安息日の礼拝  創世記の真相

創世記9




9:1

 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。


 ヘブライ語原典では「神はノアと彼の息子たちを祝福した。そして彼らに言った。『産めよ。また増えよ。そして地に満ちよ。地の生き物と天の鳥のすべて、土地を這うすべてのものの中と、海の魚の中には、お前たちへの畏れとお前たちへの恐怖心がある。お前たちの手に彼らは与えられた。すべて生きて這うものすべてはお前たちの食物になるであろう。わたしはお前たちに草の青草と同様に、すべてのものをお前たちに与えた」です。

 神様は、かつて天地創造のときに祝福されたように、洪水によって新たに生まれ変わった地において、あらためてノアと彼の息子たちが繁栄するよう祝福されました。アダムとエバが堕落して以降、地上に産み増えた人間たちは悪をなし、地を悪で満たしました。そこで神様は地上を洪水によって一新され、ノアと息子たちを改めて祝福されたのです。
 そして地のすべての生き物たちがノアの子孫たちを畏敬する心をもち、彼らが恐怖心を抱くようにされました。ということは、洪水以前は動物たちは人間に対して畏れを抱いておらず、恐怖心も持っていなかったということです。それは人間が堕落して動物以下の存在になっていたからです。
 カインがアベルを殺して以降、地上に正義はなく、人間同士ばかりではなく、人間と獣、他の動物との間においても殺戮や傷害が絶えず、弱肉強食の世界が拡がり続けました。そして悪が悪しき力で正しいものをも支配してきました。本来は全地を支配統治すべく創造された人間が、動物以下になったことで、動物に対して恐れを抱き、神様ではなく「強者」に依存していたことを表しています。悪しき力が支配する世界を人間は造ったのです。そして地は、人間の血と動物たちの血で染められ、その結果、地はますます呪われるものとなり、地は疲弊したのです。

 洪水以降、神様は初めてノアと息子たちに『肉食』を許されました。「生きて這うもの」とは(地上で生きて)動ごめいている獣、家畜、鳥、魚を示します。このことは洪水以前の人間は草食であったことを示しています。洪水前の豊かな世界では肉食は必要なかったのです。
 洪水後、地球環境が激変したことも肉食が許された理由の一つでしょう。また、動物を肉食することにより、動物たちが人間に対して畏れを抱くようになることも理由として上げられるでしょう。



9:4-7
 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ 地に群がり、地に増えよ。」

 
ヘブライ語原典では「だが、肉を、その血を、その魂(命)と共に、お前たちは食べるな。しかし、お前たちの魂に属するお前たちの血を、すべての生き物の手から私は求める。私はそれを求める。また人の手から、また男の手から、彼の兄弟の手から、私は人の魂を求める。人の血を流す者は、人によって彼の血が流される。なぜなら、人を神の像として彼を造ったからだ。お前たちは産めよ、また増えよ。地に群がり、そしてその中で増えよ」です。

 1節から引き続き、この部分も神様の祝福です。「人の血を流す者は、人によって彼の血が流される」ということも祝福なのか、と疑問に思うかも知れません。神様の祝福は、日本人が「おめでとう!」というようなものとは異なるのです。「祝福」と訳されているヘブライ語の「バラカー」は「救済に満ちた力を付与する」という原意の、「約束」を意味する言葉です。
 申命記にこう書かれています。

「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主に聞き従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。」(申命記30・19)

 「命と死、祝福と呪い」。この表現からも分かるように、祝福とはすなわち「命」であり、呪いとは「死」です。そして「命」とは、神様から救済に満ちた力を付与された約束の命のことなのです。
 神様はノアに「肉を、その血を、その魂(命)と共に、お前たちは食べるな」と言われました。血は魂(命)だと神様は言われています。それは、血というものが遺伝する血統であり、その元は神様に由来する「侵すべからざるもの」だからです。
 そもそも「命」は、神様から与えられたものではなく、親からもらったものでもありません。命は神様のものなのです。命は、その使用権を神様から託されているものなのであり、所有権ではありません。ですから自分のものだから自分がどうしようと勝手、というものではありません。

 神様は像を持っておられません。神様の像として造られたのが人間です。神様の像である人の血を流すことは、神様の血を流すに等しいことなのです。
 すべての命は、神様から託されたものであり、すべての生き物の血は神様に由来するものですから、命=血を軽んじてはならないのです。
 また、「肉を、その血を、その魂(命)と共に、お前たちは食べるな。」という神様の言葉からも分かるように、動物の血を食べることは、動物の命を食べることと同じです。「命=魂」を抜き去った肉を食べることが許可されたのです。
 
 洪水前と洪水後では、人が人の血を流すことについても、大きな転換があることが分かります。洪水前、神様は、堕落した人間が神様の元へ帰ってくることを、ずっと待っておられました。ですから、神様が人間に直接介入されることはありませんでした。ところが人間は、神様の元に帰るどころか、人間同士で殺人や傷害、虐待を繰り返し、悪しき力が強い者が他を支配する弱肉強食の地獄世界を造りました。それを見かねた神様は、エノクの子メトシェラが生まれて死ぬ969年後に大洪水が来ることを告げられました。そのことにより、人間が神様に立ち帰ることを期待され、待ち続けられたのです。しかし、それでも人間はますます悪しき地獄世界を展開するばかりでした。
 洪水後、神様は「人の血を流す者は、人によって彼の血が流される。」と言われました。神様は、殺人を放置しておかない、と言われたのです。もちろん、殺人を阻止するためです。このことは、人を殺した者は、自分も死ぬことになるという、因果応報の法則と言えます。
 これにより人の血を流す者が、やりたい放題にできることはなくなります。それまでは、人の血を流す者が、やりたい放題にしていたのです。イエス様は、このことに絶対の信頼を置かれています。

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をもむけなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。』(マタイ5:38-41)

 ここでイエス様が言っておられることは、悪人に手向かうのは人がすることではない、神様が必ず報いてくださる、という絶対的な信頼です。「宝を天に積みなさい」というイエス様の教えも同様です。洪水前の弱肉強食の世は、もうありません。ただ、人間が神様に信頼するか、しないか、です。



9:8-11
 神はノアと彼の息子たちに言われた。
「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」

 ヘブライ語原典では「神はノアと彼の息子たちに向かって言った。『見よ、わたしはわたしの契約を、お前たちと共に立てる。またお前たちの後のお前たちの子孫と共に、そしてお前たちと共に生きているすべての生き物、またお前たちと共にいる鳥や家畜や地のすべての生き物、お前たちと共に箱舟から出ていくすべてのもの、すべての地の生き物と契約を立てる。わたしはわたしの契約をお前たちと共に立てる。すると、すべての肉が再び水のゆえに絶たれない。そして、地を滅ぼすための洪水は再びないであろう』」です。

 1〜7節までは「祝福」でした。その「祝福」に続いて、神様は「契約」を立てられます。その「契約」は、神様からの一方的な「契約」ではなく、神様とノアの家族や子孫たち、そして神様と彼らと共にいる生き物たちが、共に立てる契約です。日本語訳では分かりにくいのですが、ヘブライ語原典では明確です。契約は「共に」立てるものなのです。
 一方的に立てる契約などは存在しません。契約というものは、両者が共に結ぶものです。ですから、神様がここで言われている契約は、この契約を共に立てる者だけに有効な契約なのです。
 神様が私たちと契約を立てたならば、すべての肉が再び水のゆえに絶たれることはなく、地を滅ぼすための洪水は再びないであろう、というのが、その契約の内容です。現代において、この契約を神様と共に立てている人が果たして存在するでしょうか。



9:12-17
更に神は言われた。
「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲をわき起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約を心に留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約を心に留める。」
 神はノアに言われた。
「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 
ヘブライ語原典では「そして神は言った。『これが、わたしとお前たちとの間に、またお前たちと共に生けるすべての魂との間に、代々に渡って永遠に立てられる与える契約のしるしである。わたしは、雲の中に、わたしの虹を与えた。そしてそれは、わたしと地の間に契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こす時に、その雲の中にこの虹が現れる。そしてわたしは、わたしとお前たちの間に、そしてすべての生けるものとの間に立てた、わたしの契約を思い出す。すべての肉を滅ぼすために水が再び洪水になることはない。雲の中に虹がある。わたしはそれを見る。神と地の上のすべての生けるもの、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約を思い出すために。』。そして神はノアに向かって言われた。『これがわたしが私と地上のあらゆる肉なるものとの間に立てたところの契約のしるしである』と」。
」です。

 洪水前は、虹はなかったでしょう。なぜなら「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した」(創2:6)とあるとおり、地上は水蒸気に満たされていたからです。虹は、地球環境が激変した洪水後に初めて現れるようになった現象だと考えられます。
 ただ、神様はそのことを言っておられるのでしょうか。表面的な意味は、そのこともあるでしょう。でも神様は単に「虹」ではなく「わたしの虹」と言っておられます。しかも「わたしが地の上に雲を起こす時に、その雲の中にこの虹(わたし=神様の虹)に現れる」と言っておられます。
 洪水後の人たちは、雲の中の虹を見ることができたでしょうか。地上にいる人間からは、雲の外の虹は見えても、雲の中の虹は見えないのではないでしょうか。
 では「雲の中のわたし(神様)の虹」とは、何を表しているでしょうか。
雲は、水が地から上がって蒸発する水蒸気の集まりです。聖書では「水」は、神様から与えられる命の水を表しています。そして、地から上がった水が雲になることは、地から贖われた人たちのことを示します。たとえば、イエス様が言われた、終わりのときに人の子が雲に乗って来る、の意味は、終わりのときには地から贖われた人たちと共に「人の子」が来る、という意味なのです。アダムとエバ以降の全人類の中で、地から贖われた人は多くはありません。その数はヨハネ黙示録に書かれています。
 では「わたしの虹」とは何でしょうか。「人の子」は、神様が最初に創造された光です。光が雲の中にあるとき、7色の虹になります。それが雲の中の虹です。つまり「わたしの虹」とは、神様の御子のことです。
 この「雲の中のわたしの虹」は、必ずしも地上に受肉した「人の子」であるイエス様のことではなく、地上に受肉される前の「人の子」でもあります。雲は、天と地の中間にあり、雲の中の虹も同様です。それはつまり、神様と地上の人間とを、とりもつ存在です。
 アダムとエバの堕落から洪水までの間は、地上に生きる肉なるものと神様との間をとりもつ存在はありませんでした。しかし洪水後、神様は人と神様をとりもつ存在を置かれるのです。言い換えれば、神様の言葉であられる「人の子」が、神様と人をとりもつ存在として置かれるということです。
 このことは8章でも予見されていました。ノアが箱舟から放したカラスと鳩です。それは神様と、地上の人やあらゆる生き物をとりもつ存在の象徴でした。



9:18-19
箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。

 ヘブライ語原典では「箱舟から出る者たち、ノアの息子たちは、セムとハムとヤフェトで、ハムはカナンの父で、これらがノアの息子たちである。これらから全地が広がった。」です。

 ノアの3人の息子はセム、ハム、ヤフェトの順で記されていることから、セムが長男、ハムが次男、ヤフェトが三男であると理解されてきました。ただ、6章9節のヘブライ語原典では「そしてノアは3人の息子たちを産ませた。セムを。ヤフェトとハムを。」となっており、セム、ヤフェト、ハムの順であった可能性もあるのです。創世記5:32には「ノアは500歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた」とだけ書かれており、生まれた順番については記されていません。
 創世記9:24には「ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り」とあり、ハムは3男であったとされています。キリスト教によって外典とされた「モーセの書」には、「ノアは450歳でヤペテ(ヤフェト)をもうけ、42年後にヤペテの母によってセムをもうけ、500歳のときにハムをもうけた」(8:12)と書かれています。ただ、創世記10:21にはセムはヤフェトの兄と書かれています。これらを総合的にみると、セムとヤフェトの順はともかくとしても、ハムが末っ子だったと見てもよさそうです。
 また「モーセの書」によれば、ヤフェトとセムは同じ母親だと書かれていますが、ハムの母親のことについては記されておらず、ハムの母親は別にいた可能性もあります。もしそうだとすると、聖書には箱舟に乗ったのはノア、その妻、セム、ハム、ヤフェト、そして息子の妻3人の計8人と書かれていますから、ハムの母親は箱舟に乗らなかったのかも知れません。あるいは、セムとヤフェトの母親は既に死んでいて、後妻がハムの母親だった可能性もあります。もしハムの母親が異なっていたとしたら、ハムは末っ子であると同時に、その母親の長子でもあることになります。

 聖書は、3兄弟の中でハムについてだけ「カナンの父ハム」と記しており、そのことに特別な意味があることを示唆しています。カナンの名が最初に出て来るのは箱舟から出る時です。その差異は「ハムはカナンの父である」と記されるのみで、カナンが生まれていることは書かれていません。このことから想定されるのは、カナンは箱舟の中で身ごもったハムの子で、箱舟から出る時には母(ハムの妻)の胎内にいたということです。

 『カナン』という名は、後に出エジプトした民が目指す「乳と蜜の流れる約束の地」(出エジプト3:8、申6:3、創12:5-7)の名になりました。カナンの子孫たちがそこに住んだからです。そして、その地は後にイスラエルの王国となり、聖都エルサレムに神の神殿が建造されました。このことから、カナンには大きな使命が託されていたことが推察されます。カナンが生まれた暁には、カナンとその子孫は世界の中心であるイスラエルに住み、エルサレムを聖都とし、地上の御国が建設されるであろうと思わせます。
 実際には次の節でカナンの父ハムが犯した事件により、カナンは呪われることになり、それは実現しないのですが、もしハムがそのようなことをしなかったら、カナンは「約束の地」で神の王国を創り上げただろうということです。
 ノアと3人の息子たちは、洪水後の新しい世界に、新たに生まれて来ようとしていたハムの子カナンに、大きな期待を寄せていたでしょうし、神様は大いなる祝福を用意していたに違いありません。なぜならば、ハムがしたことでカナンが呪われることになったということは、ハムがそうしなければカナンには祝福が用意されていたことを意味しているからです。



9:20-28
 さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。2人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。
「カナンは呪われよ
 奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
 また言った。
「セムの神、主をたたえよ。
 カナンはセムの奴隷となれ。
 神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)
 セムの天幕に住まわせ
 カナンはその奴隷となれ。」
 ノアは、洪水の後三百五十年生きて。ノアは九百五十歳になって、死んだ。
 
 
これを読むと、悪が一掃されたはずの洪水後に展開される新しい世界の幕開けの物語としては、あまりにも相応しくない物語だという印象を受けます。それだけに、この箇所をどう解釈するかについては長い間、物議をかもしてきました。
 酒に酔って正気を失い、だらしなく裸になっているノアは、洪水前のノアの姿とあまりにかけ離れているように見えます。そして、その父の裸を隠そうとして兄2人にそのことを告げたハムの息子カナンが呪われているのは、あまりにも不条理であり、理解に苦しむからです。
 しかし、ここでまず注意しなければならないのは、酒に酔って正気を失い、裸になっているノアをだらしなく感じるのは、あくまでも人間的な尺度でのものの見方であって、聖書においては必ずしもそうではない、ということです。

「さあ、喜んであなたのパンを食べ 気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」(コヘレト9:7)

「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ パンは人の心を支える。」(詩編104:15)

 イエス様も大酒飲みだったようです。
「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ』という。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」(ルカ7:33-35)

 ノアは農夫となり、ぶどう畑を作って、収穫してぶどう酒を作りました。新しいぶどう酒ができるのは、ちょうど神様の三大祭礼の1つである仮庵祭の頃です。ノアが自分で収穫したぶどう酒を飲んで酔ったとしても、何ら問題ある行動ではないのです。
 裸はどうでしょうか。アダムとエバはエデンの園で、裸であっても恥ずかしいとは思わなかったのですから、むしろ堕落前の姿になっていることは何ら問題ないはずです。むしろ裸を恥ずかしいと思うことの方が、聖書的には問題だと言えます。それよりも何よりも、ここでどうもおかしいと思うのは、ここにはノアの家族だけしかおらず、しかもノアの裸を見つけたのは息子であるハムであり、ハムが兄たちに告げて父の裸を隠していることです。息子が父の裸を見て、恥ずかしいと思うでしょうか? もし思ったのだとしたら、そこには同性愛や近親相姦の匂いがし、裸のノアよりも、ハムの行動こそが不自然なのではないでしょうか? しかもハムは、その不自然な自分の「ものの見方」で兄たちに告げ口し、2人の兄は衣服を自分たちの肩に掛け(?)、後ろ向きに歩いて父の裸を覆ったというのです。兄2人は父の裸を見ないようにしています。2人の兄が衣服を手で持たないで、2人で自分たちの肩に掛けたというのは、その衣服は手で持つことがためらわれるような衣服であったように思わせます。だとすると、兄2人が父の裸を見ないように後ろ向きに衣服で覆うのは、何か別の特別な理由があるようにも見えます。
 それともう一つ、この謎めいた物語を解明する鍵となるのは、ノアが酔いから覚めてすぐに末の息子ハムがしたことを知ったということです。このことは何を意味しているでしょうか。ノアが自分でぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていたのであれば、酔いから覚めてすぐにハムが何をしたのかを知ったということは、あり得ません。酔いから覚めてすぐにハムがしたことを知ったということは、ハムがノアに対して何かをしたことを知ったということです。では、ハムはノアに何をしたのでしょうか。ハムが何をしたことを、ノアは知ったのでしょうか。『70人訳聖書』を訳した70人の中のユダヤ教のラビが訳している訳が、それを解明してくれています。

「そして彼(ノア)は出されたぶどう酒を飲んだ。そして彼は酔わされた。そして彼は裸にされた。彼のその家(天幕)の中で。」

 この訳によるとノアは、ハムに出されたぶどう酒を飲んで意図的に酔わされたのであり、ノアは自分で裸になったのではなくハムによって裸にされたのです。この訳だと、物語に一貫した整合性が出てきます。
 ハムは何のためにノアを酔わせて裸にしたのでしょうか? それについては、ノアの衣服がどういうものであるかを理解することによって合点がいくのです。
 箱舟から出たノアが一番最初にしたことは、神様の祭壇を築き、献げものを献げたことでした。それはノアが人類最初の神様の祭司となったことを示しています。後に神様は律法で、祭司の衣服について細かく指定していますが、神様の祭壇に献げ物をするときには、祭司が聖別された祭司服(麻で作られた白衣)を着て行わなければなりません。そして、その祭司服は祭司以外の者が身につけることはできないのです。
 この祭司服は、サタンに勝利した人に神様から与えられる「白い衣」の原型でもあり、「晴れ着」としても聖書に登場します。その祭司服の中でも、聖所の奥の「至聖所」に入る大祭司が身につけるものについては、至聖所の中でそれを身につけていないと死んでしまうとされています。ノアは、人類最初の、そして当時たった1人の祭司でしたから、大祭司と言っていいでしょう。
 大祭司ノアが、天幕の中でハムにぶどう酒を飲まされて酔わされ、ノアが身につけていた祭司服をハムが奪い取って裸にした、と解釈すると、まったく新しい解釈が浮かび上がって来るのです。
 ハムの目的が、ノアの祭司服を奪うことにあったとすれば、ノアはただ単に酔わされただけではないはずです。なぜならば、ノアは酔いから覚めてすぐにハムがしたことを悟っているからです。ハムがノアの祭司服を奪い取るためには、ノアをただ酔わせただけでは、ノアが酔いから覚めればすぐに発覚してしまうのですから、ただ酔わせることには意味がありません。ノアがハムがしたことをすぐに知って、ハムの息子であるカナンが呪われることになるからには、ハムは犯罪を犯したのです。
 ハムがこうした方法でノアの衣服を自分のものにするためには、ノアを殺すしかないはずです。だとしたら、ハムはノアをただ酔わせるだけでなく、ぶどう酒に植物から採った毒など、たとえば聖書に度々出てくる恋なすび(マンドラゴラ)を混ぜて飲ませたのかも知れません。恋なすびは媚薬としても使われますが、量を誤ると死に至る毒を持っていることで知られています。それなら、ノアが酔いから覚めてすぐにハムがしたことを知ったことに合点がいきます。
 ノアは、ただ単に酔わされただけでなく、通常では考えられないような深い眠りに落とされ、衣服を剥がれて裸になっていたので、ハムが自分の衣服を剥ぎ取ることを目的に「あのぶどう酒」を飲ませたのだ、ということが分かったのではないでしょうか。ハムがしたことは、ハムの息子カナンが誕生前に呪われた人生を約束されてしまうほどの犯罪だったのです。ハムがただノアを酔わせて、一時的に衣服を奪ったとしても、ノアが酔いから覚めたら返さなければならないのですから、そのような幼稚な話だったらハムの子カナンが呪われるほどの犯罪とは思われません。
 ハムがぶどう酒に何かを混ぜてはいなかったとしても、ノアが祭司の役目を担っている人物であるならば、ハムが意図的にノアを酔わせて祭司服を脱がせて裸にすること自体、殺人未遂と言えるのです。
 もしハムがしたことが、ノアの祭司服を力づくで奪い取るために実行した父親殺害未遂だとしたら、それはエデンで蛇がエバを欺いたことや、カインが弟アベルを野に誘い出して殺害したことを思い起こさせます。それはサタン性を発揮した悪の行いであり、ハムがそれをしたことで息子のカナンが呪われた運命を背負うことになるとしたら、整合性が出てきます。

(そういうことではなく別の可能性として考えられるのは、ハムが兄弟たちの前で父ノアの面目を失わせようとして、ノアを酔わせて裸にした上で、兄2人に告げ、自分が家族の中心的な存在になろうと企てた、という解釈です。しかし、この解釈だとハムの企てはあまりにも幼すぎ、このような企てで父ハムを上回ることなど、とても考えられません。)
 
 次に、ハムの報告を聞いて、天幕の外にいた兄2人がしている不思議な行動について考えてみましょう。父ノアが祭司服を着ていない裸の状態であることを知った兄たちは、天幕の中に後ろ向きに入って行き、ノアの裸を見ないようにして後ろ向きに天幕の中に入って、ノアの裸を衣服で覆っています。新共同訳聖書では、いまひとつ分かりにくいのですが、先ほどの70人訳のユダヤ教のラビは、その部分についてこう訳しています。

「カナンの父ハムは(家=天幕の中に)入って、父(ノア)の裸を見た。そして、彼の外にいた、上の2人の兄弟らに報告した。セムとヤフェトは衣服を取って、彼ら2人の後ろの上に置き、彼らの後ろに後方光りに来させられた。そして彼らは共に彼らの父の裸を覆った。そして彼らはその顔を、後方光りした父のその裸を、見なかった。」

 この訳だと、ハムは天幕の中に入って父の裸を見ていること、そしてセムとヤフェトは天幕の外にいて父の裸を見なかったことが、対比として強調されています。そして、何より目を引くのが、セムとヤフェトが見ないようにしていたノアの裸が「後方光り」していたということです。
 まず、ハムと、セムとヤフェトの対比についてですが、ハムは天幕の中に自由に出入りすることが出来て、セムとヤフェトは天幕の外にいた、ということは何を示しているのでしょうか。
 もちろん、たまたまそうだっただけ、という可能性もありますが、たまたまでない可能性として考えられるのは、ノアの家(天幕)が神様への祭礼をする聖所を兼ねていたか、あるいは神様への祭礼をする時だけはノアとハムだけが天幕の中に入ることができたということです。神様の聖所に出入りできるのは、祭司だけです。祭司でない者は入ることができません。この考えだと、ノアは大祭司、ハムはノアを支える祭司であれば、合点がいきます。ヘブライ語原典では、「ノアは天幕の奥で自分を現わした」とあり、天幕の奥というのが、ノアが家の奥に神の幕屋(聖所)を設けていたとも考えられますし、天幕の奥というのは「至聖所」のことを指すとも解釈できます。
 セムとヤフェトは、2人で衣服を取って掛け、後方に後ずさりしながら、後方の裸の父に衣服を覆おうとしたわけですが、祭司ではない2人の兄が手で直接には祭司服を触らず、2人で肩にそれを掛け、父の裸の後方光りを感じながら、その光もしくは父の裸を見ないようにしているのも、セムとヤフェトが祭司でなかったなら合点がいく行動です。
 あるいは、天幕が意味するものが聖所ではなく、ノアの家族たちの家だとしても、兄2人が家の外にいた理由が、もう一つ考えられます。
 収穫のぶどう酒を神様に捧げる、ちょうどこの時期、神様の3大祭礼の1つである仮庵祭に当たっています。仮庵祭の期間中は、ふだん住んでいる家の中ではなく「仮庵」で過ごさなければなりません。仮庵とは、ふだん生活している家とは別に、簡易な小屋のようなものを建てて、仮庵祭の期間中はそこで過ごすのです。仮庵祭は出エジプト後に祝われうようになったという考え方が一般的ですが、洪水期間中の日付の意味をノアは知っていましたし、それは3大祭礼の時期と一致していますので、洪水後にまず祭壇を築いて神様に献げものをしたノアが、その3つの時期を祝わなかったと考えるのは不自然です。仮庵祭という名称はなかったでしょうが、同様の祝いをしたことはあり得ないことではありません。出エジプトして「約束の地」に辿り着くまでの荒野は、洪水と同じことを意味しています。仮庵祭の期間中に家に入ることがあるとしたら、家の中に聖所があって祭司が祭礼を行う場合が考えられます。セムとヤフェトは祭司でないため、家に入らないで家の外にいたとしても不思議はありません。そして、仮庵祭の期間中であっても、ハムが父ノアの緊急事態を兄2人に告げたとしたら、兄2人は最大限の注意を払いながら家の中に入らざるを得ません。

 そして、重要な鍵をもっているのが、セムとヤフェトが感じていた「後方光り」です。日本的に言うならば「後光」でしょうか。その光はノアの裸から発せられています。これと似た記述が聖書の出エジプト記にあります。モーセがシナイ山で神様と語っている間に、その顔の肌が光を放っていたというのです(出エジプト34:29-30)。同様の話は新約聖書にもあります。「イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(マルコ9:2-4)
 神様と接していたノアの裸が光っていたとしても不思議はありません。むしろ、この「後方光り」はモーセのときと同様に、ノアが神様と接していたことによって生じたものと考える方が、文脈に整合性があります。だとしたら、神様と接していたノアを酔わせて、祭司服を脱がせて裸にしたことだけで(ぶどう酒に毒を盛らなくても)、殺人行為と言えます。そして、ノアが酔いから覚めてハムがしたことを知った、その内容は、この場合、父を殺害するという犯罪行為のことを指すことになります(未遂に終わりましたが)。
 ハムにはノアの「後方光り」が感じられなかったとしても不思議はありません。罪を犯すハムの霊的な目は閉ざされていたでしょうから、光は見えなくなっていただろうからです。
 ハムは天幕の中に入って父の裸を見ましたが、ノアの「後方光り」は感じていません。一方、セムとヤフェトは裸のノアの「後方光り」を感じており、それを見ないようにして家の中に後ろ向きに入り、ノアの後方光りの裸を見ていません。ノアが単に酔って裸で寝ているだけなら、ハムは兄2人に報告しなくても自分で別の衣服をノアに掛けることもできたはずですし、兄2人もハムに衣服を渡して覆わせることができたはずです。しかしハムは、わざわざ兄2人に報告し、兄2人がノアを衣服で覆ったということは、ノアが非常事態であったか、あるいはハムが兄2人にノアが非常事態にあると報告した可能性を示しています。実際、衣で「覆う」というヘブライ語の表現は、死体を覆うことを意味する場合があるのです。

(別の解釈として、ノアの衣服を盗んだハムが、兄2人に衣服を覆わせることで責任転嫁しようとしたとも解釈可能です。しかし、それはノアが酔いから覚めれば発覚してしまうことですので、あまりに浅はかな解釈でしょう。同様に、ハムがノアから奪った衣服を身につけてみたけれども何の力も帯びることが出来なかったので、兄2人に責任転嫁した上でノアに返却しようとしたという解釈もできますが、それもいずれは発覚してしまう浅はかな企てですので、まずないでしょう。ハムが兄2人に、死に至るだろうと知りながら父が酔って裸で眠っていると報告し、兄2人が衣服で覆ったか、あるいは死んでいるかもしれないと報告を受けて兄2人が衣で覆ったか、どちらかが濃厚であるように思えます。しかしノアは死ぬことなく、酔いから覚めて、ハムが何をしたかを悟ったのです。
 ユダヤ教の一部では、ハムが父の裸をあばいたという表現は、同性愛・近親相姦を示唆しているとの解釈もあるようです。ヨセフスの『ユダヤ古代誌』はこの事件には直接ふれておらず、成人して婚姻している息子たちがいつまでも父のもとを離れず、それぞれ別の土地に移り住まないでいたために起こった悲劇だと解釈しています。)

 ハムは、自分こそ祭司服を身につけるに相応しいと考えていたのではないでしょうか。ハムが父ノアにしたこと、そして兄2人に告げて兄2人を動かしていること、その一連の企ては、ハムが蛇の要素を存分に発揮したことを示しています。蛇がそうであったように、洪水後の新世界の新しいアダムに、ハムはなろうと企てたのかも知れません。ハムの子孫たちが諸王国を築いていることからしても、そのルーツはハムにあるわけで、ハムがその蛇の悪知恵をもって父ノアから祭司服を奪って新世界の支配者として君臨することを望んだという見方は、あながち外れていないのではないでしょうか。

 しかし、もしハムが自分の息子カナンが祝福される立場で生まれてくることが分かっていたのなら、自分の息子がその権利を得ることになるのだから、父親としてそんなことをする必要はなかったのではないか、そう考えるのが普通です。
 では、ハムは息子カナンが祝福される立場で生まれて来ることを知らなかったのでしょうか。そんなはずはありません。もし仮に、ハムがそれを知らなかったとしても、カナンが生まれてから、カナンが祝福されるかどうかを見て、祝福されなかった場合に祭司服をノアから奪うという行動を起こしても遅くはなかったはずです。
 ということは、それでは遅いからカナンが生まれる前に行動した、ということです。カナンが生まれてからでは遅いとハムは思ったから、行動を起こしたのです。だとしたら、その理由は、新世界の王に相応しいのは息子カナンよりも自分だ、とハムが思ったということです。あるいは、自分の息子に従うようになるのは嫌だという、息子への嫉妬もあったかも知れません。
 繰り返し書かれている「カナンの父ハム」という表現は、まるで重要なのはカナンであって、ハムはその父にすぎないと言っているかのような表現にも見えます。後に出エジプトした民も、エジプトを知っている民ではなく荒野で生まれた(エジプトを知らない)新たな世代が「約束の地」に入ります。まだ生まれていないカナンは、洪水前の世界を知りません。箱舟の中で身ごもり、罪の世界を知らないで新たに生まれていないカナンこそが、洪水後の新たな世界を建設する旗手に相応しいことは、極めて聖書的に整合性のあることです。そのカナンを中心に押し立てて、父ハムをはじめとしてノアの家族たちは、新世界の建設を支えて行くべきだったでしょう。
 しかし、ハムは自分の息子が新天地の旗手になることを喜べなかった・・・サタン(蛇)とアダムの関係に酷似しています。サタンは自分よりも後に造られたアダムに嫉妬し、エバを奪うことでアダムの座を乗っ取ろうとしました。神様のすぐ側で、神様と一緒に天地創造を手伝ってきたのに、神様の後継ぎは自分ではなくアダムであり、何の苦労もしていないアダムに自分が仕えることを、サタンは拒んだのです。ハムが息子カナンにサタンと同様の感情を抱いたとしても不思議はありません。
 しかし、カインのときがそうであったように、ハムはその思いを支配するべきでした。ところがハムは、カインと同様、それができませんでした。カインがアベルを殺したように、いいえ、カイン以上のこと、すなわち父を騙し打ちにして、その地位を奪い取って息子カナンよりも上回る地位を確立しようと企んだのです。イエス様が天の国について教えた「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)ということを人間がいかに受け入れがたいか、それがここでも乗り越えることが出来ない大きな壁となったのです。
 そもそも、人間の堕落の始まりは先にいたサタンが、後からきたアダムに先を越されることを受け入れることができなかったことでした。そしてカインとアベルの時に、神がアベルの献げものに目を留められたことをカインが喜んで受け入れられていたら、その時点で罪は元がえしされて、そこから罪のない世界が新たに展開されていた筈です。しかし、カインもまたその壁を乗り越えることが出来ませんでした。それどころか弟を殺害するという新たな罪を増し加えてしまいました。そしてアダムから10代、ハムは同じ立場に立ちました。が、やはり同じ壁を乗り越えることが出来ず、そればかりか罪を更に増し加えてしまったのです。
 ハムは、その企みを実行に移しました。ノアが耕して育てたぶどう畑の収穫から、ぶどう酒が造られた、ちょうどそのときに。新天地での実りのぶどう酒を祝うため、またそれを神様に献げるため、ちょうどその「とき」こそは、ハムにとって最大のチャンスだったのでしょう。
 しかし、ノアは死ぬことなく、酔いから覚めて、ハムがしたことを悟りました。そして言ったのです。「カナンは呪われている」と。新共同訳聖書では、あたかもノアがカナンを呪ったかのような訳になっていますが、ヘブライ語原典ではそうではありません。「カナンは呪われている」です。しかも、その呪いというのは、いわゆる呪いを掛けられたようなことではなく、カナンの子孫が奴隷の奴隷になる定めになってしまったことに対して、それは呪われた運命だという意味で使われているのです。ですので、先の70人訳のラビはこう訳しています。

「上に下に言うは(呪い)カナン。その兄弟らの家奴隷の下僕(となる)」

 これは、カナンとその子孫が、その兄弟らの家奴隷の下僕となる定めとなってしまった、それは上に下に言うこと(呪われたこと)だ、と言っているのです。ここでは「呪い」という言葉自体も出てきません。「上に下に言う」と訳されていることが呪いを意味することとして解釈されています。いずれにしても、ノアがカナンを呪ったのではなく、カナンが兄弟らの家奴隷の下僕となることが呪いだという意味なのです。
 ハムの行いのために、カナンとその子孫がこのような呪われた結果を享受することになったことは、逆にハムがそのようなことをしなかったならば、カナンとその子孫には逆の祝福が用意されていたことを示しています。ハムがそのようなことをした結果として、セムが祝福されることになったのであって、ハムがそのようなことをしなければ祝福はカナンのものだったということです。
 ハムの間違った行動の結果、カナンが本来受けるはずの祝福を失い、祝福はセムが受けることになりましたが、それは本来あるべき姿ではありません。ノアと息子たちが本来すべきだったことは、アダムから10代後のノアまで持ち越されたのと同様に、また10代後に持ち越されることになりました。アブラハム・イサク・ヤコブの時まで。神様は後にご自身のことを「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と名乗るようになるのですが、それはアブラハム・イサク・ヤコブが3代かけて、蛇とエバとアダムが犯した罪+カインがアベルを殺害した罪+ハムが犯した罪を元がえししたからです。
 逆に言うと、もしハムがこのようなことをしなかったら、アブラハム・イサク・ヤコブの登場を待つまでもなく、ノア・ハム・カナンがそれを成し遂げていただろう、ということです。しかも、アブラハム・イサク・ヤコブの時代には、せっかく罪の元がえしをしたとしても、ハムのせいで周辺諸国に悪しき諸国が数多く立ち並んで世界中を埋め尽くしていましたが、ノア・ハム・カナンが成功していたら、周辺にそのような諸国は何もなかったのです。つまり、ノア・ハム・カナンが成功していたら、地上に創造本来の世界が実現していたはずなのです。ハムの子孫たちの能力を見ても、ハムがその賢さを正しい方向に向けていたならば、地上の御国の実現は早かったはずです。
 それを思うと、ただ幼子のように素直なだけでは何も成すことが出来ず、賢さだけでも傲慢になって悪に傾きやすいことを思い知らされます。幼子のように素直であると同時に賢さを両立して行うことがいかに難しいかを思い知らされます。しかし、正しい道はそこにしかないことも確かです。

 70人訳のラビの訳を読むと、ノアはカナンを呪ったどころか、ハムがしたことのために祝福を失うことになったカナンとその子孫のことを深く嘆いて落胆しているように感じられます。カナンとその子孫だけでなく、彼らが人類の未来に及ぼす莫大な影響と、彼らが生み出すあらゆる不幸を、そしてハムとカナンの子孫たちが神様に反逆する「世」を作っていくだろうとことを、ノアは察知したことでしょう。あの大洪水は何だったのか・・その嘆きと落胆は、とてつもない深いものだったに違いありません。
 ハムがしたことがカナンとその子孫にどのようなことをもたらすかについては、容易に想像がつきます。ハムの他の子供たちの子孫も同様です。後にアブラハム・イサク・ヤコブは、ノア・ハム・カナンができなかったことを成功させるのですが、アブラハムの息子イサクは、父にも従順で神様にも従順でした。イサクは自分の命を求める父と神様に、それを差し出したのです。自分の命を上回る従順さをイサクは示しました。だからこそイサクは死ぬことなく、イサクの子ヤコブは神様から「勝利者」とまで呼ばれるほどの画期的な大成功を成し遂げます。
 ハムはどうでしょうか。イサクと正反対の不従順さを行いで示しました。父に対しても、神様に対しても、不従順な行いをしました。そのことが、イサクとは正反対の結果を、子供やその子孫たちにもたらすことは明白です。ハムは父に命がけの従順を示すどころか、父と神様に反逆したのです。そのハムが生まれて来るカナンに何を教え込み、何をさせようとするか、誰しも容易に想像できるでしょう。ハムは蛇から受け継いだ悪知恵を、息子カナンに徹底的に仕込むはずであり、セムとヤフェトの奴隷になると言われたノアと神様への憎悪に燃えて、セムとヤフェトの子孫たちを支配しようとするのです。

 「神がヤフェトの土地を広げ、セムの天幕に住まわせ」というのは、ヤフェトの土地を神様が広げてくださることと、ヤフェトの子孫がセムの天幕に寄留することができるようにする、ということです。
 洪水後に最初に「文明」なるものを築くのは、ハムの子孫たちです。ただしカナンの子孫を除きます。ハムの別の息子たちが文明を築いていくのです。エジプトはハムの別の子の名で、彼がエジプトを築きます。有名な「バベルの塔がある町」はハムの孫ニムロデが築きました。神様に反逆したこの町は、神様によって中途で離散させられ、計画が頓挫しますが、やがてそこからアッシリア帝国やバビロニア帝国が出てきます。
 私たちが教育を受けてきた「文明」とか、人類の進歩なるものの中枢は、神様に反逆したハムの子孫たちが築いたものなのです。
 ヤフェトの子孫たちは、ロシアやペルシャ・メディア、トルコ、ギリシャへと拡がっていきます。ペルシャ・メディアは、バビロニアに捕囚されて奴隷となったイスラエルの民を奴隷の身分から解放して寄留者の身分にしたばかりでなく、エルサレムへの帰還を許可しました。
 私たちが学校で学んだ人類文明の進歩の歴史は、神不在の歴史であり、神不在ゆえの傲慢な人類の、失敗の残骸の積み重ねでしかありません。本当の人類の歴史は、神と共にあった人たちが代々つないできた歴史です。その中にイエス様がいます。
 
 洪水後、新たに建設されるはずだった計画は、ハムがしたことによって実現しませんでした。しかし、神様はあきらめません。それでもなお、人類を神様のもとへ立ち帰らせるため、すべての罪を元がえしして創造本来の世界を地上に実現するために、あらたなご計画を遂行されるのです。そのご計画の遂行は、セムから数えて10代のアブラハムの登場まで待たなければなりません。




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