安息日の礼拝  創世記の真相
■創世記1:1〜1:31■



   
 
現代人の多くは、聖書の天地創造の物語はキリスト教やユダヤ教、イスラム教を信じる人々の「信仰の物語」として受け止めていると思います。それはそこに記されている内容が現代科学と著しく異なるものだと認識されているからです。天地創造が6日間で成されたとか、天地創造から現代に至るまでの年代が数千年という聖書の記述は科学の常識からは著しくかけ離れているように見えます。科学的な事実に対して宗教者側もこれといった認識を示すことができていません。実際、キリスト教やユダヤ教、イスラム教を信じる人たちの間でも、天地創造の物語は信仰の物語として受け止められているのです。宗教者側が認識している天地創造から現代に至るまでの年代は、おおよそ次のとおりです。
 ユダヤ教の「タルムード」では、天地創造は紀元前3760〜2年とされています。現代から遡ること5774〜6年です。
 西暦70年頃のローマ軍によるエルサレム壊滅で生き残った著述家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌」では、紀元前5444年とされています。
 ギリシャ正教会(東方正教会=オーソドックスと称されるキリスト教の一派)では紀元前5508年、エウセビオスが記した『年代記』では紀元前5199年、アウグスティヌスの「神の国」では紀元前5351年です。

 現在のキリスト教会では、1654年に英国国教会のアイルランド大主教とケンブリッジ大学副総長らが聖書の記述から逆算し、天地創造は紀元前4004年10月18日から24日にかけて起こり、アダム創造は紀元前4004年10月23日午前9時だとする説が広く信じられています。これはモーセ五書に記されている族長の寿命から算出したものです。
 いずれにしましても、天地創造から現代まで約6000年前後というのが宗教者側の見解として定着していると言っていいでしょう。宇宙が始まって現代まで6000年というのは、科学的には到底、受け入れられない物語です。
 では聖書に記されている天地創造の物語は、事実ではないのでしょうか? いいえ、天地創造の物語は事実なのです。そして科学とも相反さないのです。
 問題は宗教者側の創世記の理解にあります。神が6日間で天地創造を成し遂げられ、人類の始祖アダムとエバから年齢・年代を算出していくと確かに人類歴史は6000年程度になります。しかし、実際は神は6日間で天地創造を成されたのではないのです。
 神の「1日」は、人間のそれとは違うということは聖書にも記されています。ですから神は人間のいう6日間で天地創造されたわけではないのです。そして、もう1つ、これがとても重要なことなのですが、神が創造された宇宙と世界は、現代人が認識しているそれとは違う宇宙・世界なのです。
 そもそも聖書では、人は初め、エデンという所に住んでいました。そのエデンには「命の木」とか「善悪の知識の木」という、実際の植物とは異なる植物が生えていたと聖書の創世記には記されています。このような植物は現代人が認識する世界のどこにも生えていません。当然です。なぜなら、これらの植物は、人が堕落してエデンを追放される前の世界に生えていた植物なのです。
 人が堕落する前の宇宙と世界は、霊的世界と物質界とが1つに一致していた世界でした。ところが人が堕落してエデンを追放されて以降、人は霊的世界を認識できなくなり、物質界のみを世界として認識するようになったのです。
 ですから、エデンを追われて物質界しか認識出来なくなった人間が、エデン以前の霊的世界と物質界とが一致していた天地創造の事実を知ることは、不可能なのです。唯一もしそれが可能だとしたら、それを知っている方から教えられることしかありません。それを知っているのは天地を創造された神ご自身、あるいは神と共に天地創造を手伝ってそれを側で見ていた存在だけです。
 宗教者側が本当にしなければならないのは、神ご自身にそれを尋ねる事であるはずですが、それができる宗教者は存在せず、存在したとしても現代の宗教者たちはそのような存在を認めることはないでしょう。ですから、宗教者側はそれを知ることを諦めてしまい、信仰の物語として極力その部分には触れないようにしているのです。教会の礼拝や牧師や神父の説教でも、その部分は詳しく触れないでさらっと流し、アダムとエバの物語りから説明し始めることがほどんどです。
 キリスト教が聖書をわかりやすく解説している「リビング・バイブル」には天地創造の1日目と2日目について、次のように記されています。

 「まだ何もない時、神様は天と地をおつくりになりました。地球はまだ形が定まらずやみにおおわれた氷の上を、更に神様の霊がおおっていました。
 『光よ輝け』と神様が命じました。すると光がさっと輝いたのです。それを見て、神様は大いに満足し、光とやみとを区別しました。しばらくのあいだ光はそのまま輝き続け、やがて、もう一度闇に閉ざされました。神様は光を『昼』、やみを『夜』と名付けました。昼と夜ができて、一日目は終わりです。
 『ガスは上下に分かれ、空と海になれ』と神様が命じました。そのとおり水蒸気が二つに分かれ、空ができました。これで二日目も終わりです。」

 3日目以降も同じような感じで、特に説明をしないまま流しています。
 さて、では実際に聖書の「創世記には、どう記されているのでしょうか。

創1:1-1:5
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
『光あれ。』
こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」


 いきなり分かりにくい文章ですね。そもそも著者は、堕落以降の人間には分からないことを書いているので、頭で理解しようとしても理解できないのは無理もないとしても、そういう内容を、日本語訳がさらに分かり難くしてしまっている点は否めません。
 まず、「初めに、神は天地を創造された。」とありますが、天地というと普通、空と地面のことだと理解すると思います。ところが原本であるヘブライ語をギリシャ語に最初に訳した「70人訳聖書」の日本語訳では「天」ではなく「不可視」と訳されているのです。「不可視」と「天」では大違いですね。「天」ではなく「不可視」ならば、「地」は「可視」という意味になります。
 つまり、「初めに、神は不可視のもの(あるいは不可視の世界)と可視のもの(可視の世界)を創造された。」なのです。要するに、神は霊的世界と物質界を創造されたと、初めの初めに書かれているわけですね。ここを正確に理解して先に読み進むのと、そうでないのとでは、それこそ天地の違いが出て来るのです。
 聖書の中では「天」というのは、文字通りの物質界の天空を意味する場合と、不可視の霊界(天界)を意味している場合とがあります。「天の万軍」は霊界の天使たちのことですし、「富は、天に積みなさい。」(マタイ6・20、ルカ12・33)の天も霊界(天界)のことです。

 初めに、神は霊界(天界)と物質界(地上界)を創造されたわけですが、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」というのです。「混沌」とか「深淵」とか「面」とか言われても、何のことなのか分かる人はいないと思います。
 ヘブライ語原典では「混沌」は「形なく虚しい状態」、「深淵」は「原始の生命の塵の海のような状態」です。「神の霊が水の面を動いていた」は「神の霊が原始の生命の海のようなものの面を、まるで鷲が雛の上を飛び回るように動いていた」です。原典を直訳した方が分かりやすいですね。直訳だと、こうなります。

「物質界はまだ形なく虚しく、原始の生命の塵の海のような状態で、神の霊が原始の生命の塵の海のようなものの面を、まるで鷲が雛の上を飛び回るように動いていた。」

 そして、神がこう言われます。「光あれ。」と。この最初の光のことを、ビッグバンと呼ぶことが、科学界でも宗教界でも定着しているようです。しかし、この「光」がもしビッグバンと呼ばれる宇宙の誕生の瞬間の爆発の光のことだとすると、おかしなことになるのです。
 この後に、「命の木」とか「善悪の知識の木」という、物質界には生えていない植物が創られていますので、この光は物質界の誕生だけを意味する光ではないことになります。答えは聖書に書かれています。

 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
(ヨハネによる福音書1:1〜14)

 神が最初に発せられたのが「言葉」であり、その言葉は同時に「光」でもあり、また同時にすべてのものがそこから生じる「命」でもあったのです。なぜならば神が「光あれ」と発せられた言葉と同時に、光があったのです。
 更に言えば、この光=言葉=命は、神から「あれ。」と言われて、あった方でもあります。ですから、この方は神からあれと言われてあった者、つまり「わたしはある」という方でもあります。この事は、ご本人自らもはっきりと言われています。

 「『あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。』ユダヤ人たちが、『あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、“わたしはある。”』」(ヨハネ福音書8:56〜58)
 
 この「わたしはある。」とは、モーセがイスラエル人を出エジプトさせる際に柴に現れた方のことです。
 ある時、モーセが神の山ホレブに入った時、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現われました(モーセはそれを主の御使いだと思った)。モーセが見ると柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きないのです。モーセがそれを見ていると柴の間から声がして、その声は自らの名を「わたしはある」と名乗られたのです。
 柴が燃えなかったのは、それが炎ではなく「光」だったからです。そこから出た声は「言葉」です。そしてその主は自らのことを「わたしはある」と名乗られました。光であり、言葉であり、命であるこの方は、創造の初めに神から「光あれ」と言われて「あった」方なので、「わたしはある」というのは実に正確にその方のことを示している名なのです。モーセは、その方が神なのか、御使いなのか、理解できなかったので、その方のことを神と呼んだり、御使いと言ったりしているのですが、この方は神に最初に創られた光である方、つまり後に地上に来られる救世主イエス様なのです。

 では創世記に戻りましょう。神は光を見て、善しとされました。ヘブライ語原典では「神はその光の善いことをみた」。つまり神様はその光を善いと御覧になり満足された、という意味です。これは神様が誕生した光の善し悪しを判断されているわけではありません。生まれてきた子供を初めてみた親の気持ちと似ているでしょう。両親は生まれた子供の誕生を無条件に喜び、大変に満足している無二の感情、つまり“ありがたい””めでたい”という最上級の歓びの感情で記されています。


 神は光と闇を分け、
創1:5
 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。


 
光が誕生したことによって、原初の生命の海の上を覆っていた闇と光とが分けられました。神様は光を昼と呼ばれ、闇を夜と呼ばれました。ここに記されている昼夜は人間が考える昼夜ではありません。なぜならばこの時、太陽も月も存在していないからです。ではこの昼、夜とは何でしょうか?

 物質界が「形なく虚しい状態」で「原始の生命の塵の海のような状態」であるところには時間がありませんでした。光の誕生によって光と闇の相対からエネルギーが生じます。エネルギーは変化を生じさせ、その変化を生じさせた光がもたらした状態を神は昼と呼ばれ、そうでない闇を区別されて夜と呼ばれたのです。そして、この昼と夜とに分けられた状態から時間が生じ始めるので、それを昼と夜の間の「夕」と、夜と昼の間の「朝」という言葉で表わしているのです。「夕べがあり、朝があった」というのは、時間が生じたことを示しているのです。そして、この時間は、夕〜夜〜朝〜昼〜夕〜と繰り返されていくものです。ですので夕から朝を1サイクルとして「日」とされ、この最初の光の創造によって生じた最初の1サイクルを「第1の日」とされたのです。人間の1日ではなく、この1日は途方もなく永い1日でした。天地創造の第2の日については、聖書にこう書かれています。



創1:6-8
 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。そして夕べがあり、朝があった。第二の日である。

 この天地創造の第2の日について、キリスト教ではどのように解釈されているかというと、リビング・バイブルではこう書かれています。
 「『ガスは上下に分かれ、空と海になれ』と神様が命じました。そのとおり水蒸気が二つに分かれ、空ができました。これで二日目も終わりです。」
  
 キリスト教では、第2の日に空と海が創造されたと解釈されているのです。ところが、それだとおかしいのです。なぜなら太陽や月が創られるのは第4の日で、その前に地球の空や海が創られたというのは科学的にあり得ないからです。しかし、キリスト教では科学と矛盾しても信仰として信じることが必要とされているのです。

 キリスト教では、ローマカトリックによって「聖書」が編纂されて以来、この聖書には誤った記載がないと信じること(聖書無謬説)が、聖書の読み方の基本的な姿勢として規定されてきました。またローマカトリックが編纂した聖書は神によって啓示された書である、ともされてきました。
 キリスト教の聖書無謬説では、もし聖書に誤りがあるとしたら誰がどうやってそれを見分けることができるだろうか、神様はそのようなものを人間に与えるはずがない、だから聖書には誤りはなく、神が書かれた啓示の書なのだ、と説明します。
 しかしながら、中世のルネッサンスの頃、こうしたローマカトリックへの批判や、自然科学の急速な発展、啓蒙思想の登場などにより、科学的な聖書研究がなされるようになったのです。
 科学的に聖書を研究していくと、多くの矛盾点が指摘されるようになりました。たとえば天地創造においても、第1章に出て来る第3日に植物が創造され、第5日に魚や鳥が創造され、第6日に動物、そして人間が創造されているのに、続く第2章では人(アダム)が創られた際に地上にはまだ、草木が生えていなかったことになっていて、科学的には矛盾していると言わざるを得ないのです。それにアダムから抜き取った肋骨で女(エバ)を創ったというのも、科学では納得できることではありません。結局近代では、このように矛盾した内容が記載されているのは、幾つかの資料が織り交ぜられて作られたからだという「資料説」が有力となってきています。

 しかし、考えてみてください。科学との矛盾を無視して無理やり信じるのが信仰であるならば、果たして信じる価値があるのでしょうか? また、資料説の方も、相互に矛盾した幾つかの資料がおり混ざっていて、矛盾に満ちているのが聖書だとしたら、聖書そのものの存在意味が揺らいでしまいます。 
 でも、実は聖書無謬説も資料説も、その根本において見逃してしまっている重大な問題があるのです。
 聖書無謬説も、資料説も、そもそも天地創造の物語に記載されている草木は、私たち人間が知っている草木ではないことを忘れてしまっているかのようです。
 第1日目の解釈でもお話しましたが、天地創造の物語で神様が創造された草木の中に、「命の木」「善悪の知識の木」があるのですが、これらの草木は、いわゆる普通の植物のことではないことは明らかです。つまり、このことだけから見ても、天地創造の物語は、単に物質的な世界の創造の物語ではないことが明白なのです。
 そうすると、草木だけではなく、天地創造の物語に登場する、水、空、光るもの、動物、怪物、鳥なども、単に私たちが知っている地上界のそれだとは限らないということに当然なるはずではないでしょうか。
 この当たり前のことに気づくと、ここに記されている天地創造の物語が、今まで見えなかった全く別の天地創造の物語として見えて来るようになるのです。

 では第2の日には、実際には何が創造されたのでしょうか。
 地球の空と海がこのときに創られたのでしょうか。いいえ、そうではありません。地球をはじめとする惑星が創られるのは、もっと後のことなのです。それは後に見ていくと分かります。そして、それがはっきりすると、創世記は資料説が言うような相矛盾する資料の寄せ集めなどではなく、ちゃんと天地創造の真実を記されている物語であることが分かってきます。そして、それが分かると、以降、聖書に書かれている難解な天界の話しや、たとえ話や、「水」や「火」などの言葉の内に秘められている様々な意味などが理解され、聖書が全く別の書のように理解されてくるのです。
 
 第1日で見たように、世界は天界(霊的世界)と地上界(物質的世界)が一致している世界として創造されたという観点から、第2の日に創造されたものを見ればいいのです。ヘブライ語の原典を読むと、そのことがより分かりやすく理解できます。

 神様は「水の真ん中に大空よ、あれ。水と水の間を隔てるように」と言われました。ヘブライ語の意味では、神様は水(原始の生命の塵の海のような状態)の真ん中に「空間」を、まるで金属板を叩いて拡げるようにして拡げ、水を上下に分けられたという意味です。これは神様の第1日目の創造の御業によって「時間」が生まれたと共に、第2日目には「空間」が生まれたことを意味しています。
 この「空間」は、天界と地上界の両方にまたがる空間です。第1日目に「神の霊が水の面を動いていた。」ことについて説明しました。この水は「原始の生命の塵の海のような状態」のことでした。この生命の塵の海のような状態が上と下に分けられた、というのは天界と地上界に分けられたという意味です。分けられましたが、一致している状態です。そうして、これから天界のあらゆるものと地上界のあらゆるものが創造されていくわけですが、天界だけに存在する天使(御使い)のような被造物、地上界だけに存在する被造物、そしてその両方にまたがる被造物が創造されるのです。これが第2の日です。

 そして、第2日目には、とても重要な留意すべき事があります。神様は、この第2の日だけ「善し」とされていないのです。
 神様は第1日も、第3日も、第4日、第5日、第6日も「善し」とされているのですが、この第2日だけ「善し」とされていないのは、なぜなのでしょう? 鋭い人は、もうお分かりになったかも知れません。聖書や、ローマカトリックによって儀典、外典とされた文書に示唆されているように、神はこの第2日に天界の天使たちを創造され、第1日に創造された「光」と共に以降の創造の御業をなされていくわけですが、この第2日に創造された被造物を「善し」とされていないのです。
 ご存じのように、この天使たちの長と、彼に従った者たちによって人は堕落するのです。では、神は善くないものを創ったのでしょうか? いいえ、そうではありません。天使たちは、後に創造されるアダムとエバが正しく支配することによって、アダムとエバによって「善し」とされるべき存在だったのです。もしアダムとエバが天使長と天使たちを正しく支配できていたならば、創造のすべてが「善い」ものとして完成されていた筈だったのです。だから、この第2日だけ「善し」とされないままだったのです。そして聖書は、そのことによって人間に、悟れと教えているのです。目を開いて見なければ、気づかずに読み過ごしてしまいますが、神様は聖書の中にこのようにちゃんと目を開いて見れば分かるように、鍵を散りばめて下さっています。
 ちなみにローマカトリックは、自分たちが正しいと認める文書だけを聖書に編纂し、それ以外のものを儀典とか外典と位置付け、排除しました。排除された文書の中には確かに、にわかには信じられない文書もありますが、聖書を理解する上でとても重要な文書もあります。特に「エノク書」などは聖書を理解する上でも、イエス様が語られた言葉の意味を知る為にも、とても重要な文書です。
 
 さて、聖書無謬節について指摘しておきますと、聖書の中には、実は神ご自身が聖書に誤りが記載されている事を指摘されている箇所があるのです。神が預言者エレミヤを通して、そのことを明らかにされています。

「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした。」(エレミヤ8・8)

「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。」(エレミヤ7・22)


 ご存じのとおり、聖書には主の律法が書き記されていますし、出エジプトのことも、その際に神が焼き尽くす献げ物やいけにえについての細かい規定を命じられている記載もあります。ところが、神様ご自身が書記の記載に誤りがあると言われているのです。
 この1点だけでも聖書無謬説は誤りだと言えるのです。聖書無謬説の「もし聖書に誤りがあるとしたら誰がどうやってそれを見分けることができるだろうか、神様はそのようなものを人間に与えるはずがない、だから聖書には誤りはなく、神が書かれた啓示の書なのだ」という説明は、もはや迷妄だと言わざるを得ません。
 人間は、本当に聖書の中の何が正しいか、何が誤りかを見分けることが出来ないほど愚かなのでしょうか? 
 イエス様は多くのことを「たとえ」で語られ、「聞く耳がある者は聞くが良い」と言われました。弟子たちが、イエス様のたとえ話や、イエス様がされることの意味を悟れないときには、弟子たちを叱られました。それはイエス様が、わたしたちに、目を開いてよく見て悟りなさい、耳を開いてよく聞いて悟りなさい、と教えられているからです。
 私たちは、目を開いてよく見て、耳を開いてよく聞いて、聖書から悟る必要があります。天地創造の第3の日については、聖書にこう書かれています。



創1:9-10
 神は言われた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
 神は乾いた所を地
(ヘブライ語のエレツ)と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。

 この天地創造の第3の日が地上界のことではないことは、6日間に渡る創造の御業を終えられた後の創世記2章で、アダムが創られる際に地上にまだ野の木も草も生えていなかったと記されていることからも分かります。

「主なる神が地と天を造られたとき、地上(ヘブライ語のヴァアレツ)にはまだ野の木も野の草も生えていなかった。」(創2:4-5)

 第3の日に創造される「地」はヘブライ語の「エレツ」で、2章の地上(ヴァアレツ)とは異なる意味の「地」です。
 ヴァアレツは「その土地」という意味で、明らかに地上の土地のことを意味します。それに対して「エレツ」は、「エレツ・イスラエル(イスラエルの地)」などと用いられ、地上の土地というよりは「わが祖国」といった、より精神的な意味で用いられる語句で、エレツを用いる場合は精神的な「地」を意味すると言えましょう。単純に訳してしまうと、エレツもヴァアレツもどちらも「地」となってしまうのですが、ヘブライ語では明確に意図をもって使い分けられています。

 第3の日の「水」と訳されている語句は、第1日や第2日と同様に「原始の生命の塵の海のような状態」のことです。無重力の中に分散されている水と塵が入り混じっているような状態から、神様はそれが水と塵とに分かれるようにされたのです。神様は、水が一つのところに集まるよう言われました。その結果、水が分離された塵による乾いた所が生じました。
 神様は乾いた所を地(エレツ)と呼び、水の集まった所を海と呼ばれましたが、この「地(エレツ)」は地上界(物質界)の地上のことではなく、天界(霊界)が天地に分けられた際の、天界の地のことなのです。
 天界の話なので分かりにくいかも知れません。聖書全体を読んで分かることは、神様はこの世界を天界(霊界)と地上界(物質界)が一体となっている世界として創造されているということです。神様はまず天界を創造され、天界が物質界に反映されるかたちで地上界を創られます。そして人間に、その両方の世界を治めさせようとされたのです。しかし堕落した人間は、エデンを追われて物質界のことのみしか理解できなくなりました。実際は、この世界は物質だけの世界ではなく、天界と地上界とによって形成されている世界であることは聖書全体を読めば明らかです。

 さて、こうして分けられた乾いた所は、生命を産み出す「地(エレツ)」となり、集まった水は生命を産み出す「海」となりました。神様はこれらを御覧になり「善い」と満足なさいました。


創1:11-13
 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
 そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
 夕べがあり、朝があった。第三の日である。


 もちろん、この地(エレツ)から芽生える草や果樹は、堕落後の私たちが知っている植物と同じものではありません。これらの草や果実は、あらゆる生き物や人間が生きるため、また食べるためのものとしても創られたわけですが、その「食べる」という意味も単に物質的な意味ではありません。
 第2章に出て来る「命の木」や「善悪の知識の木」がそうであるように、ここに出て来る草や果実は、あらゆる生き物や人の霊的な成長を促すものとしての草や果実のことなのです。
 聖書の中では、たとえば「雅歌」では人間や人間の体の部位が「ぶどうの木」や「りんご」や「ミルラ」「コフェル」「シナモン」「百合の花」などに譬えられています。他にも、預言者の書ではイスラエルの民のことを「いちじく」に譬えたり、人が「ぶどう」や「オリーブ」に譬えられています。イエス様も、イスラエルの民を「いちじく」にたとえ、弟子たちを「ぶどうの木」に譬えたりしています。
 特にイエス様は、単にイスラエルの民を「いちじく」に譬えているだけでなく、実際に生えている「いちじく」の木や実そのものが、実際のイスラエルと同化しているものとして、とらえているのです。
 このように聖書の中に出て来る「たとえ」は、単なる譬えの意味だけでなく、霊的な意味を有しているものがほとんどなのです。

 堕落後の私たちでも、自然や植物から様々な教えを学ぼうとする姿勢があれば、自然や草木が教えていることに目を向け、耳を傾けるならば、多少なりとも様々な知恵や知識を学ぶことが出来ます。しかし神様は、本当はそれ以上に私たちが様々なあらゆることを知り、それを得て、成長するために、それらを植えられたのです。神様は御覧になって満足なさいました。これが第3の日です。

 「食べる」というのは、知識や知恵を知って自分の血肉とするという意味です。
 天界の地に芽生えさせられた草木や果実の成る木は、あらゆる生き物や後に創造される人間が食べて成長するために、神様が、その種類に従って芽生えさせられました。それらは、人間が天界と地上界を善く治めることができるよう成長するために必要な、あらゆる知識や知恵が得られるように芽生えさせられたのです。そして実は、後にエデンの園の中央に生えいでさせられる「命の木」と「善悪の知識の木」の果実は、アダムとエバが成長の最終段階に至って最後に食べて完成すべき木だったのです。エバはその段階に至る前に「善悪の知識の木」から取って食べ、アダムにも与えて食べて堕落するのですが、その段階に至るまでは決して食べてはならない果実だったのです。
  
 さて、神様はこれらの草や木を、種を持つ草、種を持ち実をつける木として、芽生えさせられました。種を持つ、ということは、それらが種によって自ら増えていくことによって動物たちが食べても十分なだけの草木が生い茂ると同時に、それらの種(穀物)はあらゆる生き物や人間が食べることができるものとしても、芽生えさせられたことを示しています。
 これらの食べ物は、霊的な成長をうながすものでもありますが、この生命の連鎖が地上界にも反映されていくことになるのです。
 しかも神様は、後に創造される人間には人間にふさわしい植物を芽生えさせられ、獣には獣に、鳥には鳥に、地を這うものにはそれに、食べ物として植物を芽生えさせられるのです。あらゆるすべての生きとし生けるものが、神様の手によって創造されて生かされて生きているということを、私たちは常に忘れないでいたいものです。
 天地創造の第4の日については、聖書に次のように記されています。


創1:14-19
 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」
 そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
  
 
この第4日に創造されたものは、第1目の記載に似ています。キリスト教会では、このことについて説得力ある答えを提示することが出来ないできました。一方、「資料説」を唱える学者たちは、この部分を、幾つかの資料が混在している証拠として取り上げてきました。
 これまで見てきましたように、答えは明白です。
 第1日目に創造されたものと、この第4日目に創造されたものとは、明らかに違うのです。
 この第4日に創造されたものは、天界(霊界)に創造された太陽や月や星のことで、それらが地上界に展開されていくものなのです。そのことは、ローマ・カトリック教会が聖書から外して「外典」とした「エノク書」によって理解することが出来ます。
 「エノク書」の著者エノクは、アダムから数えて7代目に当たる人物で、「神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5・24)とされている義人です。「エノク書」はローマ・カトリックによって「外典」とされる以前には、ユダヤ教でもキリスト教でも重要視されていた書でした。また、創世記の著者はモーセではなくエノクだとする説も根強かったのです。
 しかしながら、「エノク書」は天界と地上界について書かれているため非常に難解で、理解できる人は少なかったのです。ただ、「エノク書」は創世記やヨブ記や預言者の書と通じる記載が多く、「エノク書」と照らし合わせることによって、難解とされる創世記やヨブ記や預言者の書がとてもよく理解できるようになるのです。

 「エノク書」では、地上の太陽や月や星の運行が、天界のそれらによって法則付けられていることがわかります。天界の星の運行と、地上界の星の運行はまったく同じではないのですが(天界は時間・空間に支配されていないので当然ですが)、その部分を引用してみましょう。

 「その後わたしは天界の秘密をつぶさに見た。(中略)その場所でわたしは稲妻と雷の秘密を見、また風がどのように分かれて地上に吹くのかその秘密を見届けた。さらに、雲と露の秘密を見、それらがどこから出て来て、どこから埃(ほこり)に覆われた地上を潤すのかを知った。
 それから、風がそこで分けられて出て来る閉ざされた部屋と、雹(ひょう)と風の部屋、霧の部屋、雲の部屋などを見たが、この部屋の雲は世の初めから地上を覆っているのである。また太陽と月の部屋を見た。それらはそこから出て、またそこへ帰ってくるのである。わたしはそれらの輝かしい帰還の様を知り、太陽がいかに月にまさっているか、かれらの整然として壮大な軌道、いかにかれらが軌道を離れず忠実に運行するか、何ひとつ加えることも取り除くこともなく軌道を厳守すること、またかれらが互いに結び合わされている誓約を守って相互に忠実なこと、などを知ったのである。
 まず太陽が出て行き、諸霊の主の戒めに従って自分の道をめぐる。主の御名はとこしえに偉大である。それからわたしは月の、隠れた道と目に見える道とを見た。月はそれらの道を昼も夜もたどって一めぐりする。この二つの道は諸霊の主の御前に対照的な位置を保って相対している。
 太陽と月は感謝と賛美を続けて休むことがない。
 感謝をささげるのは彼らの本性だから。
 太陽は祝福となったり呪いとなったり、しばしば変わる。
 月のたどる道は義人にとっては光だが、
 罪人には主の御名によって暗闇となる。
 主こそは光と闇とを分けられた方。
 また人間の霊を分けて
 義人の霊を、主の義の御名によって
 強くされる。」(41章)

 以上の引用から理解されるように、地上界(物質界)の太陽や月の運行、雷や風の運行は、天界のそれによって規則づけられているのです。
 また、地上界の太陽や月や地球などの惑星たちも、天界のそれと同じように、本当は単なる物質ではないのです。それらは主なる神に与えられた「いのち」を有しており、その「いのち」は意思を有しているのです。
 堕落してから人間は、そうしたことが理解できなくなりました。しかし、堕落後もある程度は天界のことや物質の「いのち」のことを理解できる能力を、人間は有していました。ところが地上を悪や罪が支配していき、時代を経るに従って人間は物質的になっていき、どんどん霊的な能力を失っていったのです。人間は、科学的には進歩したつもりでいますが、霊的にはどんどん退化しているのです。

 第4の日に創造されたのは、天界の2つの大きな光る物(地上界では太陽と月として反映されるもの)と星たちと、それらが地上界に反映される仕組み、そしてそれが反映された地上界における太陽や月や星たちです。
 このことによって、第1の日とは異なる、星の運行によって生み出される昼と夜が生まれます。また、それは何を意味するでしょうか。それは、あらゆる生命の誕生と生育と繁栄の仕組みの誕生を意味します。
 ご存じのように、植物も動物も昼には太陽の光や熱を与えられて生育し、夜は月の光(太陽の反射光)によって生き物は生育します。また月は、引力を司り、引力は地上の酸素の量や気圧を調え、風をもたらし、海の満ち引きや女性の生理現象を導きます。太陽や月や星の運行が生みだす気候の変遷と、生き物の生育のリズムは、季節のしるしとなり、日や年のしるしとなります。

 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」とありますが、最初に出て来る天の大空の光る物は天界(霊界)の太陽のことで、後に出て来る地上を照らす天の大空の光る物は、それが地上界に反映された地上界の太陽のことなのです。

 天界では、天界の太陽や月や星の運行によって、天界における主なる神の祭礼の年や月や時間が定められていて、それに従って義人や天使たちが祭礼をしているのですが、本来は地上でも同じく祭礼がなされるべきなのです。
 主なる神が、出エジプトした民たちに与えられた祭礼の規定は、天界のそれと同じものでした。しかし、イスラエル民族の度重なる不信によって他国に支配されるに至り、正式な祭礼の規定は分からなくなってしまいました。さらにキリスト教は、ユダヤ人がイエス・キリストを殺したとして(本当はそうではありません)ユダヤ教のあらゆる規定を捨て、ユダヤ教の暦も捨てて、グレゴリオ暦(太陽暦)を新たに採用しましたので、地上界における祭礼は、天界とも主なる神とも無関係の祭礼になってしまっています。
 それも、もとはといえば、創世記を正しく理解できていないことが大きな原因の一つだと言えます。

 ちなみに、天界の太陽や月や星は、主なる神に従う人間たちには霊的な「いのち」を与えています。そして、その義人たちがまた、天界の太陽や月や星たちの光に力を与えるという関係になっているのです。義人は霊的な光を照らす発光体ですので、霊界の太陽や月や星たちの光と一体化して、ますます光を照らすのです。
 それとは逆に、罪人の暗闇は、霊界の暗闇(陰府)と一体化し、互いに暗闇としての影響を与え合い、互いにますます暗闇となるのです。
 ここに出て来る「光と闇」は、地上界の光と闇だけでなく、そうした霊的な「光と闇」のことも意味しています。

 本日の創世記の解説の終わりに、この太陽や月や星たちの運行は不変かどうかについて、イザヤ書13:9〜10に記載されている箇所を引用しておきます。

 「見よ、主の日が来る 残忍な、怒りと憤りの日が。
 大地を荒廃させ そこから罪人を絶つために。
 天のもろもろの星とその星座は光を放たず 
 太陽は昇っても闇に閉ざされ 月も光を輝かさない。」

 「主の日」は、もうすぐそこに来ています。
 今の地上の世は、霊的にはほとんど光が発光されていない、暗闇の世が極まっています。しかも人間は、その事実を正しく見ようとせず、目先の物質的な快楽を追い求めています。霊的にも、何が真の光で、何が偽ものの光なのか、見分けがつかなくなっています。
 真の光を照らして今の世を見るならば、世界中がソドム・ゴモラのようであることが見えるはずです。そして人間は、それぞれが「戦争など望んでいない」と言いながら、自分の家族を護るために他人の家族を殺すという利己的な情で美化して、戦争を正当化し、互いに殺し合うという壮絶な最後に自ら突き進んでいるのです。まさに人間が造り出す、この世の地獄です。
 しかし義人には、そのような世は、間もなく終わります。 
 天地創造の第5の日については、聖書に次のように記されています。


創1:20-23
 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。」
 神はそれらのものを祝福して言われた。
 「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
 夕べがあり、朝があった。第五の日である。

 この第5の日、ヘブライ語の原典ではこうなっています。
 
「そして神が言われた。『「水は群がるものを群がらせよ。生きている魂を。また鳥が地の上に、天の大空の表面の上に飛ぶように。』 そして神は、大きな海の怪物を、水が群がらせた這っている生き物の魂を、彼らの種類に従って創造された。またすべての翼ある鳥をその種類に従って創造された。そして神は、その善いことを見た。
 そして神はそれらを祝福して言われた。
 『産めよ、増えよ、海の中の水に満ちよ。そして鳥は地に増えるように。』 夕べがあり、朝があった。第5の日である。


 
まず、日本語で「生き物」と訳されてしまっている語句は、実際には「生きている魂」であることに気付くと思います。これは重大な意味の違いです。「生き物」だと肉体をもっている生物を意味しますが、「生きている魂」だと必ずしも肉体をもっているとは限らないからです。神様が水に命じて群がるようにさせたのは、生き物ではなく、生きている魂です。
 次に、鳥が、地の上と、天の大空の表面の上との両方に飛ぶように、となっていることに気付くと思います。これは地上界の鳥と、天上界の鳥のことを意味しているのです。
 つまり、ここで水に群がるようにされたのは必ずしも生き物ではなく、生きている魂であること。そして、天界の鳥と、地上界の鳥が創造されたことが分かります。

 次に神は、様々な種類の大きな海の怪物を創造され、様々な種類の這っている生き物の魂を創造されます。ここでは「生き物の魂」となっています。これは、魂のある生き物のことです。そしてそれは這っているのです。
 這っている魂のある生き物は、天界と地上界を同時に生きる存在です。大きな海の怪物は、地上界においては後に恐竜と呼ばれるような生物と考えていいでしょう。勿論、それと全く同じでないにせよ、天界にもそうした生き物は存在しています。
 神様はそれらのものを創造されて、善しとされました。そして神様は、このときは単に善しとされただけでなく、祝福されています。
 神様が創造されたものを祝福されるのは、このときが初めてで、第4の日までにはありません。そしてその祝福とは「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」でした。つまり繁殖することを祝福されたわけです。御使いがそうであるように霊的な存在は繁殖しません。ですから、この祝福は霊的なだけではない地上界の生き物を祝福されたことを意味します。地上界で繁殖する生き物は第5の日に初めて地上に創造されたのだということが、このことからわかります。
 
 お気づきだと思いますが、この第5の日、神様は海の水の中に群がるものと、地の上と天界を飛ぶ鳥を創造されましたが、地上にはまだ何も創造されていません。天界の地上にも、地上界の地上にも、何も創造されていないのです。地上界のものが創造されるのは、第6の日なのです。
 この事は海に群がるものと鳥が、第6日に創造される地上のもののためにこそ創造されたものだ、ということを意味します。神様は第6日に創造される地上のもののためにこそ、第5日までのすべてのものを創造されたのです。そして第6の日に創造される地上のものこそ、神様が最後の最後に創造されるものなのです。すべてはそのために創造されました。

 こうして創造された天界と地上界の詳しい様子は「エノク書」に事細かく書かれています。天界の山々の様子や、神様の玉座、東西南北にある宝石で出来た山々、天界の鳥や動物、御使いたち、水の泉などなど。このことについては、次回の第6の日で述べたいと思います。
 天地創造の第6の日について、聖書に次のように記されています。


創1:24-31
 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
 そのようになった。
 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものを創られた。神はこれを見て、良しとされた。
 神は言われた。
 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神はご自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。
 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。
 神は言われた。
 「見よ、全地に生える、種を持つ草と為を持つ実をつける氣を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
 そのようになった。
 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて善かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 
まず、最初の、神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」 ですが、ヘブライ語原典では、神は言われた。「地は、その種類に従って生きている魂を生み出すように。家畜と地を這うもの、地の生き物をその種類に従って」です。日本語で「生き物」と訳されいる語句は、「生きている魂」です。そして、ここで使われている「地」はヘブライ語のエレツで、必ずしも地上(ヴァアレツ)という意味の「地」ではありません。地上界の「地」ではなく、天界の「地」も含めての「地」です。
 「家畜」「と訳されている日本語は、ヘブライ語でも同じ意味をもっていますが、ヘブライ語では「草食動物」という意味です。草食動物が人間の家畜になるのは、もっとずっと後のことですから、ここでは「草食動物」と訳す方がいいでしょう。神様は、魂を持つ生き物を天界の「地」に生み出すわけですが、それは地上の生き物としても展開されていきます。天界にも、草食動物は存在するのです。それらが存在するから地上界にも展開していきました。
 そして、地上界に展開していくことになる「生きている魂」である草食動物たちを見て、神様は善しとされました。
 
 そして、続いて神様は言われます。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 ヘブライ語では、「わたしたちは人をわたしたちの像に、似姿として創ろう。そして彼ら(人)は治める。海の魚と、天の鳥と、全地の草食動物と、そしてすべての地の上を這っている這うものを治める。こうして神様は、人を御自分の像に創造した。人を、男性と女性に創造した。」です。

 さて、神様は遂に人を創られます。神様の像として、似姿として、男性と女性とに創られるのです。このことから、神様は男性と女性の両方を具有しておられる方だということが分かります。後に分かることですが、神様は男性と女性の両方を具有していますが被造物に対しては「父」として在られるお方です。
 ここでの記載で見過ごすことができないのは、人は男性と女性が同時に神様の似姿として、神様の像として創られていることです。男性と女性が一体で神様の似姿なのであり、神様の像なのです。
 ここで創造された人(男性と女性)は2章以降に登場する「アダム」と「エバ」ではありません。ここでは、人はまだ神様から「命の息」を吹き入れられていません。人は霊と肉を持ち、神様が創造された天界と地上界が一つとなっている世界で、天界と地上界にまたがる神様の像として創られましたが、神様から「命の息」はまだ吹き入れられていないのです。また、もしこの男と女が2章のアダムとエバのことだとすると、アダムとエバは神の命令に背いて堕落するのですから、神様が第6日に創造されたものを「極めて良かった」とされている上に、6日にわたって天地万物が完成された後の第7日にすべての創造の仕事を離れて安息され、第7の日を神様が祝福されて聖別されたのも、おかしなことです。
 アダムとエバは、神様が6日にわたる天地万物の創造の仕事を完成されて第7の日に安息された後に、堕落したのです。アダムとエバの堕落が第6の日だとすると、堕落した人類の歴史は現代まで延々と続いていますので、第7の日はいまだに来ていないことにもなってしまいます。このことについては2章以降の真相で詳しく述べます。
 天地万物は6日で完成され、主なる神は第7の日に創造の仕事を離れられ安息なさったわけですが、人にはまだ成さなければならない事がありました。それは、神様が人に「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
と言われていることから分かります。人は、あらゆる生き物(生きている魂)を支配するものとして創られたのです。あらゆる生き物たちと同等の存在であっては、彼らを支配することはできません。人は、彼らを治める存在になる必要がありました。人がそうなるために神様は、あらゆる生き物に食べさせるものと、人にだけ食べさせるものとを、別に与えられるのです。そのことについて見ていきましょう。

 神様は彼ら(人の男性と女性)を祝福されました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
 この祝福は第5の日と同じく、繁殖の祝福です。後に神様から「命の息」を吹き入れられる前に、人は繁殖していきます。そうして繁殖していった中のひとりに、神様は「命の息」を吹きれられるのです。それがアダムです。アダムとエバ以前に、神様から「命の息」を吹き入れられていない人間が存在していたならば、人類の誕生は6000年前ではなく、もっと前ということになり、科学とも矛盾しません。
 科学では、人類の起源は6000年前ではなく、もっともっと前であり、人は原人からクロマニヨン人、ホモ・サピエンスへと進化していったと説明しますが、その進化のシステムを創造されたのは神様であり、神様はその進化の過程で人に「命の息」を吹き入れられたのです。
 キリスト教が永く説明できないでいた他の疑問、すなわち、カインの妻は誰の子なのか、カインは誰に殺されることを恐れたのか、などの疑問に対する答えも明白です。アダムとエバの他にも、人はいたのですから、カインは神様から「命の息」を吹き入れられていない人に殺されることを恐れたのであり、またそうした人の中から妻を迎えたのです。
 
 次に神様は言われました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」

 ここで神様は、人には「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」を食べ物として与えよう、と言われています。そして、他のあらゆる生き物には、あらゆる青草を食べさせよう、と言われています。神様は、あらゆる生き物の食べ物とは別に、人にだけ「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」を食べ物を与えられました。
 もちろん、これは人が肉体を養うために与えられた植物や木の実のことではありません。これが人の肉体を養うための植物や木の実のことだとすると、おかしなことになります。
 すでに神様は、第5日に創造した、水に群がるもの、大きな怪物、うごめくもの、翼ある鳥などが産み増えて繁殖するよう、祝福されています。食べ物がなかったら繁殖はできません。第3の日で説明しましたが、第3の日に創造された植物は、天界から地上界へと展開していくように創られていました。ですから第4の日に天界に創られて地上界へと展開する太陽、月、星たちが創られると、植物は地上に展開していき、第5日に創造された水に群がるもの、大きな怪物、うごめくもの、翼ある鳥などが繁殖するための環境は整えられていたのです。
 ですから、この第6日に人に食べ物として与えられた「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」は、単に、人が肉体を養うために食べるための草や木の実のことではありません。ここで言われている「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」とは、むしろ人の霊を成長させるためのものなのです。
 実は、この「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」は、2章に出てくる「野の木」や「野の草」とも異なるものとして記されています。この段階でまだ「野の木」や「野の草」は生えていませんでした。つまり、これらは「野」のものではない木や草です。
 「野」というのは「野生」という意味ですから、この第6日の「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」は野生ではないのです。野生ではなく、神様が人のために用意されたものです。

 「エノク書」に、こんな場面があります。

 「第7の山は中央にあってどれよりも高く、玉座のような形をしていた。そして芳香を放つ樹が玉座を取り巻いていた。それらの樹のうちの1本はかつてわたし(エノク)が嗅いだこともない香りをもっており、周囲の樹々や、ほかの同様の樹とも違っていた。その香りはあらゆる香りにまさり、その葉も花も幹も永遠に枯れることがなく、その実は美しく、なつめやしに似ていた。
 (中略)
 そこからわたしは東に向かい、荒野の山なみの中にすすんだ。すると人の住まない、寂しい土地があり、多くの樹や草が生えていた。そこには上の方から水がほとばしっていた。あの、東北に向かって流れていた豊かな水の流れのように、その水はほとばしって至る所に雲と露を立ち昇らせていた。
 わたしはそこから荒野の別な場所に行き、この山脈の東側に出た。するとそこには乳香と没薬の香りを発する芳香樹があり、それはまたアーモンドの樹に似ていた。
 そこを過ぎて更に東にすすむと、また別の場所があり、水の流れる谷であった。ここにも芳香を放つマステックに似た樹があった。谷の両側には香りの高い肉桂が見えた。わたしはもっと東に進んだ。
 するともう一つ山脈があり、その中には林があって、そこからはサララ(ツァーリ)およびガルバンという名の甘露が流れていた。この山脈の向こうにもう一つの山が地の果ての東にみえた。その山にはアロエの樹があり、アーモンドの樹に似ているが、どの樹も没薬になる樹脂をいっぱい出していた。それを燃やすとどんな香の香りよりも甘美な香りを放つのであった。
 このよい香りを嗅いで、わたしが北の方に目をやると、そこには七つの山があり、その山もナルド(甘松)や芳香樹、肉桂、胡椒などがたくさんあった。わたしはそこからこれらの山々の頂上をみな越えて地の東の方に行き、エリトリア海の上をはるかにすぎて、天使ゾティエルが守護している門をすぎた。そして「義の楽園」についた。多くの樹の向こうに巨大な樹がたくさん茂っており、すばらしい香りを放ち美しくかがやいていたが、そこには知恵の樹もあり、その木の果を彼らは食べて素晴らしい知恵を得ているのであった。」(24〜33章)

 神様が人に食べ物として与えられた「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」というのは、人がそれらを食べて様々な種類の知恵や知識、教えを得て、魂を成長させるためのものなのです。この「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」は、人の他の生き物には与えられませんでした。地の獣、空の鳥、地を這うものなどには、青草を食べさせるようにされたのです。その意味は、あらゆる動物たちの中で、人だけが特有の知恵や知識を得るようにされたという意味です。もちろん動物たちも、それぞれの本能、それなりの知識や知恵は生きていく上で身につけるものですが、人は動物たちのそれとは異なる特有の知恵や知識を得られる存在として、神様はそれを与えられたのです。そうすることによって、人があらゆる生き物たちを支配できるようにするためにです。
 
 こうして神様は、お創りになったすべてのものを御覧になりました。それは極めて良かった、と記されています。こうして、夕べがあり、朝がありました。第6の日です。
 神様が創造された世界に、天界と地上界の区別はなく、天界と地上界を隔てるものはなく、天地万物は一つの世界として創造されました。

 
 もう一つ、長い間、キリスト教会で議論されてきたことがあります。それは、この第6日に神様が言われている「我々」の意味です。
 第1日目の創造の真相を覚えておられる方には、もうお分かりだと思います。御子である「光」、後に肉体を持って地上に現れる御子が、神様と共に創造の御業を果たされたのです。神様は、最初の言葉=光=命=後にイエス様として地上に来られる方を創造されて以降、次々に言葉を発されて創造の御業を成されているわけですが、そのことはつまり、後にイエス様として来られる方が、神様の言葉として神様と共に創造の御業を成されたことを意味することになります。
 神様は第1日の創造の最初に御子(=言葉=光=命=後にイエス様として来られる方)と共に創造の御業をなされているのですから、神様が御子と共に「我々」と言われても何ら不思議はないのです。


    創世記2章

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