られることを知っています。終わりのときに来られる「人の子」の名は、その人以外には誰も知らないとヨハネ黙示録は記しています。「人の子」としての使命は共通していても、肉体を持って地上に来られるからには、同じ肉体の人間ではありません。別人です。だからこそ第3の鳩は「他の鳩」と書かれているのでしょう。第1の鳩と第2の鳩は同じ鳩かも知れません。 結果的には、そう言えるのですが、地上に準備さえできていれば第1の「人の子」は地上に降りられないにしても、第2の「人の子」は地上に準備さえできていれば、もっと早くに来られたかも知れませんし、第3の鳩も、もっと早かったかも知れません。 3つの鳩が「人の子」を象徴するとするならば、カラスは何を象徴しているのでしょうか。カラスは、第2の「人の子」が地上に来られる以前に、地上には来ないものとして記されています。そして、カラスは賢さを示しています。だとしたら「聖霊」を象徴しているのかも知れません。「聖霊」は聖書の中で「知恵の霊」とも言われています。預言者は、聖霊=知恵の霊に満たされて、神の言葉を預かります。神の言葉=「人の子」であり、神の言葉はまさに神の一部です。こうとらえると、カラスが預言者エリヤをパンと肉で養ったのも、同様の意味として理解できます。 また、カラスが箱舟を出たり入ったりしたことの説明もつきます。イエス様が地上に来られるときまでは、神様からの預言が何度も与えられたからです。預言の霊が、何度も神様と預言者との間を行き来した様子は、カラスが出たり入ったりしたことと似ています。 8:13-19 ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水が乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。 神はノアに仰せになった。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外に出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。 ヘブライ語原典では「そしてノアが600と1歳になった第1の月の1日に、地の上から水が乾いた。ノアは箱舟のふたを除いた。彼が見ると、見よ、土地の面は乾いていた。そして第2の月の20と7日に、地は乾ききった。神はノアに向かって『お前は箱舟から出よ。お前の妻、お前の息子たちと息子たちの妻たちと共に。すべての肉なるものからお前のもとに来たすべての生き物、鳥も家畜も地の上を這うものも、お前と共に連れ出せ。地に群がるように、そして産むように、また地の上に増えるように。』と語った。そしてノアは、彼の息子たちと彼の妻、息子たちの妻たちと共に、出た。すべての生き物、すべての這うものとすべての鳥、すべての地の上を這っているものも、それらの家族に従って箱舟から出た」です。 ノアの601歳の第1月の1日に地上から水が乾いたことは、地が一新されたことを表しています。そして第2の月の27日、太陰暦の1年に10日を足した365日(ちょうど1年)後に、地はすっかり乾いて、神様はノアたちに箱舟から出るよう命じられました。 ノアは、カラスと鳩によって地が乾いたことを知りましたが、神様から命じられるまで3ケ月以上もの間、箱舟から出ませんでした。ノアは自分の知恵と知識を尽くしはしましたが、それに頼って自分で判断することはしなかったのです。 このことは、神様と人のあるべき関係を教えてくれています。神様が命じるまで箱舟から出ないのだからと、何もしないで待っているだけが、あるべき信仰ではないということです。それは神様への忠実のように見えて、不忠実なのです。だからといって、人が自分の知識と知恵で判断して箱舟から出るのは傲慢です。箱舟に乗ったのは神様に命じられたからで、そのお陰で洪水から救われているのですから、箱舟から出るのも神様に命じられてからです。多くの人は、神様に忠実そうに見せて何もしないか、自分の浅はかな知恵と知識で判断してしまうか、どちらかです。ノアは人間としてあらゆる知識と知恵でできるだけのことをした上で、神様の指示を待ったのです。 このことは、イエス様が言われた「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)にも通じることです。求め探し門を叩かない人が、神様から与えられることはないのです。求め探して人間が得られるものは答えではありません。答えは神様から与えられます。しかし求め探さない人は、神様から答えが与えられることはないのです。 自分が求め探して見つけた情報を、自分の浅はかな頭で答えだと勝手に決めつけるのは傲慢です。だからといって、何も求め探さないのは怠慢です。正しい動機で正しいものを求め探し門を叩いて、人間としてでき得るかぎりのことを本当にしたならば、神様は答えを与えてくださいます。間違った動機で適当に求め探して得られるのは蛇のくだらない知識にすぎないのです。 神様は、ノアに、家族とあらゆる生き物たちと共に箱舟を出なさいと命じられました。彼らが地に群がり、産み、増えるように。そして彼らは、一新された地に降り立ったのです。 8:20-22 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主はなだめの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない。」 ヘブライ語原典では「そしてノアは主に祭壇を築いた。そして、すべての清い家畜から、またすべての清い鳥から取って、祭壇で燔祭を献げた。主は芳香の匂いを嗅がれて、御心に言われた。『わたしは、人のゆえに土地を再び呪うことをしない。なぜなら、人の心の衝動は、彼の少年期から悪いからだ。また、わたしは再び、もう一度、わたしがしたようにすべての生き物を撃つことをしない。地のすべての日々が続く限り、種蒔きと刈り入れが、また寒さと暑さが、夏と冬が、昼と夜が、やまない』」です。 ノアが箱舟から出て最初にしたことが、主のために祭壇を築くことでした。ノアは自分や家族のことよりも先に、まず主に祭壇を築いて、献げものをしたのです。これは神様に命じられたことではなく、ノア自身の心からの「神様への感謝」が行為に表れたものでした。 ノアがしたことは、イエス様が言われた「神の国とその義とをまず第一に求める」ことであり、自分の生存を神様にゆだねるということです。そうすることにより、人に必要なものは神様が添えて与えて下さることをイエス様も保証してくださっています。ところが、それなのに人は、自分の生存の保障を神様にではなく財産に求めるのです。財産は「富」のことで、富の別名は「マモン」です。マモンとは悪魔と同義語です。自分の生存の保障をマモンに求めることは、自分をマモンにゆだねることです。ですから、その人はマモンのもの、ということになります。自分の生存の保障を財産に求める人は、口では何と言おうとも神様のこともイエス様のことも信じていないことを、自分で証明しています。 神様が燔祭を命じられたのではありませんが、ノアのこの行いは神様に届きます。神様は、ノアのその心と行為とに応えられて、地のすべての日々が続く限りは全被造物を再び撃つことをすまい、と御心に思われました。ここでのノアと神様との関係は、極めて親密です。そのような神様との関係を、ノアはある程度、取り戻したとも言えます。もちろん本来の堕落前の人間に戻るためには、祭壇さえ不要な関係を取り戻す必要があります。 さて、見逃してはならないのは全被造物が撃たれるようなことがないのは「地のすべての日々が続く限りは」です。それはつまり、地のすべての日々が終わる日が来ることを表しています。それがイエス様が言われた「終わりの日」です。「終わりの日」までは、すべての生き物が撃たれるようなことは起こりません。地が続く限りは、種蒔きと刈り入れが、また寒さと暑さが、夏と冬が、昼と夜が、やむことはないのです。しかし、地の終わりのときには、寒さと暑さがやみ、夏と冬がやみ、昼と夜がやむ、ということでもあります。 さて、もう一つ留意しておくべきことがあります。ノアのこの行為は、ノアが最初の「神の祭司」となったことを示しています。このことが、後にノアの家族に起きる「あること」を解明する鍵になるのです。 |